松永と桃介の「仲違い」一考

 X(旧Twitter)で「自分は桃介と松永の仲違いが好きで……」と一人で壁打ちをしていたところ、「桃介と松永の仲違いとは具体的にどのようなことか」というありがたすぎるご質問をいただきました……。
 全力で……答えるしか無い、オタクとして😭
 そういうわけで、自分の考えを述べようと思います。

はじめに

 まず初めにお断りしなければいけないことがあります。それは、私は未だ浅学で、「非常に恣意的な」目的で資料を読んでいるので、「事実に対して多分に想像力を働かせる」癖がある事です。つまり、一を聞いて十を書いているような部分もあるかもしれません。加えて、私は経済小説家である小島直記──松永安左エ門に深く心酔し、人生で四度松永の評伝を書いた男──を通じて松永安左エ門に興味を持ったために、多分に彼の影響を受けています。私の松永と桃介に対する視線は、所謂「小島史観」とも言っていいものであり、きちんとした同時代資料や本人の回顧に充分に当たった上での考えでないことをお許し下さい。また、私の話を聞いて「それは別に仲違いでは無いのでは……?」とお思いになったとすれば、恐らくその感想は全く正しいものだと思いますし、私としても、そう言っていただいて構いません。人間関係の解釈は十人十色です。

 そして、ここで言う「仲違い」とは、二人のうちの少なくとも一方が「お互いの意見、将来への展望が食い違っていることを理解し、道を違えた」ことを指すものです。このため、はっきりとした抗争や殴り合いを含むものではありません。

 以上を踏まえた上で、以下、桃介と松永の関係について語って行こうと思います。
 []はその記述の背景にある参考資料の番号です。最後に脚注として一覧があります。

 

何を指して仲違いだと言ったのか

 まず何を指して仲違いだと言ったのか。ここで一つ……また再び謝る必要がありますが、桃介と松永は「一つの事件で決定的に仲違いした」のではなく、「幾つかの事件を経て仲違いした」と考えています。
 第一に「明治36年、桃介が松永の石炭取引の荷為替の保証人になることを頑なに拒んだこと」[1]
 第二に「明治40年、松永が桃介と共に手を出していた株投機で破産し、さらには火事で自宅が全焼し、心変わりをおこしたこと」[2][3]
 第三に「大正2年、松永がまとめた競合相手との和解案を、桃介が一言で破綻させたこと」[4]
 以上の3つを通じて、松永は桃介と仲違いし、独立の意志を持つようになったのではないかと考えています。松永の回顧録『自叙伝』においても、第三の事件もって、はっきりと「(桃介さんのことを)その頃から私とは考え方に相当開きがあることを意識しはじめた」と書いています。

 

なぜ仲違いしたと判断するか

 なぜ私がこれを持って二人が仲違いしたとそう思うか、それはこの事件を機に松永と桃介との間に2つの変化が生まれたように思うからです。

1、松永が桃介のやり方を批判的に見るようになったこと
2、松永が株主家的な桃介から距離を置き、実業家として専念するようになったこと

 松永は大学を卒業してからこの事件まで、概ね桃介の指示によって働き、まさしく股肱のように傾倒していました。就職で振り回されたり[5]目玉を食らったり[6]「丸三商会」や「福松商会」にしても、所謂ブローカー、相場に左右される”山師的な”商売で(ただし、よく言えばこれは卸売業)、実業に根を張った仕事ではありませんでした。また、桃介と同じように株の投機もいくつかやっていました。[2][3]
 それが、上記の仲違いのような事件を経て、明治四十年代を機に明確に変化していくのです。
 まずは松永自身も書いているように、「実業」に軸足を置くようになったことです。彼は株投機や卸売業から足を洗い、以降革工場を経て電力会社に専念して働くようになりました。そしてまたこの電力会社に専念し始めた時代に、桃介の姿勢を遠回しに批判するようなことを書いています。[7]

 また、この壮年期以降の松永が人を批評するとき(とはいっても、壮年期以前の松永の文を私が知らないのもありますが)、事業、仕事、なにか物事に専念する人間に対して好意を持ち、投機的であったり貸金ばかりの広く浅い人間には批判的な一面が見られます。[8]
 本人も非常に研究家肌で、仕事のための研究を怠らず[9]、趣味においてもその博識ぶりには一目置かれていました。[10]
 その一方で桃介は「気まぐれ、天才的閃き」が枕詞であり、事業に専念するタイプではなく、とにかく「これは儲かるな」とおもった事業に金を出し、自らはその技術や経営を他者に一任して深入りしない人間でした。一時期は「桃介いなくして新しい会社はできない」などという言葉も出るほど彼は有名でしたが、裏を返せば、一つの会社、事業に専念せず、あらゆる業界に手を出していたことを感じさせられる言葉です。[11]
 つまりは松永と桃介の事業に対する姿勢はまさに正反対のものであり、そして松永の好みの財界人とは、桃介の姿勢とは異なるものでした。

 かつて桃介を尊敬して傾倒し、彼に付き従っていた松永は、明治四十年代を機に、桃介とは異なる経営思想を抱くになっていたことが伺えます。
 
 

昭和期の2つの対立による不仲説の流布

 この経営思想の違いは徐々に表面化してゆき、大正十一年に桃介がその経営に大きく関与していた(実質的に経営を指揮していたのは桃介の女房役の下出民義。しかし、経営を傾けたのは経営責任者の桃介の政治性が産んだ地元民との対立が原因であるというのが一般的か?[12])名古屋電灯と松永の指揮する九州電灯鉄道が合併して生まれた東邦電力が生まれた際には、松永の経営方針が独裁的であるとして、桃介の元部下と争いが起こり、その内にお互いの経営を、遠回しではなくはっきり批判するような姿勢が現れ始めるのです。[13][14][15]

 また、昭和三年頃から始まった「電力界の東京侵入戦」でも、桃介と松永は対立的な関係に見られます。
 これは当時、東京周辺で支配していた五大電力会社の東京電力において、その経営者若尾璋八が政友会の議員として政治活動をやっており会社の金を半ば政治資金に流用していたことと、関東大震災で東京電力は電柱、電灯の破壊で大きな損害を被ったことと、2つの弱点ができていたところへ、東邦電力(九州電灯鉄道と桃介の名古屋電灯(発電部)を合併したもの)率いる松永が、東京電力の配電地域に営業をしかけてその顧客を奪おうとしたことを発端とする争いです。[16]
 しかし、松永の東邦電力と池尾の東京電力は、双方ともに三井銀行をメインバンクの命綱としていたので、三井銀行の池田の介入によって、東電と東邦を合併させる工作が行われ、松永の侵略計画も頓挫してしまいます。
 そしてここにおいて登場するのが桃介であり、彼はなんと若尾の側について合併に反対する運動を起こしたようです。[17][18]若尾は東邦との合併に際して池田から経営陣からの引退を迫られており、松永・池田の双方から追い詰められていた若尾陣営に、松永と親しかったはずの桃介がついて運動をはじめたことは外部からは奇特に映ったようで、同時代の世間は「桃介は子分だった松永の動きが気に食わないからこんなことをしている」というような批判がちらほら見えます。
(ただし、東電東邦合併問題における桃介の動きは、同時代資料だと豊富に描写されているわりに、松永の回顧、や介入者の池田成彬による回顧だと桃介にふれる部分が無いので、どこまでの真偽があるかは……微妙です)

 こうした2つの事件を通じて、世間では桃介と松永の関係がすでに破綻して、不仲になっているというような噂が流れました。

 

実際の関係
 ただし、二人が本当に不仲であったかと言うと、そこは違うと思っています。
 まず、松永が明治四十年に心変わりを起こし、福博電気鉄道のために九州へ行った後、友人の小林一三のためにある収賄事件を起こした時、桃介が松永を助けようとしたことです。[19]勿論これは福博電気の指導者である松永がいないと経営がゆかないから、という見方もできますが……オタクとしては、やっぱり桃介も松永にきちんと情があるという風に見てしまいます🥺
 次にこれは真面目な理由として、大正後期〜昭和初めにおける二人の対立の裏で、彼等は幾度も私的な会合で顔を合わせて友人づきあいをしているからです。おそらくその例は数多くあげられるでしょうが、その代表的なものの一つは「中央亭」の昼食会でしょう。[20]これはおそらく大正十年代から昭和十年代まで続いていた財界人の会合で、桃介も持病で引退するまではほとんど毎日昼食ついでにこの会合に参加しており、松永もその一座にいたことが分かります。この会合は、いわゆる情報交換や社交の場というよりも、財界人達が個人的に集まってただ好きにおしゃべりをするための場所であったらしく、松永の回顧では桃介もこの一団に加わって非常に楽しそうに騒いでいる様子が伺えますし、また、その描写を通じて、松永自身も楽しんでいたのだろうと感じられます。年に似合わないくらいの騒ぎぶり(松永、桃介共に五十代以降)に二人が同時に身を投じている様子からは、到底不仲だとは思えません。
 そして、松永は桃介が引退して病床についてからも、桃介の家を訪ねていることです。不仲であれば、未だ現役で忙しい松永が、土産物をもってたずねることも無いでしょう。[21]

 

私個人の意見
 さて以上が桃介と松永の「仲違い」の経緯なわけですが、私はこれを悲劇だとは思っていません。むしろ、こうした桃介との相克があったからこそ、松永は桃介から独立し、遂には戦後までを生きて「電力の鬼」と称されるまでの大人物になったと考えているからです。
 慶応を卒業したばかりの松永は、特にやりたいこともなく桃介についていき、そして桃介のもとで商売をしていても、行き当たりばったりの行動が多い人物でした。しかし、桃介との意識の違いを感じて、悩むようになってから、彼ははっきりと「自分は実業家になるべきだ」という意識へと変化していきました。強い決意を持って経営に挑むようになってから、彼は、彼を褒める第一番の言葉でもある読書を通じた自己研鑽をするようになり、これが彼に十年先の経営の検討できる見識を与えたと見ています。
 つまりは、松永の中の「桃介と自分は違う」という強い意識が、後年の彼を形作ったように思われるのです。そして、主流を嫌い、財界の中で留まった桃介のスケールを越えて、松永は政界にまで影響をあたえる大人物となって、後世にその名を轟かせました。

 私にとって、人間関係の最も素晴らしい形とは、上下関係ではなく、対等関係です。
 松永は、桃介に反発心を抱いたからこそ、彼から独立し、対等な位置に立ったのです。そしてそれは、一人松永のためだけではなく、名古屋電灯の危機を救って、桃介を助けることへも繋がりました。ただの桃介の部下というだけでは、名古屋電灯内部の反発を抑え込んで、ついに東邦電力でもってかつての業界の覇者東京電力へ攻め入るほどの存在にすることはできなかったでしょう。東邦電力を率いていた頃の松永は、もはや業界の英雄の一人であり、「かつて」桃介の子分だったと見られても、「今でも」桃介の子分だと見る人間はほとんどいなくなっていました。

 しかしその一方で、松永は、桃介と友人として付き合い続け、晩年まで彼の傍にいました。幾度と桃介に裏切られても、松永は、その権勢を失った晩年まで桃介のそばにいること、半分師弟関係を残したような親友であり続けることを選択しました。松永はもはや桃介の部下でなくても、桃介の力を借りなくてもいいほど、財界で確固たる地位を築いていたにも関わらずです。
 ここに人間関係の真骨頂があるのです。
 相克を経験して、一種の失望を感じても、松永は桃介を、一人の人間として愛していました。彼は桃介の死後、その姿を「損な道を殊更選び、その損な道を氏独特の気性と才智で踏破して来られた」[22]と評しています。松永は桃介の生き方に同情し、だからこそ、晩年の萎れてしまったような桃介を見ても、その傍にいることを選択したのではないかと考えています。

 

終わりに 
 でも……改めて調べ直して思ったんですが……これは決定的な仲違いと形容するのは……詐欺、かも……🤔強いて言っても松永が一方的に桃介に幻滅したと形容するべきでは……🤔

 あと本当にすいません。桃介が東京海上で脳卒中(?)で倒れた時、「安さん、安さん」と言って松永を呼んだという逸話が本当に沼沼沼で是非入れたかったんですけど、ちょっと元ネタを見つけることができなかったので断念しました……。
追記:大変ありだたいことに、この部分の記述をXの松永+桃介推しの先輩から教えていただけました。やっぱりどんな世界でも教えてくれる先輩よりも有り難いものはありません😭[28]

 もう自分の浅学ぶりを身にしみて感じるばかり‼️😭ほぼNDLで読める二次資料以上の文章しか引いていません!松永とか桃介に関する論文も全然読んでいない……😢これからも……精進します……😭

 この他にも色々述べたいことは思い浮かぶのですが、余りこれ以上書きすぎると、話がとっ散らかって輪郭が見えなくなってしまうので、ここで筆を置きます。

 

ご感想いただきましての追記
 質問して下さった方から大変真摯な返信を頂き喜びに感涙したことに加え、その中の御意見から、いくつか説明を加える必要があったなと思ったので、ここに書き加えて置きます。

桃介にとって松永の独立はどのように映っていたのか?
 質問者の方は、桃介ならばきっと松永の独立を喜んだのではないか、と提起してくれました。
 私も、確かにそうだと感じます。桃介は基本的に去る者追わずの男(少しばかり悔いを感じるとしても)であると思っていますし、間違いなく石炭ブローカー時代の松永よりも、それ以降の松永の方が好きだったろうと思います。本文ではかけませんでしたが、桃介の好みの経営者は、基本的には松永と同じ、一つの仕事に専念する職人気質な男です。荘田平五郎、佐々木勇之助、武藤山治……。[23][24]

東京電力での桃介の動きに関して
 質問者の方から、東京電力での桃介の動きの報道は、あくまで東京財界側の工作である可能性もあること、そして真実だったとすれば、桃介の動きは松永に対抗するためではなく、松永を思って彼が財閥側にやり込められるのを止めようとしたものではないか、という2つのご指摘を頂きました。
 前者に関しては、その可能性は本当にあると思います。桃介側の動きに関して、確たる証拠や回顧は無く、ほぼ全てが伝聞に尽きています。
 後者に関しては……あの〜……最高の考えだと思います‼️😭
 この周辺の資料にも幾つか言及がありますが、この頃の松永は、身内だと思っていた先輩の池田に、大阪時代からの親友の小林一三を盾に逆手を取られ、合併案にギュウギュウ言わされて涙した時期です。[25]そこに桃介の中上川の対立を幻視する、まさに天才の閃きです。そのために桃介が止めに入る、もう……もう……桃介、素直に、この時の気持ちを、教えてくれないか?そういう気持ちでいっぱいになりました。
 すごくいい解釈だと思います。すみません、ちょっと興奮しすぎて小学生並の感想しかでてきません……😭

桃介が財界のスケールに留まったと書いたこと
 ここに関しては、少し桃介側の擁護というか、個人的に、これは桃介を下げるような文章というより、寧ろこの姿勢に桃介の素晴らしい人間性があると思うので、書き足そうと思います。
 なんというか、この政治への姿勢は、桃介と松永では人間づきあいと世間への態度の根本の姿勢が違う、ということが如実に現れている箇所だと思っています。
 桃介は、最後まで「反財閥・官僚」的な姿勢を貫こうとし続けました。対する松永は「反官僚」という姿勢では一致していますし[26][27]、「反財閥」の部分にも、一部共鳴してはいましたが、しかし、三井の棟梁・池田成彬や益田孝、山本条太郎の元に出入りし、茶道を通じて政財界の大物に積極的に接近しました。つまりは、松永は「反財閥・官僚」の気があるとしても、「財閥・官僚」とそこに属する「人間」は切り分けて考え、その「人間」を利用する心持ちがあったということです。
 その点で言えば、桃介は余りにも純粋すぎる反発心をもっていたために、彼等と付き合いはしても、深い関係になることは避け続けました。個人的には、やはり桃介は、(桃介から見て)馬鹿な政治家共を見るに絶えず、自分が政界へ出て世間を変えたいという野心と、その一方で、政治のために財閥に近づいて、こんな馬鹿な政治家共と同じ壇上には立ちたくないというプライドと、そこの2つで大きな葛藤を抱え続けていたのかなと思います。
 桃介が自身や会社のオフィスに東京海上ビルを選んだのも、一つには、東京海上ビルが丸の内の東京駅の直ぐ目の前にあるからということもありますが、この財閥の反発心にも一端があると思っています。
 当時東京海上は、三菱財閥の系列かつ、世界一の保険会社でありながら、三菱から冷遇され、激しい喧嘩をおこし、遂には上司の三菱側を折れさせた会社でした。また、東京海上の事件を握っていた各務鎌吉は、三菱の総帥、岩崎久彌の従姉妹の夫、つまりは岩崎家の血縁でありながら、岩崎家に対し「金持ちは嫌いだから、葬式と結婚以外で俺を岩崎家に呼ぶな」と通告したほどのへそ曲がりでした。そうした東京海上と各務の姿勢に一種好感を持って、桃介も東京海上を選んだんじゃないかなと思っています。すみません、各務と桃介の関係が好きでちょっと横道に逸れて語ってしまいました😢
 しかし、私は桃介のこの潔癖とも言えるような反発心というものが本当に大好きです!どんな行動をしたものであれ、一本の芯を持ち続ける意志のある人間ほど偉大な者はありません。その点で、桃介は本当に格好良い男だと思います。

松永は桃介から「独立」したのか
 すみません、もうこのページで何回謝った?という感じですけれども……大変申し訳ありません。ここも私が勢い余って松永が桃介のスケールから飛び出したことを強調するために、精神的にも桃介から独立したように書いてしまったので、ちょっと訂正させていただきます。
 松永は、『中央公論』に寄せた一文の中で桃介と自分の関係を「いう所の親分子分の関係でもあれば、仕事を習った事から言えば師弟の関係でもある」と書いています。そして、戦後の回顧録の中でもそういうことを幾度か書いています。
 私としては、わざわざこの関係を自ら幾度と持ち出し、また、「あった」ではなくて「ある」と書いている部分から、晩年まで、彼はあくまでやはり「桃介の後輩」としての意識を持ち続けたことは明らかだと思います。

 

参考資料
(URLのあるものはネット上で閲覧可能なもの)

[1]
小島直記「商船」『松永安左エ門の生涯』403-412頁
松永安左エ門「平賀さん真っ赤に怒る」『自叙伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1030744/1/71)
 三井銀行からの荷為替の融資の保証人に桃介の判を求められた松永は桃介に対して「貴方が保証してくれないと自分は身代限りで死んでしまう」と訴えたが、桃介は「ならば身代限りし給え、死に給え」ととりつくしまも見せなかったという事件。
 ただし、松永はこの事件の前に、松永は石炭ブローカーとしてかなり危ない橋をわたった事件(石炭商の談合破りであわや暴力沙汰に発展した)を起こし桃介から激怒された事に加え(松永『私の履歴書』307-308頁)、その事件で大金を手にした松永は放蕩三昧であったという。北炭に復職して比較的真面目に働いていた時代の桃介が、当時の松永の姿勢に対してあまり快く思っていなかったのは当然のこととも同情できる。
 小島直記が松永を論じる際には、この事件の桃介の態度を見て、松永が桃介との間に決定的な感情の齟齬をきたすようになったと強調的に描いている。

[2]松永安左エ門『私の履歴書』310-312頁
 明治四十年代、松永は株相場で大敗して破産し、さらには大阪角田町の本宅が全焼、彼が大切にしていた恩師福沢諭吉の書もここで燃え尽きてしまった。
「石炭は下がる、株はガラ…(中略)…自宅は火事と悪いことが重なったが、逆境におちてみると潜んでいた一つの人生観が頭をもたげてきた。
 (株相場で)五、六百万ほどつかんでやろうということの目的は、金がほしいからに違いなかったが、それだけあれば独力でかなりの生産事業がやれると思ったからであった。…(中略)…自分でいうのも変だが、金もうけは手段で、目的ではなかったものの、その反面にもっと根本の問題、人間本来の姿やあり方、自己と社会の関係、自分の趣味や学問などについてのかねての反省が、急激に頭をもたげてきた。…(中略)…
 根がおうちゃくなのか、裸になったことはたいして苦にならなかった。それよりも…(中略)…自分の意志薄弱から、読書なども怠りがちで、学校を出て以来自分の知識や学問がいっこうに進んでいないことの方が悲しかった。
 人間は商売をするために生まれたものではない。金をためるために生まれたものでもない。…(中略)…(自分の人生は)多かれ少なかれ、人の、社会のお世話になっている。そう考えると、今後の自分の行動は、国家社会にできるだけ奉仕することが必要と思うようになった。…(中略)…
 (中略)…もう一度、自分を見直すことにした。明治四十年のことである」

 国家社会にできるだけ奉仕することが必要と思うようになった、という考え方はまさしく、「気の毒な性分の持主(松永安左衛門君)」の中に見えた、「世間をバカにしてはいけない」という考え方にも通ずるように思える。ただ、「松永は時代で言うことを変える」というような批判もいくつか見られるので、この晩年の記述を鵜呑みにするのは危険でも……ある。

[3]ダイヤモンド社編「福澤氏座談會」『経済座談』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1171453/1/38)
 松永が桃介と同じ株に手を出していたが、桃介が売り逃げで大儲けしたのに対し、松永は(おそらく)買いで負けて借金を背負うことになった話。桃介は松永に売る機会を言わなかったことが分かる。

[4]松永安左エ門『私の履歴書』322頁
「桃介は私とは別の考えからやったことであろうが、その頃から私とは考え方に相当開きがあることを意識しはじめた」
 明治45年頃、松永が北九州の交通と電力(当時、鉄道会社が電力会社を兼ねる例が幾つかあった)を一元化しようと九州電気鉄道を買収し福博電灯に合併(九州電鉄)させようとした際、地元の有力者、安川敬一郎、麻生太吉などに反対された。松永はなんとか彼等との争いを切り抜ける。
 しかし今度はその新しく生まれた九州電鉄と、九州電水が電灯供給権をめぐって争いになり、ここでは安川が仲介人として登場、松永と九水の間にたち、共に和解案を纏めた。しかし、最終確認のために九電の最高経営責任者の一人である桃介と安川との会談が始まると、桃介は冒頭でいきなり「あの話(配電を巡る和解案)はいっさい辞めた」と言って出ていった。安川は桃介の態度に裏切りだと言って激怒、松永の面会も拒絶し、和解は破綻、二社は激しい紛糾を起こした……という事件に対する松永の感想。
 松永としては、名古屋にいて北九州での自分の苦心をよく分かっていない桃介が、折角自分が纏めた和解案をたったの一瞬でぶち壊したことに、怒りを感じていたであろうことが言外にうかがえる。

[5]松永安左エ門「東京で大目玉頂戴」『自叙伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1030744/1/40)
 当時としては大金の二万円の先物買い取引を独断で行ったことを桃介から叱られちょっとへこむ松永。

[6]松永安左エ門「日銀を飛び出す」『自叙伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1030744/1/31)
 卒業後の進路を決めていなかった松永は、桃介の気まぐれに振り回され、俺と水力をやろうと言われたり日銀に行こうと言われたり、挙句の果てには日銀を辞めて俺についてこいと言われたり……。

[7]城北隠士「事業家としての福澤桃介を評す」『実業の世界』(https://dl.ndl.go.jp/pid/10292802/1/47)
 松永が匿名で雑誌に送った、桃介を「事業家として」擁護する文章。次号の後書き(https://dl.ndl.go.jp/pid/10292803/1/99)を見ると、松永が遠回しに桃介の姿勢へ反省を促そうとしていたことが分かる。この雑誌は桃介も頻繁に寄稿していた雑誌であり、桃介に読ませようとしていた側面もあったか。松永はやはり一貫して桃介の投機的な態度に不満に持っていたように思われる。

[8]松永安左エ門「財界の自然兒・淺野と野口」『私の人生読本』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2935331/1/44)
 これはあくまで松永の経営者評価のサンプルですが、松永は事業に熱中し朝から晩まで現場と事務所を行きかいする浅野総一郎を評価し、対して浅野に金を貸す安田善次郎に対してはやや冷やかな文調(「安田は高い金利で儲けたかもしれないが……」云々の皮肉)を見せている。個人的に、松永は実業家に同情し、株主的な立場に構える人間に対して一種の反感を持っているように思える。

[9]石山賢吉「松永安左衞門氏のこと」『先人に学ぶ』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1259147/1/41)
 財界の代表的批評家の一人、石山賢吉(『ダイヤモンド』創設者、桃介と親しい)の松永評。松永の読書研鑽を怠らぬ姿勢、そして鞍山製鉄(いまだ未開発の中国東北部、所謂満州)の技師を指して「国威のために故郷を遠く離れ、世俗を忘れて困難な研究に打ち込んでいる、満腔の敬意を抱く」と褒めちぎるなど、彼の人生観の一端が見える。また、岡本櫻の論文を読んで彼を見出した(後、桃介の会社と合併したの後の東邦ガスで岡本は松永と対立?)ことが分かる。

[10]池田成彬述「松永安左衞門論」『故人今人』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1160667/1/98)
 三井財閥の総帥、三井合名理事長、「財界の原敬」と言われた戦前財界最後の大御所、池田成彬の松永論、松永の読書ぶりと、趣味でさえも研究家肌な一面を見せる様子がうかがえる。
 なお池田は、桃介のことが苦手でも、松永のことは大好きのようで、「池田成彬氏緃横談」(https://dl.ndl.go.jp/pid/10293218/1/30)でも「(ここ数年で)あなたの眼に映じた事業家の中で誰が一番偉いか」との記者の質問に、小林一三と松永安左エ門の名前を上げている。池田曰く「松永は利害関係無しに付き合えばこの世で一番面白いが、一緒になって商売をするのは怖い」と。

[11]池田成彬述「福澤桃介論」『故人今人』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1160667/1/65)
 [10]と同じく、池田成彬による桃介評。
 なお、池田の人間の好みは松永と同じく仕事に専念する「実業家」であり、株主的な桃介に対して批判的。一方の桃介も池田のことはおそらく快く思っていなかったようなことが、池田を土台にして佐々木勇之助を褒め称えたり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1268829/1/117)、北炭汽船の株を巡って桃介が池田の肝をわざと冷やかしたり(https://dl.ndl.go.jp/pid/951800/1/75)した逸話からもうかがえる。
 池田は中上川の娘婿であり、中上川は福沢諭吉の甥で、桃介への融資を断った際の三井銀行の指導者だった。さらに池田は中上川とよく似て、冷徹で謹厳な性格であったことも桃介の池田への心持ちが悪い原因か。

[12]
小島直記「東邦電力時代」『松永安左エ門の生涯』539頁
城山三郎「第十二章 大正九年─十五年間」『創意に生きる』297~300頁
 経済小説ではあるが、どちらも、名古屋電灯を松永に託すに至った理由は、名古屋の排他性もあるが、桃介が政治活動に行って名古屋の財界人に敵を作りすぎたことにあると批判している。なお、この批判に関してはきちんと経済史学者による論文まで読みたいな〜と言うところ。往々にして歴史小説家の評価はプロの歴史家と比べると、情報収集の幅や視点の差によって異なることがあるので……。

[13]「福澤桃介・松永安左衛門抗爭眞相の眞相/某實業家談」『実業の世界』(https://dl.ndl.go.jp/pid/10293114/1/59)
 桃介と松永はお互い心底から仲が悪い訳では無いが、松永と桃介の会社が合併した際、トップに立った松永が桃介時代の経営方法を否定するので、桃介派の部下が松永を批判するために不仲を喧伝しているというもの。ただし、桃介と松永自身も、お互いにお互いの陰口を叩いていると批判している。

[14]「岡本櫻」『実業の世界』(https://dl.ndl.go.jp/pid/10293114/1/60)
 東邦電力の経営方針を巡って、岡本派から「松永は桃介に対する忘恩者、明智光秀だ」と批判されている記事。
(すみません、ここはNDLの本文が読み込めず記憶を頼りに書いているので、もしかしたら違う内容の記事かもしれません😢)

[15]小林一三「事業・大阪型と東京型」『私の生き方』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1886364/1/82)
 松永と青年時代から親友?だった小林一三の、松永による桃介批判の回顧(なお小林は松永と桃介のことを別所で悪友と書いている。でも明治四十年に松永の家が燃えたときには土産物をもって松永を慰めにきている。(松永『私の履歴書』310頁)おい!可愛いすぎないか!?)。[13]における、「二人はお互いのいないところで悪口を言う」の一つの例ととれる。

[16]池田成彬述「電力問題」『財界回顧』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2988252/1/112)
 池田成彬と松永による「東京侵入戦」の回顧。松永の東京電力をめぐる闘争はこの資料が最も赤裸々か?(小島直記が財団法人電力研究所の依頼を受け執筆し、最後には遺族から松永の最後の日記を閲覧する機会まで与えられた、大著『松永安左エ門の生涯』においても、この『財界回顧』をその当時の最も代表的な資料として引用している)
 しかし、ここでは桃介の運動に関しては言及されていない(というか『財界回顧』においては桃介は1ページも登場しない……それほど池田とは商売上の交流がなかった)

[17]「気の毒な性分の持主(松永安左衛門君)」「僞惡の標本(福澤桃介君)」『実業の世界』(https://dl.ndl.go.jp/pid/10293137/1/24)
 松永の項では、松永と桃介の仲が面白からざるものになっていること、また、松永は桃介のような姿勢ではいけないと感じ批判している様がうかがえる。
 また桃介の項では、桃介が池田と松永のやり口に不満を抱いたために、若尾の側について反対運動を為していると批判されている。
(追記:返す返すもこの東電をめぐる桃介の立ち回りについてはもっと資料を求めたかったところです😢)

[18]岩井良太郎「電力界の五闘将」『財界新闘将伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1279429/1/81)
 短い文ではあるが、東電東邦の合併問題で、世間から松永に対して桃介が対立的な立ち位置にあると見られていたことがうかがえる。

[19]松永安左エ門「小林一三の度胸」『淡々録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2935330/1/24)
 小林のために松永が収賄事件を起こしてしまったことの記録です。松永は、政治家を庇うために自白を拒む小林を見て、自身もプライドのために自白を拒み、監獄から出られなくなってしまうも、桃介が代わりに罪を認めてしまって(?)あとに引けなくなっていた松永を一種助け出した形になった逸話です。

[20]
福沢桃介「各務鎌吉」『財界人物我観』(https://fmomosuke.blogspot.com/2012/09/6.html)
松永安左エ門「各務鎌吉さんの憶ひ出」『淡々録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2935330/1/126)
 東京海上の中央亭(二、三階に位置していた、日々の食事から宴会までを請け負う大食堂)に関する桃介と松永の回顧。おそらく1918年の第一次世界大戦終了後(桃介50代)数年後(少なくとも1921年までにはあった?(「東京海上ビルデイングだより」(https://dl.ndl.go.jp/pid/10293035/1/24)では1921の時点で東京海上ビル6階に福沢桃介事務所、7階に松永が経営する九州電灯鉄道のオフィスと松永事務所(安左衛門?)があったことが分かる、なお後には大同電力のオフィスが7階にできている(https://dl.ndl.go.jp/pid/2935331/1/41))あたりから、この食堂での友人付き合いが始まったのだと思われる。
 中央亭ではほぼ毎日昼食会が開かれ、そこには松永と桃介(あと山下)が「いつものメンバー」として集っていたようだ。
(追記:松永の中央亭の回顧、本当に皆が皆、楽しそうで「良い」ので是非ご一読下さい。桃介の晩年は陰りがちに描かれますが、こうした友人に最後まで囲まれていたのは本当に彼にとって幸福だったと思っています)

[21] 松永安左エ門「山下の見舞い話」『淡々録 改訂版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/11940788/1/53)
 持病から実業界を引退し病床についた桃介の元を、山下からの土産物を持って松永が訪れた話。桃介は山下の土産物に隠されたメッセージに感嘆する。主人公の山下亀三郎は「福松商会」時代、桃介、松永両人にとっては二十代後半で出会った人物だが、晩年までこの三人が親友として付き合い続けたのが大変好き。なお山下は桃介よりも年上だが、桃介に助けられた恩義からか桃介の方を先輩扱いして褒めちぎっている(https://dl.ndl.go.jp/pid/1157259/1/44)。ただし、松永の山下への回顧を見ると、山下は世間に対して「ぶる」ところが見えるので、おそらく桃介に対して非常に謙るのは文書の上だけかとも思われる。でも山下と桃介は、お互い遠回しに一目置いて感嘆しているような逸話がたくさんあり、まさに「生粋の悪友で親友」という感じで大変良いので皆さんも探してみて下さい。
 (追記、山下の著書のくずし書きのメモの書き起こし「予も亦数回桃介子に訪問せられたる□(と?を?)記憶す、最後ニハ□□(揮毫?)もヲ嘱せられりしニ之ヲ果さずして止んだ。今尚残懐の已りしある。」国会図書館に寄贈されるまでは桃介の関係者がこの本を所有していたか)

[22]小島直記「戦争経済への傾斜」『松永安左エ門の生涯』748-755頁
 桃介の死去は昭和十三(1938)年の2月──この年はヒットラーがドイツで統帥権を得てウィーンを併合、ユダヤ人弾圧の契機となった水晶の夜事件を起こし、本格的に第二次世界大戦が始まる予兆が見えていた──のことであるが、桃介の死後、松永はすぐさま当時から代表的な雑誌であった『中央公論』三月号に「福沢桃介さんとの思い出」という一文を寄稿している。
(おそらくもっと多くの資料に当たれば、桃介の晩年における松永の動きが分かると思うのだが、浅学なので見つけることができなかった😢しかし、この時期、松永は前年の暮れから1月にかけて国家による電力統制案に反抗しており、非常に難しい立場にあったから、もしかすると難しかったかも知れない)

[23]福沢桃介『財界人物我観』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1273419)
 桃介の好みの経営者列伝といったところかな。その中でも荘田と佐々木(あと一応安田善次郎……いや安田はまぁまぁ笑うけど)は、財界でもトップレベルの超絶生真面目、滅多に笑わない男だが、桃介は彼等のことは好きらしい。荘田や安田に至ってはわざわざからかうために遊びにまで行っている。

[24]福沢桃介「武藤山治君と和田豊和君」『予の致富術』(https://dl.ndl.go.jp/pid/955805/1/77)
 当時の紡績界の二大巨頭「東の和田、西の武藤」を比較し、「株主としては絶対に武藤の勝ち」と書いている。ただし、武藤の生真面目で冗談を受け付けない性格は大嫌い、人としては応用闊達で細かいことを気にしない和田の方が好きらしい。
 その割に荘田や安田のことは好きとはどういうことか。まぁ二人は桃介よりだいぶ年上で桃介の冗談を受け止めてきちんと返してくれるおじいちゃんだからね……。

[25]鈴木茂三郎「東電の小林、東邦の松永」『財界人物評論』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1262426/1/155)
 松永が故郷の壱岐に帰ったのは、東電侵略戦に敗れ傷心になったからであり、郷里の小学校の挨拶では泣いて満足にはなすこともできなかったと書いている。

[26]小島直記「戦争経済への傾斜」『松永安左エ門の生涯』721頁
「産業は民間の諸君の自主奮発と努力にまたねばならぬ。官庁にたよるなどもってのほかで、官吏は人間の屑である。この考えを改めない限りは、日本の発展は望めない」
 政府による電力統制の法案が作られつつあった昭和十二年一月、松永が東邦電力長崎ビル完成を祝うために長崎へ訪れた際、長崎市の商工会議所での挨拶で放った一言。これを聞いて激怒した県庁の水産課長丸亀秀雄は、その明朝、松永に一発打ち込んでも謝罪を要求しようと、拳銃を忍ばせて彼の旅館へ踏み入ったが、事前に丸亀の殺意を聞き及んでいたは松永は、彼に平謝りして難を逃れた。(『松永安左エ門翁の思い出』内に、丸亀による当時の回顧がある)

[27]松永安左エ門「電力再編成への道程」『電力再編成の憶い出』(https://dl.ndl.go.jp/pid/12026224/1/19)
「三鬼君は私にこう言った。
「貴方は平生釟三郎さんの友人だったそうですね。平生さんは頭の良い方で、われわれ下っ端にも打ち解けて面白い話を聴かせてくださった。私は非常に恩義に感じている。平生さんの友人と一緒に仕事ができるのは愉しいことです。」
 半分お世辞のつもりだろうが、私は三鬼君にいった。
「味噌も糞も一緒にするな。平生は君の親分か知らんが、虚栄心の強い男で大臣になって喜んでいた男だ。俺は軽蔑している。
 余計なことをいったもので、若い頃から繰り返している失敗を重ねたわけだ。」

 戦後、昭和二十五(1950)年の文章。文中に登場する三鬼隆は日本製鐵社長であり、平生釟三郎は戦前の日本製鐵社長、鉄鋼統制会長。当時、日本では戦時に統合された製鉄会社や電力会社を再分割して編成しようとする動きがあり、その中で三鬼と松永はその分割、編成方法をめぐって激しく対立していた。
 平生釟三郎は東京海上の元専務であり、実権を握っていた各務鎌吉の最も信頼する右腕、親友であった。[20]における東京海上中央亭の固定メンバーであったが、おそらく1930年以降(平生による川崎造船整理後)に加わったメンバーだと思われる。
 ただ、松永は各務のことをかなり称賛し尊敬していると書いているのに対して、平生のことを称賛する文章は自分の知る限り一つも書いていないので、あまり良い印象を抱いていなかったであろうことは推察できる。なお、桃介は[20]『財界人物我観』において平生のことを経営者として評価してはいる。

[28]福沢桃介翁伝記編纂所「二大恩人と表着派裏返し派」『福沢桃介翁伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1906224/1/155)
「(前略)…桃介氏が海上ビルの中央亭で倒れ、昏々として生死の間に彷徨している時に、無意識に口をついて出た言葉は他ならぬ
『安さん、々々々、』
 と云ふ連呼であった。この二た声簡なりと雖も両人が一生を通じて、結ばれた深縁の如何に緊密不可分のものであるか、喧嘩をしても離間をしても、両人の奥底深く潜在して消すに消されぬ感激の一念は、如何ともすべからざるものあることが知られる。多感性の松永氏たるもの此知遇を思うては、張りも理屈もなしに無条件で、病先輩の膝下に泣き伏す思ひをしたものであらう。同時に表面冷淡で氷解か、枯木の如く人情だ知遇だと云ふやうな洒落臭いことを、土芥視して一笑に附し去る桃介氏も、内心奥深く潜在する熱情と乾兒思ひの眷々たる一纏絶へんとして断つ能はざる真実性の発露を、どうすることも出来ぬ告白として認めるであらう。
 この両人の美しい繋がりと云ふか、悪因縁の縺れと云ふか、切るに切られぬ情合は…(中略)……紅白とりどりの糸を捻り合わせた一條の紐に、相互の離れ難さが見られる。

 近代文語文の……この凄まじく熱い推し語りって……本ッ当に最高だと思っていて……。