大正15(1926)年3月、三井鉱山が八幡に合って製鉄合同の話をする小説。釜石の話が中心。商売敵つながりで三井財閥の身内も出る。三井信託と大正海上。
『暗雲晴れん』書いた後、色々な八幡、三井鉱山関連の文章読んだ上に書いたので、先の小説から多少設定が変わっていたり、ずれていていたりする点がある。特に官営二瀬炭鉱は、『八幡製鐵所史の研究』を読んで印象がすごく変わったので、それが強く反映された。”官営二瀬”は二瀬炭鉱のリーダー格兼中央坑の管理者という位置づけ。勉強によって情報は常にアップデートされるということで、お許しを。
年代的には『暗雲晴れん』の続編にあたるが、とりあえずあらすじを読めば、大まかな背景が分かる内容にしているつもり。

ここまでのあらすじ
明治29(1896)年から建設計画が始まった官営八幡製鉄所は、既に製鉄技術を民間の努力によって完成させていた釜石製鉄所に師事していた。作業の難航と国家財務をめぐる政争の中で、八幡は一時操業停止にまで追い込まれたが、日露戦争前後の鉄鋼需要の急増による後押しと、周囲の技術者、とくに釜石からやってきた野呂景義博士の指導によって、明治40年代、遂に鉄鋼一貫技術を完成させる。
一方で、日露開戦を機に九州の地へ別れを告げた釜石は、日露戦争での八幡の鋼材生産を聞き、それまで銑鉄中心であった経営を改めて、鋼材市場への進出を行った。しかし、大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦景気での活躍を最後に、無理な拡張策がたたって、経営は急激に悪化する。そして、大正13年3月、釜石の経営者たちは、以前から付き合いのあった三井財閥へ買収を持ちかけた。三井財閥内では、製鉄業に対する不安から、銀行や合名会社が買収に反対したが、製鉄業への野心に燃える三井鉱山はこの声を押し切って買収する。
同時期、製鉄市場では第一次世界大戦後の不況で多くの製鉄業者が廃業へ追い込まれ、大正10(1921)年から高橋是清農相によって”製鉄合同”が主張され始める。日本の製鉄業を一本化し、作業分担、生産調整によって市場を安定させようとする計画であったが、ほとんどの製鉄業者は様々な思惑からこれに参加しなかった。
その動きが本格化した大正14(1925)年の冬、八幡は製鉄合同の会議において、中心的立ち位置につく。姿の見えない釜石製鉄所の代わりに会議に現れたのは、彼の経営者たる三井鉱山であった。八幡は、三井鉱山にかつての師匠であった釜石の様子を尋ねるが、鉱山は飄々とそれをさけてしまう。結局、何も聞き出せぬまま、製鉄合同の会議は、参加した業者のほとんどから否定される形で、幕を閉じた……。