みなさんこんにちは、var:Int!です。
今や皇国を代表する大銀行として、新聞上に載らない日はない三井銀行。
何かと話題になりがちなこの銀行ですが、実はその筆頭常務である池田成彬と元三井銀行常務、後に三井銀行信託銀行社長になった米山梅吉の仲が悪いという噂があることはご存知でしょうか。
今回は噂される不仲説やその原因を調査してみました。みなさんと一緒に確認していきましょう!
目次
- そもそも二人ってどういう存在?
- 全く対照的な経歴の二人
- 実は同じ船で旅をした親友!?
- 二人の不仲説と原因を調べてみた
- 元々議論の止まなかった二人?
- 信託論争をめぐる対立
- 定年制導入をめぐる関係
- 本当は悪くない!?関係者が語る二人の仲
- 米山派の部下が語る米山と池田の関係
- 記事が語る二人の関係性
- 不仲説のまとめ
今でこそ同じ三井に籍を置く二人ですが、その出自は全く対照的なものなんです!
池田さんも米山さんも武士の子であることは共通ですが、池田さんが長男であるのに対し、米山さんは三男。池田さんが慶應義塾に入ってから塾と親の支援で米国に留学したのに対し、米山さんはなんと家出をして上京し、苦学生として自分でお金を貯めて留学しています。
詳しく見ていきましょう。
池田成彬は慶應4年1968年、山形藩の藩士の長男として生まれ、藩の財政改革の規則によってかなり質素な暮らしをしていたそうです。なんと芋の茎を煮て食べていたとか!常日頃から日本製のスーツを避けてイギリス製の衣服を好む池田さんからは考えられない過去です!(池田成彬はよく家老の子だなんだと言われがちですが、これは実は嘘!このような記事の記述には気を付けてください!)
その後、上京して英語学校などに通い、慶應義塾に入塾。その後、なんと義塾からの勧めでハーバード大学に留学したとか!まさしく明治十年代書生のトップエリートですね!帰国した後は時事新報に入りますが、給料が少ないという理由で辞めて、三井銀行に入行したそうです。
対する米山梅吉は、大和国高取の藩士を父に持ち、池田成彬に遅れること一年、明治元年1969年に生まれます。なおこの時家族は江戸勤で上京していたので東京生まれ!よく彼のことを江戸っ子だという評価がありますが、持ち前のさっぱりした性格だけでなくこうした背景からもあるのかもしれません。しかし幼い頃に父が死んでしまったので、お母さんが三島大社の神官の娘さんだったことから、静岡に帰郷。沼津兵学校で優秀な成績を収めたことから、長泉村の地主であった米山家の婿養子になります。うーん、まさに近代日本のシンデレラストーリーというところでしょうか。しかしこのような状況でも満足しないのが我が米山さん、なんと彼は政治に燃える典型的明治書生、学校の言いつけを破って演説会に潜り込むような人物、当然上京を志し、一人家出して東京に登って苦学生となります。青山の東京英和学校に通って英語を学び、留学して数年、法学士として帰国し日本鉄道に勤める傍ら、『提督ペルリ』などいくつかの本を書きながら政治への道を探りますが、第一子が生まれることを機に、家族を養うため政治への道を諦め、三井銀行に入行します。
なお、米山さんは家出した養家と留学前に和解し、帰国後に結婚、今では指折りの仲の良い夫婦として有名です!微笑ましいですね〜!
うーん、こうして見ると、池田さんの人生は堅実、米山さんの人生は紆余曲折の道であるように思えます!
そんな二人の経歴を見ていると、果たして仲良くなれるのか、最初から相性が悪かったんじゃないかと思われるかもしれません……しかしながら、実は二人はかつて親友だったという噂が絶えないのもまた事実!
そのきっかけというのが、三井銀行の欧米視察団での経験です。明治31年、三井銀行の近代化のために派遣されたこの団体のメンバーに選ばれたのが、池田成彬と米山梅吉。(もう一人丹幸馬という方がいましたが、この方は帰国後数年で亡くなってしまったそうです……)約一年の旅を共に過ごした仲間、気が合えば心強い盟友となるのも当然です。池田さんが本店で出世していくのに対し、米山さんは各地の支店長を巡り遂に二人は常務となって再会。二人が常務となったのは、池田さんの岳父である中上川さんの死後のことですが、この時早川さんは池田さんと米山さんを重用していたそうです。この時代の二人の活躍ぶりから、「三井銀行は池田と米山の二頭立て馬車」と呼ばれるようになったとか!
しかもこの時の仲の良さから、「米山が三井銀行に入ったのも、池田成彬の紹介によるものだ」という言説が生まれたそうです。なお、米山さんは東京での苦学生時代にであった、井上馨の娘婿、藤田四郎の紹介で三井銀行に入ったので、残念ながらこの噂は嘘のようです……。(一例:細田民樹『真理の春』p.380)
でも確かに、このような賞賛や噂が立つのも、このコンビが非常に懇意な仲であったからとしか思えません。
しかし池田さんと米山さんは必ずしも対立しなかったわけではなく、むしろかなり議論の多い仲でもあったようです。
『池田成彬伝』では、池田さんと米山さんが対立している様子が表されています。
池田さんは自分の意見を押し通すことで有名ですから、米山さんの意見を抑えることが多々あったのではないでしょうか?米山さんもかつては政治に燃えていたほどの人物ですから、自分の意見が通らない環境に不満を持つという考えはわからなくもありません。
二人の対立を語る上で特筆するべきは、信託銀行を作った際の二人の動きです。
1925年に設立された三井信託銀行はわが国初めての正式な信託銀行として非常に有名ですが、元々米山梅吉は三井財閥から独立したがっていたそうです。三井信託銀行以前から信託預金は存在していましたが、多くは利率の大きな通常預金と同じく見られていました。そうした現状を改め、一定期間しっかりお金を預かり、将来有望な新規事業やインフラに投資をする本来の信託銀行を取り戻す一大転機となる信託銀行を作る大志を抱いていた米山さんは、三井から独立した信託銀行を構想していたそうですが、相談を受けた池田成彬が三井資本での発足を強く主張したので、三井財閥の一機関としてスタートしたとのことです。しかし、株主や経営者の面々においては三井財閥以外の人物も多く(なんと株主の第二位は三菱財閥の雄各務鎌吉なのです)、これは米山さんの非三井財閥構想の名残とも言えますし、三井信託内では今でも三井財閥内でスタートしたことを悔いる声もあり、米山さんとしても色々思うところがあったのではないでしょうか?
また、こうして発足した三井信託は、米山さんやその他社員の尽力によって大々的に発展し、先行していた他の信託をゆうに凌ぐ存在になりましたが、伸びるということは、それだけの預金者を得るということ。そして、多くの預金者を得るということは少なからずの預金者が他の銀行から移ってきたということ。当然、三井信託は三井銀行の子供のような存在ですから、三井銀行から少なからず預金を奪う形になってしまいます。また、世間においても、利率の大きい信託銀行に預金が吸われつつあり、信託銀行を持てない中小銀行への圧迫になっているとの批判が起き、1926年には信託兼営論争が起きました。これは銀行と信託銀行を兼営するべきか否かという論争であり、政府と銀行界を巻き込んだ論争となったものです。この時、信託兼営の反対側には政府や三井信託銀行が立っており、米山さんは独立した信託を擁護する形で会議でも代表者として非常に奮闘していました。一方で、池田成彬は三菱銀行の串田と共に信託兼営派として参加しているのです。元々米山さんの信託独立の相談役として助力したのは池田さんですから、本来池田さんは米山さんと共にいるべきではないかと思われますが、池田の信託に対する転身は一体なぜなのか。非常に不思議です。
参考記事
「果然紛糾した信託兼営問題 : =金融調査委員会遂に休会= : 井上氏の態度から曲った信託側に政府は腐心」『日本産業経済新聞』(大正15年10月30日付)[『神戸大学新聞記事文庫』信託(3-30)]
「金融制度調査会特別委員会の審議 : 信託兼営論で委員会大混乱 : 議事未了で休会す」『大阪朝日新聞』(大正15年10月29日付)[『神戸大学新聞記事文庫』金融及金融機関一般(7-67)]
これとは対照的に、池田成彬が昭和11年に定年制を導入した際の米山梅吉の動きも不可解なところがあります。
元々米山梅吉は人生三分論に影響された財界人の一人であり、早くから銀行業からの引退を考えていた人間の一人であったと『米山梅吉伝』で描かれています。また、本人も著作『常識関門』内で、自分が銀行業にいることに対して自身でもわからないと書き、銀行業にあまり執着があるようには思えませんし、そのほか銀行における出世を文筆家仲間から過度に誉められた際に珍しく憤激したり、少年時代からの夢であった政治活動や文筆業を諦めて進んだ銀行業に複雑な感情を抱いていたように見受けられます。
しかし、池田さんが三井合名で定年制を強行した際『財界回顧』では当時を回顧して、池田の腹心で池田の三井合名理事辞職後に席を継ぐことになる金子堅次郎が「米山さんは反対ではなかったか」と聞いたのに対し池田さんが「いきなり言ったので向こうもいい顔はしなかったでしょうね」と答えているシーンがあります。少なくとも、米山さんが池田さんの定年制に大々的な賛成の意を見せていたわけでないことが伺える会話です。
米山梅吉は青山学院に関係しており、大正10年には理事に就任しています。東京海上を辞めて甲南大学に専念した平生釟三郎と同じく、銀行を引退すれば長らく関心のあった教育活動に専念することも十分考えられたはずです。事実、昭和12年にできた緑岡初等学校では初代校長を務めており、定年制と前後する時期ですから、元来の米山さんの考えからすれば、教育家に転身することも厭わなかったのではなかったのではないでしょうか。『米山梅吉伝』でも米山梅吉は定年制の導入に賛成であったろうという趣旨の書き方をしているため、池田の回想の際の米山の心境は実に不思議です。なぜ彼は池田派の人間から定年制には反対であると見受けられたのでしょうか。また、もし米山さんが本当に反対していたならなぜ彼の伝記では全く定年制に反対していたことについて書かれていないどころか、むしろ賛成であったように書かれているのでしょうか。
さてここまで池田さんと米山さんの怪しからぬ関係を色々と確認して参りましたが、これらの疑問と打って変わって『米山梅吉伝』では池田さんと米山さんの盟友関係を強調しています。また、三井信託の設立は池田さんとの不仲が原因であるという噂を否定し、むしろ米山さんは池田さんのことを財界で一番信用しており、信託の設立には一番に相談した相手であったと強調しています。
また、近年では池田成彬が万代順四郎氏を横浜副支店長から大阪支店長へと異例の大抜擢をしたことも話題となっています。万代氏といえば、米山さんの際側近の秘蔵っ子とも言うべき人物であり、青山学院(米山さんが通っていた青山英和学校が改名したもの)の後輩であり、米山さんが大阪支店長であった時代、万代氏は米山さんの邸宅に寝泊まりして銀行に通っていたと言われています。また、米山さんとしても自慢の後輩であるようで、その腕のいいことを銀行で幾度か周囲に言及していたそうですから、銀行内ではまさしく次世代の米山派の筆頭格とも言うべき存在だったでしょう。
一方、米山梅吉が三井信託銀行を設立したときには、万代を自らの後継者と見込んで入社を約束していたという話もあります。なぜ彼は三井信託の約束を破って銀行に留まったのか?そしてそんな人物を池田さんが抜擢したあたり、米山さんとの仲の悪さが本当であるとしたら相当複雑な裏がありそうですね!実際に、当時の評論にも万代氏の常務入りに関して池田さんと米山さんとの関係において考察する記事が見受けられます。(倉田春一『経済第一線』pp.192-194)
早川さんと親しく米山さんに面会したこともある記者は、池田さんと米山さん二人の会議における様子を描きながらも、二人が非常に良いコンビであることを描いており、なんと「兄弟とも言える友情」とまで書いています。(近藤乙吉『事業と人物』p.8)
加えて、三井信託設立の時、米山梅吉は三井銀行に未だ平取締役として残っていることは注目するべき点です。米山さんの信託銀行設立をあくまで三井財閥内でやるように強く勧めたのは、池田さんであり、そこには三井から米山さんがいなくなることを嫌ったという理由もあったと伝えられていますが、確かに本当に不仲であれば、こうして銀行の内部に残っているというのは不思議な話でしょう。(実業社『実業』4巻3号p.30)
このほか、池田さんと米山さんが不仲であることを伝える記事においても、”二人は昔親友であった”という点では一致しており、少なくとも常務時代まで二人の仲が良かったことは財界共通の認識であったことが伺えます。また、池田さんの著作『私の人生観』においても、米山梅吉ともう一人の同僚3人で新聞紙をやろうと盛んに話していたという記述があり、これには池田さん自身も米山さんを同じ考えを共有する盟友として見ていたと考えることも可能です。彼の著作でも米山さんのことについて述べるシーンがちょくちょく出てくるのですが、他の同僚についてはほとんど述べていないのに、米山さんのことについては節々で思い出したかのように自分の引き合いに出して触れているあたり、やはりただの同僚以上の友情であったのが伺えるのではないでしょうか。
いかがでしたか?みなさん、ここまで読んできて、三井銀行と信託の関係はどうなってしまうの?万代順四郎は皇国のヘレネなの?と不安になったことでしょう。2行の対立がどのような形に現れるのか気になるところです……。
特に三井信託銀行の貸付先には事業基盤が脆弱な企業やインフラ施設も含まれているので、この対立が経営へどのように影響するのか気になって眠れなくなってしまう不景気恐怖病患者さんは多いはず!信託論争における池田の意見の変わりようは一体何故なのか。万代を引き立てたのは米山への配慮なのか。過去の二人の議論に何があったのかといった話もさらに掘り下げられそうです!
今後も三井銀行の二頭立て馬車から目が離せません!!
参考文献
米山梅吉『常識関門』(実業之日本社、1937年)
池田成彬述、柳沢健編『財界回顧』(世界の日本社、1949年)
池田成彬『私の人生観』(文芸春秋新社、1951年)
佐々木邦『米山梅吉伝』(青山学院初等部、1960年)
今村武雄『池田成彬伝』(慶応通信、1962年)
大正年代のいかがでしたが記事かと思ったら定年制(昭和年代)の話出てきて草ですよ。そもそも「皇国」って表現すら大正期には出てきてない気がしてきた。加えて戦後に出た伝記とか回想録が出てくる時点で時間軸壊れています!
ちなみに自分は万代の抜擢に関して、池田さんとしては別に派閥に関して何か考えていた訳ではなかったのではないかと思ってる派です。慶應閥の筆頭とか言われがちだけども、本人は学閥に対しては中立派(共通の学友や後輩の方が話題に上がりやすいのは自然の摂理であって贔屓にしているからではないと主張)で、実際に側近の金子は山口高等商業学校出身だしなぁ。