社史、読んだことありますか?
恐らく、このサイトに来訪される方であれば、2割くらい「推しの企業・業界・経営者の関わる社史なら読んだことあるよ」という方がいますね。
近年は、国会図書館デジタルコレクションの整備のお陰で、戦前〜1970年代くらいの社史であれば手軽にネットで読めるようになりました。
これからは趣味で社史を読む方々もより増えていくでしょう。
しかし、そういった方々は、一体何を目的にされて社史を読むのでしょうか。
……わざわざ聞かずとも、オタクであれば、「推しの歴史を知るため」という答えが最も多いと思いのは容易に想像できますね。
なぜならこの記事を書く自分がオタクだから、分かるょ……🥺
しかしながら、ちょっと待っていただきたい。
その社史、本当に正しい推しの史実が書いてあるのでしょうか。
無論、写真や株主一覧、年表など、一般の人間では社史でしか確認できないような資料は確かに存在します。
一方で、地の文はどうでしょうか?
4.5割のオタクが社史において一番大喜びして読む部分は「地の文」だと思われます(残り4.5割は写真を見て歓喜する)が、しかしながら、その地の文こそ一番の落とし穴。
社史というのは企業にとって、公式で容認される歴史観の集合体。
当然不祥事や親会社、役員同士の問題を描くなんてことはほとんどありませんし、時には他社から輸入してきた技術・管理方法であることを明記せずに自社内から湧いたアイデアであるかのように描くことも……。
要するに、会社にとって「一番都合の良い・波風立たない」歴史であることが大半です。
ただ、新聞会社の一部には、太平洋戦争での戦争体制への協力を自省するため、歴史学者に編纂させた社史を出した例もありますから、必ずしも、総ての社史が「そういうもの」とは言えません。
しかし!?ここは、そうした企業公式の地の文の「異常」を批判するための場所ではありません!!
むしろ、その「異常」を探し、見つけ、その理由を考え解釈を深める会場なんです!!
そう!
社史に書いていることは「史実」ではなく、会社の公的な「歴史認識」にすぎないが、その「歴史認識」にこそ社史最大の醍醐味がある!
というわけで、今回は近代財界の経営史・経営者オタク的に激アツな企業の「歴史認識」を垣間見れる社史をご紹介しましょう!
第一回は『三菱銀行史』!
その歴史上、店名を変えた回数は都市銀行の中で間違いなくトップクラス、堅物に見えて奇想な生涯を辿っている銀行の始祖についてのお話です。
目次
- 三菱銀行の始祖は何処に
- 社史と重役の食い違い?
- 戦前と戦後の出版物の差
- 「三菱為替座」と「第百十九国立銀行」
- 三菱為替座
- 第百十九国立銀行
- 継承・連続性とは何処にあるのか
- 制度から見た「銀行」の始祖
- 内部事情から見た「三菱の銀行」の始祖
- まとめ
三菱銀行といえば、言わずもがな、三菱財閥の大家を支える金融の大黒柱です。
一方、果たしてその銀行がどのようにして生まれたのか、という部分は、あまり知られていませんね。
まずはやはり、社史を引いてみましょう。
「郵便汽船三菱会社は……明治十三年四月三菱為替店を創設し、付帯業務に過ぎなかった為替業務を本格的に営むことになった。即ち三菱為替店は三菱会社の海運事業から独立して別に組織を定め、業務範囲として為替、荷為替業務の外に預金、貸付並びに倉庫業務をも併せ営むことゝなった。これ実に三菱における銀行業務の萌芽である」
しかし、その一方で、1928年から1930年の間に新聞雑誌上に発表された会社重役へのインタビューへの内の一記事、三菱銀行生え抜きの常務取締役、山室宗文の回を見てみましょう。
「(山室)氏、かぶとをぬいで椅子による、すかさず三菱銀行の今昔物語の質問の一矢を放てば、彼、苦笑してはじめた昔話のひとくさり。
「さうだね、明治十八年、国立第百十九銀行の名の下に三菱の柱石、故豊川良平氏によって創始経営されたのがそもそもこの銀行のおこりで、明治二十六年、三菱合資の設立と共に、資本金百万円をもって三菱銀行部と改称し……(後略)」」
え⁉️なんで公式の見解と、生え抜きの重役の見解が別れているんですか⁉️😠💦
ここは落ち着いて、それぞれの時代におけるその他の本の記述を見て見ましょう!
まず、戦前の本においては、帝国興信所『財閥研究 第2輯』が三菱銀行は、三菱為替店の業務に始まり、国立第百十九国立銀行へ事業を継承したとする立場に立っています。
一方で、実業教育振興会『実業五十年史』、経済書籍合資会社『戦時下の銀行体制 第1巻』、豊川良平伝記編纂会『豊川良平』、日本不二通信社『三菱創世物語』では、三菱銀行の始祖は第百十九国立銀行の買収が始祖だとする立場をとっています。
戦後~『三菱銀行史』発表の1954年までの本では……
板垣書店『金融機関発達史(大蔵省金融制度調査会報告 第3編)』が前者(三菱為替座出身派)の立場を、
要書房『三井・三菱・住友』が後者(第百十九国立銀行出身派)をとっています。
なお、『三井・三菱・住友』は経済史学者による財閥史の概説書。
じゃあ、三菱銀行の始祖って、結局どっちなの⁉️😭💦
もはや本での説明を比較するだけではまとまる議論ではなさそうです。
こうなったら、まずは二社の生まれと性質を簡単に整理するところから始めよう!
三菱為替店は、明治9年、郵便汽船三菱会社が、回漕部の業務を後押しするために設置した為替局を始祖とする会社です。
明治維新期、三菱は日本沿岸部や横浜-上海航路において外国の汽船会社と激しい航路の取り合っていました。
その戦いの中でも特に激しかったものが、イギリスの海運会社P・O汽船会社との大阪での契約競争であり、三菱は荷為替によって貸付を行うことで、より多くの契約を得られると考え、回漕部に従属する形で荷為替金融を担う為替局を設置します。
この戦略は、当時外国資本の海運会社の進出に危機感を抱いていた政府からも支持され、為替局の設置には政府の支援金が当てられています。
……社史におけるこのあたりの契約競争の記述、通常であれば”他社を「撤退させた」「交代させた」”と書くであろう部分を、”他社を「駆逐した」「撃退した」「排除する」”だの、到底社史というメディアに似つかわしくない治安悪めな言葉が誇らしげに踊っており、これぞ初期三菱の戦闘一家ぶりだな〜〜〜と思わされる。
また、当時三菱は海運業以外の事業への着手を政府から禁じられていたため、明治13年に為替局が独立し三菱為替店になった後も、あくまで海運業の付帯業務として運営され続けます。
そして、政府において三菱を支援していた大久保利通、大隈重信らが失脚した後、三菱排撃を行う井上-渋沢-三井系列による共同運輸と回漕部との競争が激しくなるにつれ、明治十七年に三菱為替店の全面的廃止を決定、支店を次々に畳み、第百十九国立銀行買収の前後に東京の本店もまた閉鎖されました。
参考文献
『三菱銀行史』
『日本財閥経営史 三菱財閥』
第百十九国立銀行は、臼杵藩(大分県)の物産会所(特産品の卸売などを営む)、留恵社の金融部門の業務を基礎として発足した国立銀行です。
明治9年に国立銀行条例改正が発表され、国立銀行の設置条件が簡易的になり、全国で国立銀行が次々に設置されるようになると、臼杵藩でも上士層の、父は群奉行(姉は勘定奉行に嫁ぐ)、京都での赴任経験を持ち、明治期には教師の職にあった三村君平が国立銀行の設立に奔走するようになりました。
西南戦争での戦闘を挟みつつも、三村君平ら三、四人の運動によって、明治11年、第百十九国立銀行が設立され、三村は経営実務のトップである支配人に就任し、東京に本店を、臼杵の留恵社内に支店を置きます。
しかし、第百十九国立銀行、及びその取締役でもある臼杵藩主が共に出資した、臼杵藩士と島原藩士による北海道の物産を本州に売る会社楽産商会、その弟分の第百四十九国立銀行(島原)での損失や、留恵社での配当などをめぐる紛争「留恵社事件」などの困難が続き、経営は徐々に傾いていきます。
三村は支配人として楽産商会や第百四十九国立銀行との提携に懸念を示したようですが、元上司現株主経営陣の藩主の指示もあり、孤軍奮闘の形で経営にあたりました。
終に負債を支えきれなくなった明治18年、三村は同じく臼杵藩出身で「留恵社事件」の仲裁役として活躍し、三菱社の管事(経営のトップ)であった荘田平五郎に銀行の事業継承を提案、これが受け入れられて、第百十九国立銀行は第百四十九国立銀行(後、百十九側へ合併)と共に三菱社の傘下に移りました。
三村君平も、岩崎久彌、荘田平五郎の強い要請で、三菱社(後、三菱合資)へ入社します。
そして、買収後も第百十九国立銀行の支配人として、以降大正期まで長くにわたり三菱銀行の経営実務のトップとして君臨ことになります。
なお、三菱社は、楽産商会に貸付を行うと共に、積載契約を結んでおり、そうした意味でも関係の深い会社でした。
参考文献
『三菱銀行史』
『三村君平』
比べてみると、三菱為替店も第百十九国立銀行も中々の苦労人だ……。
流れとしては……
- 明治9年、郵便汽船三菱会社内に為替局が設置される。
- 明治11年、臼杵にて第百十九国立銀行が設立される。
- 明治13年、為替局、三菱為替店として独立。
- 明治17年、三菱為替店、経営難による全面的閉鎖が決定される。
- 明治18年、第百十九国立銀行、三菱に買収される。
という感じ。
うーん、そもそも、三菱が設けたのはあくまで為替店であって、銀行ではないんですが、そこが銀行へ繋がるというのは、どういう事なんですかね?
この当時は両替店や為替店のみならず卸売、運輸会社も為替をやっていた時代であり、特別銀行業につながるわけではないような……。
雇用形態がどうなっているかは分かりませんが、三菱為替店は閉鎖しているのに第百十九国立銀行に連続しているという考えは如何に。
しかも買収した三菱が三村を留恵社系列から引き抜いて三菱社(そして買収後の第百十九国立銀行)に入れて経営に当たらせている訳ですから、人材としても連続性があるようには……。
しかし議論の本題はここから、ここは更に議論を深堀するために、制度と経営内部の面から考えていきましょう‼️😠
まずもって、何を指して「銀行」と呼ぶのかという、前提の議論から始めます。
明治期において、「銀行」という存在はいくつかの段階を踏んで整備された存在でした。
まず明治5年に公布された「国立銀行条例」が日本における銀行業の正式なスタート地点になります。
当時、国立銀行へ与えられた使命とは、それまで各地の藩が発行する不換紙幣が中心であった日本経済を立て直すため、「各地の藩・政府発行(太政官札など)の不換紙幣を回収」し、その引き換えに「政府による統一的な兌換紙幣を発行する」ことでした。
「(前略)……従来御国内ニ於テモ為替両替等ヲ業トイタシ欧亜各國ニ通称スルバンクノ業躰ニ等シキモノモ有之トイヘトモ其方法ノ精確ナラサルト至為ノ陋拙ナルヨリ充分人民ノ便益ヲ得ルニ至ラサルニ付此度政府ノ公債証書抵當トシテ正金引替ノ紙幣發行ノ銀行創立方法ヲ制定シ普ク頒布セシメ候」
要するに、当時の日本において銀行は、「政府発行の正金と引替可能な紙幣を人民へ供給する」ために作られたものでした。そのため、手形の取り扱いや両替、預金をなす両替店や為替座とは明確に区分される線があったのです。
また、「銀行」という言葉の中には、明治政府へ届け出を提出した「国立銀行」しか含められず、「私立銀行」というものは認められません。
まぁ、第一国立銀行を小野組との抱合せで作らされた挙げ句、それ以外の国立銀行の申請を認められなかった三井組(というか御用所の三野村利左衛門)は、全く納得しておらず、三井御用所は為替方三井組へ組み込む形で両替店を吸収、その後東京の御用所と各地の為替座で勝手に「三井バンク」を名乗りだすんですが……。
☝️「銀行」を名乗っては無いのでOK‼️
こうして生まれた銀行条例ですが、銀行設立の準備金の条件があまりにも厳しかったため、全国へ普及する必要があった機関にもかかわらず、都市部にたったの五行しか設立されないという結末に終わります。
そのため、明治9年に条件を緩めた改正案が公布され、ここでようやく私立銀行の存在も認められるようになります。
ただし私立銀行には国立銀行券(いわゆる紙幣)発行の許可が与えられない、ただし自治体、省庁の債券発行を委託されることがある模様。
ちなみに明治9年時点の私立銀行は三井銀行の一行のみ、開店前待機でようやく店に入ったら自分以外いなかったみたいな温度感だ。
「第五十二条
此條例ヲ遵奉スル銀行ハ金銀ヲ(引受貸シ抵當貸シノ別ナク)貸附ケ又ハ當座並ニ定期預リ金ヲ為シ又ハ為換ヲ取組ミ又ハ為替手形。約束手形。代金頭取立手形其他ノ証書ヲ割引シ又ハ公債証書。外国貨幣並ニ金。銀。銅ノ地金ヲ売買シ及ヒ保護預リ又ハ両替等ノ事ヲ以テ営業ノ本務トナスヘシ
第五十三條
此條例ヲ遵奉スル銀行ノ本務タルヤ前條ニ掲クル所ノ種類ナルヲ以テ公債証書ノ売買ヲナスヲ得ルト雖モ貸附金。預リ金。為換等ノ如キハ殊ニ銀行ノ主トシテ為スヘキ営業ノ目的タルニヨリ此等ノ事業ヲ経営セスシテ唯公債証書ノ売買ヲ専ラニスルヲ許サス」
この第九条に国立銀行は「〇〇国立銀行と名乗れ」と規定されている。国立第一銀行なのか第一国立銀行なのか迷わなくて済むね🎶
ここにおいて、ようやく欧米の銀行と同じく、両替や為替(本文中では為換)が銀行業の主要な業務であると規定されます。それを行わず公債証書の取引のみを行うことは許されないとまで規定していますね。
とはいえ、まだまだ国立銀行には「政府発行の正金と引替可能な紙幣を人民へ供給する」という特別な任務があったので、主要な業務が被っていた両替店や為替店がまとめて「銀行」へと吸収される段階ではなく、それら三業種は区分して扱われます。
この改正とともに、大蔵省は各地の県庁へ銀行設立を促す激励文を送り、各地で士族を中心とする国立銀行が続々と設立されることとなります。明治11年に臼杵で設立された第百十九国立銀行も、この法令を受けた後に計画されたもの。
一方の三菱為替店は改正直後の明治9年、郵便汽船三菱会社(旧三菱商会)内において為替局(後の三菱為替店)を設置します。
奇しくも、三井組が同年6月28日、三井為替方を前身として三井銀行へ改正(御用所も合流)、開業したその8日前、20日のことです。
なぜ銀行業の主要業務である「為替」を行いながら、銀行を設立するのではなく、為替局を置いたのかといえば、前述の通り、この設立背景には海運会社同士の競争のための事業としての側面、そして政府からの海運業縛りのために、金融業を求めていなかったからでしょう。
為替局の設置を建言したのは、後年、第百十九国立銀行の買収を主導することになる荘田平五郎というのが伝記の記述。本当ならカタルシスのある話だ……。
そして、国立銀行を日本銀行(明治15年設立)一行のみの体制に移行するために公布された、明治23年の「銀行条例」において、遂に両替店や為替店がまとめて銀行業へと区分されることになりました。
「第一条
公ニ開キタル店舗ニ於テ営業トシテ證券ノ割引ヲ為シ又ハ為替業ヲ為シ又ハ諸預リ及貸付ヲ併セ為ス者ハ何等ノ名称ヲ用ヰルニ拘ラス總テ銀行トス」
つまり、「為替取引」が本分であった三菱為替座も、(存在していれば)「銀行」を名乗る必要があったんですね。
こうして見てみると、日本の制度から見るに、「三菱為替店」は、最初期の「銀行」像には合致しません。
ですが、後に日本における「銀行」像が、欧米一般の「銀行」像へと転換されるうちに、「為替方」も「銀行」へと吸収されたので、「三菱為替店」も、制度から見ると「銀行」の祖と言えるんですね。
次に、会社内部の状況から、”三菱の銀行”の本体が何であるのかの推察をしてみましょう。
三菱為替店の閉鎖と切り替わるようにやってきた第百十九国立銀行ですが、社史では二社の連続性を有していることを主張します。
「顧みれば三菱為替店は……存続僅か五年にして茲に廃止される運命となったのである。併し乍ら三菱為替店経営によって得た知識経験は十八年五月継承した第百十九国立銀行運営に活用せられ、後の銀行事業経営に貢献するところ頗る大なるものがあった」
しかし、この三菱為替店の知識経験が活用せられ……という部分、一体何処までのどんな業務を指すのでしょうか。
初期の頃に業務の引き継ぎなどは多少あったでしょうが、第百十九銀行は元々兄弟会社の楽産商会が卸売業を行っていたため、既に荷為替業には親しい状態です。
後述の郵船への回漕部-為替業務の供出から考えるに、第百十九国立銀行に残された三菱為替店特有の業務は倉庫業くらいしかありませんし、その倉庫業はたったの2年で東京倉庫へと独立します。
加えて、明治18年には8人だった行員数が翌年5人になる店員数の推移、出納方と計算方しかいなかったという回顧から、第百十九国立銀行の内部において倉庫業がどこまで経営されていたのか怪しい状況です。
経営は依然三村が統率しており、経営の実務を担っていたのは第百十九国立銀行(及び、第百四十九国立銀行)の職員である可能性が高く、三菱為替店側の人間が特に第百十九銀行へ指導したような跡は見受けられません。
どこまで三菱為替店特有の知識が活用されていたのかは、全くもって曖昧です。
第百十九銀行買収と前後する形で閉店した三菱為替店のリーダー、肥田昭作は買収した第百十九銀行の頭取につきますが、その肥田もほんの一年で、為替座に関係していなかった豊川良平へ交代してます。また、豊川良平は、その経営を第百十九銀行の設立者の一人にして経営のリーダー、三村君平に一任していました。
「初めの中は銀行頭取らしい所がなく、銀行事務は一切三村君平にやらせて、同業者間の運動や政府に対する交渉などに奔走して居た。これは三菱銀行部になった後も同じで、三村をはじめ串田万蔵や桐島像一等が専ら実務を引受けて、豊川氏をして後顧の憂いなく財界に羽翼を伸ばさせるようにした」
豊川期においても、経営において郵便汽船三菱会社並びに三菱為替店側の人間が主導した痕跡は、自分の調べた限りでは知りません。
木村久寿弥太など、後に三菱合資で活躍する人物が銀行部にいたことはありますが、郵船と弥太郎世代を失って経営の大改革を経た後の三菱合資(岩崎弥之助世代)に就職した人間を三菱社(岩崎弥太郎世代)の人間の系譜に入れるのは少し無理があるのではないか。
ただし、局所的には豊川が自らの責任で、大口の貸付を許可する(富士紡、鐘紡等)などの動きを見せることもあります。
また、三菱為替店は三菱汽船の荷為替取引を受け付けていましたが、三菱汽船と共同運輸の争いの中で為替座が閉店され、また同時期に汽船と運輸の二社が合併した日本郵船会社が設立されると、日本郵船は為替店の機能を受け継ぐ形で自社内における荷為替取引を行うようになりました。
そして、郵船はその後三井銀行と国立第一銀行とに為替取引の契約を結びます。
つまり三菱為替店の存在理由であった「汽船のための荷為替業務」は、三菱為替店の閉鎖とともに、日本郵船の中で解体されるのです。
しかし一方で、全く三菱為替店の存在が無意味であったわけではありません。
三菱が第百十九国立銀行を買収した理由は、単に臼杵出身の荘田平五郎が三菱における最上級クラスの幹部であったということ以上に、それまで三菱為替店を有していたことから、金融業の必要性を理解していたからという点の方が大きいのではないでしょうか。
これは飛躍した推察にはなりますが、大阪を商業の中心としていた三菱は、東京においては交友関係が少なく、三井・渋沢系列と比べると金融面で不利であったため(由比恒彦『安田善次郎』94-96頁)、東京に本店を持ち、預金-貸付業務を行える第百十九国立銀行を傘下に置くことに、積極的な意義を見たのかも知れません。
まぁ、社史では一応「三菱自体は金融業への進出には消極的であったが、銀行頭取の懇請を受け入れて継承を決定し……」とあるんですが……。
しかし、買収時の三菱は共同運輸との戦闘でかなり摩耗した状態、かつ世間的にも松方デフレでかなり経済が疲弊した時期にあたるので、ただ単に懇請があったからという理由だけで買収したと解釈するのは少し楽天的、理想的すぎる気がします。
為替店を通じた金融業界への進出経験と、閉店されたタイミングという2つの側面から第百十九国立銀行の買収を決定したとすれば、三菱銀行の設立の前景に三菱為替店があるという考えは、もっともです。

まさしく果実における、ヘタは三菱為替店、実は第百十九国立銀行、と言えるのかも。
とはいえ、一覧すれば第百十九国立銀行がほとんどを占めるわけですし、間違いなく三菱為替店の方が始祖だとする考え方は、少し「三菱グループ至上主義的な」見方では。
だからこそ、銀行の内部においては第百十九銀行への郷愁の方が強く、三菱銀行きっての学者肌、山室が第百十九銀行の方へ始祖としての軍配を挙げたのでは無いでしょうか。
ま、歴史って白黒付けれる事象の方が少ないので、ここは「どちらも始祖と言える」と考えるのが普遍的かも?
正直言って、投資家や社員であれば、どちらであっても、要するに二社はそれぞれの機能(他社との関係性-実務)に別れて「融合」したのだと考えれば、平和的終了。
しかしながら、経営史のオタクとしては、会社のアイデンティティの比重は一体どちらにあるのかということを推察したく……なりますよねぇ‼️
三菱銀行の社史名が「〇〇年史」という書き方をしない、特徴的な題名なのも、幾度とその社名を変更した背景の他、どこが開始地点なのか判断し得なかった所にあるのかもしれない……。
……最後に、三菱為替店の業務の中で唯一どこへも吸収されずに独立した東京倉庫(現三菱倉庫)について。
東京倉庫は三菱分系の有限会社として設立され、株主は三菱為替店関係者、日本郵船、そして取締役は川田小一郎でした。
この川田小一郎は、三菱社における最古参の幹部の一人の金庫番であり、内政の面のトップでした。三菱社の帳簿にもっとも明るかった男であり、晩年は日本銀行の総裁につきます。
こういう資本とか人事を見るに、三菱為替店は三菱銀行よりも東京倉庫の方に強い連続性があるなと思ってしまう。
なお三菱銀行との関係性としては、弟分という感じ。
倉庫業はどこでも銀行の右腕の立ち位置にいるイメージが強いですね。住友は倉庫業の方が銀行(並合業:倉庫の荷物と引換に貸付を行う)の父親ですが、後年は銀行のサブ的立ち位置になりましたし。
ようやく終わったぞ!
10000字近い本題が、遂に……。
社史の一文一つをとっただけでも、ここまで考えを広げて語れるわけですから、社史っていうのは、味わい深い!
……三菱銀行を語るなら、本当は、もっと三村との関係について語りだしくてたまらなかったんですよ!
三村は西南戦争に臼杵勤皇隊の一人として参加するも、西郷軍との戦いで同じく戦った家族や友人を失くし故郷の臼杵を焼かれ、その再興のために銀行を設立するも、晩年臼杵に帰りたがった三村は第百十九国立銀行(今や三菱銀行)のために東京に引き止められ続け、終に故郷に帰ることなく没するという、この、無情なるカタルシスが……。
でも、今回の本題はあくまで三菱銀行の始祖のことですから、これでも控えめな内容にしておきました。
また、当初はこれを含めあと二冊についても語る三冊立ての記事にしようと思っていたところ……。
この1冊の時点で文字数が多すぎて、ボリュームを考え、切り分ける事にしました🥲
今回のテーマは、「社史と重役の言葉の印象の食い違いは何処から来ているのか」という自分の疑問から深堀していった内容です。
そのために、すこしこじつけるような論点の進め方をしてしまったのは、自分の反省ポイント😢
『三菱銀行史』はあくまで三菱銀行が一度三菱合資会社内に編入されていた歴史があるからこそ、三菱合資会社の成立まで遡って記述を始め、そしてその中で三菱為替店の歴史に触れているのみです。
加えて、三菱為替店のことを、あくまで単に「三菱における銀行業務の萌芽」としか表現していないことから分かるように、はっきりと三菱銀行の始祖であるとは明言していません。制度面の話でお話したように、「為替」もまた、明治24年(施行は26年)から銀行業を名乗るに足る業務の一つに数えられるようになったので、その通りの記述。
でも……それでも、自分は『三菱銀行史』のこの煮えきらない態度に我慢できず、三菱銀行の始祖は誰なのかという問題に白黒つけるくらいの議論をしたがっだ‼️
自分にとって都合の良い時にだけ批判精神を発揮させる、これがオタクと研究者の違いだ……。
ゼミみたいな反省文も飛んできてしまいましたが、ここで最後に、近年の三菱の経営史研究における初期の三菱銀行の扱いについてお見せしましょうか。
ん⁉️🤔
「産業革命期(概ね幕末から日露戦争後までを指す)の三菱合資会社銀行部の活動については、『三菱銀行史』によるほかは必ずしも詳しい分析が行われてこなかった……(種々の研究があっても)『三菱銀行史』の記述以上には典拠となる事実は見出されていないという限りで、いまだ解明が待たれるところであろう」
調べてみた所、『三菱銀行史』以上の史料はみつかりませんでした‼️
いかがでしたか❓️😄💦
どうやら、研究者でも明治十年代、ひいては第百十九国立銀行と三菱為替店の関係はほぼわからずじまいのようです。(武田先生は三菱史料館の研究員、三井文庫の文庫長などを務め、財閥研究ひいては経営史学のトップ研究者であり、あと小弥太のガチ勢(多分))
にしたって、『三菱銀行史』以外にそれに対抗しうる史料が無いとは……『三菱銀行史』の明治三十年代の記述は、史料が足りなくて口伝で編んでいた可能性がギリギリ存在している……⁉️
んなぁ〜‼️こんな難問、趣味にやってるオタクごときでは結論を出せるわけもありません‼️😭
とはいえ、本当に史料ゼロの手がかり無しと言うことは無いでしょう。
伝記『三村君平』の記述では、三村自身の手帳が現存していることが見て取れますし、会社外の個人史料にあたれば結構手がかりがあるんじゃないかなと思います。
まぁ……こうやって言う事と実行する事は別なので、いつの日か、明治十年代の三菱銀行部門の実態が解明されることを待ちます。
こうやって公式の言う事を斜めに構えて色々考えるのが、歴史の醍醐味。
皆さんもぜひ、自分の推しの社史の問題点を見つけて、重箱の隅のようにつつき回してみて下さい。
そこに、推しの新しい解釈が詰まっているでしょうから……。
これはもう信仰なので、理論とか、要りません。
嘘、流石に半分くらいは史料ある……いや後者はあるけど、前者はあるかな……。
でも”三井銀行”の始祖は、三井における銀行設立運動を主導し続けた三野村利左衛門だし、戦前期の三井銀行の姿勢を決定づけたのは中上川彦次郎(三井両替店・御用所時代のルールを完全に否定している為)だから、もう三井銀行のアイデンティティの始祖とは特定の店じゃなくて人間単位であり、その三野村が拠点にしていたのが三井御用所だから、という論理であり……。
またどこかでここら辺の話が出来たら良いですが、その時は一体何字になるのやら……。
