サイトメイン絵小ネタ紹介

 サイトトップの絵の小ネタ紹介記事です。

 サイトトップでは見切れていますが、絵の全体像は上のようになっています。
 池田成彬と武藤山治、官営製鐵所(八幡)、そして背景にボードという構造。
 上から順を追って、手前の人物・擬人化、そして背景ボードの順で説明しましょう。

Q.なんで普通に八幡製鉄所って書かないの?
 A.ここが、近代財界もとい経営史学のオタクこだわりpointだからです🥺
 あと本当に経営史学に詳しい人に見つかったときに「ちゃんとやってますよ」と云ふアピール……かな……。(それ、浅ましくないか!?)(最後まで読めば、これが総て幻想であるということが、明らかに、なる)

 実は戦前の”八幡製鉄所”は「官営製鐵所」、もしくは「枝光製鉄所」と呼ばれるのが一般的でした。(リンク先は製鉄所長官を務めた方の回顧、要NDLログイン)

「官営製鐵所」というのは当時の公文書上の正式名称(リンク先は官営製鐵所を管轄していた農商務省の文書、要NDLログイン、1924年の官報でも「官営製鐵所」が用いられています)であり、実際に製鉄所の門に掲げられた標識の札の表記も「官営製鐵所」でした。近年でも、八幡や鉄鋼業に関する研究では「鉄」ではなく旧字体の「鐵」と書くのが多いです。
 現在でも、世界遺産に関するサイトやそれに関する地元の自治体のサイトでは「製所」が用いられているようですね。

「枝光」というのは八幡製鉄所の建てられた八幡村の合併元の一つであった枝光村のことですね。福岡には八幡村が二つあったため、郵便物や新聞では区別するために製鉄所側の枝光駅の名称をとって「枝光製鉄所」と書くのが好まれていたようです。(リンク先は経済雑誌の記事、寄稿者は製鉄所長官、要NDLログイン)ただ、海運関係では、若松港を用いるため、「若松製鉄所」と呼ばれていたと。陸と海の停留場ごとに呼ばれ方が違うところは、中々ユニークなお話。

「官営八幡製鉄所」というような名称が広まったのは、1920年代、所謂「大衆の時代」の勃興に伴って野球が流行し、官営製鐵所の野球チームが「八幡製鉄所」という名称を用いて、新聞紙上を賑わせたため。なお、わざわざ「枝光製鉄所」の名称を用いなかったのは、官営製鐵所の長官に赴任した中井励作が「八幡製鉄所」という名称を浸透させようと苦心していたから。
 そもそも官営製鐵所に一番近い駅は「八幡駅」なのに、「枝光駅」の方ばかり有名になって鉄道会社から勘違いされたり、官営製鐵所への配達物が八幡駅ではなく枝光駅の方へ集まるために遅れが生じたり、様々な障害があったための工夫のよう。

 そして「八幡製鉄所」が正式名称として用いられるようになったのは、昭和九(1934)年の鉄鋼会社の大合併によって日本製鉄が誕生した時のこと。結構遅いんですね。
 自分が好きな八幡は明治三十年前後の八幡と、1920年代の八幡であるため、年代的には……「官営製鐵所」と呼ぶべき時代。いつか自分の創作でも、ここらへんのお話ができたらいいなと思います。

 とはいえ、閲覧者の方に分かりやすいのが一番なので、このサイトでは「八幡」とか「官営八幡製鉄所」とかで呼ぶことの方が多いでしょう。なおタグも「八幡製鉄所」になっています。
「官営製鐵所」って呼ぶのは真面目な話する時くらいかな。あと「外」に向けてカッコつける時……サイトのトップは流石に玄関なので綺麗にしておこうと思って🥺💦

 ん?いや待って!?
 この記事の画像の左下のメモ……こっちは「官営製所」だけど……SNSに固定してある方の画像、よく見ると「官営製所」になっちゃってるじゃん!

 いや……まぁ?(言い訳詠唱開始)
 中井長官も回顧録では「官営製所」って書いてたし、当時の雑誌も「官営製鉄所」って書いて……。
 え、嘘でしょ……戦前の本、全部「官営製所」って書いてある……。「枝光製所」や「八幡製所」は表記揺れするけど「官営製所」は全部旧字だ……。

 はい、実は自分がこのミスに気がついたのがSNS投稿後のことだったので、もうすでに手遅れだったのでした。いつも製鉄所って書いてるのに急にカッコつけるようとするから……。
 あ、それにこの名称変遷を知ったの2024年の夏のことなので、それ以前に書いた「暗雲晴れん」や「短編集(1)」などの作品には全く反映されていません。

 おいおい、かっこよく知識を披露したと思っていたら、ついたオチが「これ」です、か……😢

 しかし!?この世に、あらゆるミスをしない人間も、万物を知り尽くした人間も、いない!というのが私の信条。
 間違えている部分もあえて晒し、ミスを隠すのではなく、訂正することによって、生きていく。

 ので、皆さんも、知識不足や研究に気負うこと無く……歴史創作や、戦前企業擬人化を、やりませんか???

 ちなみに今この記事を書いているタイミングで、自分はまだ経営史の研究を始めて1年半くらいしか経っていません。1年半の独学の知識ですらここまで書けるので、本当に気負う必要は無いと思います。

手前の人物・擬人化

 読書する池田成彬
 池田成彬の父親は米沢藩で若くから藩主の近習を務めた程のエリート、息子の池田成彬も幼い頃から漢書を読み込まされた知識人です。
 当時の知識人の例に漏れず、彼も読書を好んでいたよう。読むのは洋書の方が好き、そして文学ものよりも政治経済に関する書物が好き。

 元ネタの池田自身のインタビュー記事……はNDLログインでは読めません。というわけで、孫引きですが、『池田成彬伝』での描写をどうぞ。

 参考文献
 池田成彬伝記刊行会編『池田成彬伝』(慶應通信、1962年)(要NDLログイン)
 (引用元記事は「一実業家の教養」『新潮』(新潮社、1950年)第47巻6号pp.46~53)

 絵を見せる武藤山治
 武藤山治は幼い頃から絵を描くのが好きな人物で、実業家になった後も絵を描き続け、個展まで開いた人物でした。なお見るのも大好きで、同じ骨董仲間からは池田からは「天平藤原党」と呼ばれていたり(『私のたけのこ哲学』、要NDLログイン)

 参考文献
 入交好脩『武藤山治』(吉川弘文館、1964年)(NDLでは見れませんが、武藤の絵がいくつか掲載されています)
 

 官営製鐵所、もとい八幡は……
 特に無いです。
「用箋挟」ということでクリップボードをもってもらっています。一応クリップボードの形状の元ネタは私が愛用する「PENCO」のボードです。
 サイト始めた直後に釜石や八幡をめぐる小説を書いたので、八幡には特別思い入れがあることもあって、メインに据えました。

 折角だから八幡に関する書籍を紹介しましょう。
 まずは、長年「官営製鐵所」を研究されていた長島修先生が、2012年に発表された『官営八幡製鐵所論:国家資本の経営史』。本書が官営製鐵所に関する研究書の中で最新のものだと思います(2025年現在)。

 官営製鐵所に関する研究は経営史学の中でも非常に歴史ある分野であり(管理人比)、古くは三枝博音先生とその弟子の飯田賢一先生、佐藤昌一郎先生、近年では清水憲一先生(そして労資関係好きの管理人的には時里奉明先生も激推!)など、とにかく研究書や論文、そして一般向けの書籍の数も含め、鉄鋼分野一位だと思います。
 なお一般向けでは小林先生の歴史新書版『八幡製鉄所』が最もわかりやすく、そして面白い本。

 やっぱり、八幡製鉄所は歴史も制度も激アツで、本当に面白いからこそこんなに沢山の作品があるのかなと……。

ここでオタク早口開始
 創立期から海軍というライバルを抱え、様々な問題で長官が何度も更迭されたり、政争によって操業停止のピンチを迎えながらも、そこから復活して鉄鋼市場の半分を支配する覇者になるという、山あり谷ありの来歴持ち。

 それに加えて対職工の福利厚生システムは、あの!?戦前労務管理制度屈指の名門、鐘淵紡績と同レベルだったと言われ、またその経営姿勢は「利益よりも製鉄業の研究」を目指し官民一体となって製鉄業界の研究を推進する旗手に立つ(要NDLログイン)など、この……波乱万丈の歴史と優等生的な姿勢のギャップが!最高なんですよね〜〜〜😢

 なお官営とかいう国営企業だから労務管理体制がいいんでしょと思った捻くれ者の方!
 同じく重工業系の官営でも、海軍工廠は財閥系重工業と比べて賃金、手当が低く、福利厚生施設が少なく八時間労働制の導入に遅れ……と問題が山積していたので、別に国家資本なら安定していてHAPPYな労働ができるわけではありません。(西成田豊『近代日本労使関係史の研究』(東京大学出版会、1988年)pp.215-218)
 まぁ……海軍工廠の方は、労働者の移動する可能性が低くて、そういった努力をする必要が無かったのかもしれませんね。
 
 どんな資本の上に立つのであれ、会社の実態は経営者の判断と労働者の性質によって大きく左右される。

 とはいえ、最初から本を読むのもカロリーが高すぎますよね?
 というわけで私が八幡に傾倒するきっかけでもある、長嶋修先生がお書きになられた、八幡vs海軍呉製鋼所の激アツ政争研究をご紹介!
 長島修「外国人のみた創立期官営八幡製鐵所」(『立命館国際研究』2005年)第18巻1号、pp.49〜68

背景のボード


 説明のために見やすいほうが良いかなと考えたので、背景のボードの無加工版(色調補正抜き)を置いておきます。

 背景のボードには、私が特に好きな企業を全部載せようというわけで、それらの企業を描こうと思ったわけですが、ただ彼らを描くだけでは、面白く、ありませんよね?

 やはりオタクのprideとして──重箱の隅を突くような知識開陳こじつけ……自分、キメちゃっても、いーすか笑⁉️✋️😁
 
 以上の背景から、なんとかして自分の好きな企業を文字通り点と線で結んだものが、こちらの背景ボードとなっております。
 まず最初に、私がつなげようとした『特に好きな企業』を書いておきましょう。

    1.三井銀行
    →経営者が好きすぎるため。好きな経営者が多すぎる。財界ハマった理由。
    2.鐘淵紡績
    →経営者が好きすぎるため。武藤山治最強!おいおい、これが日本的経営の「神話」ってワケか……。
    3.東京海上保険
    →経営者が好きすぎるため。各平って……最高だ……‼️😭✨️あ、明治火災と戦争する前から好きなので火災を冠していません。
    4.官営製鐵所(八幡)
    →技師と二代目長官が好きすぎるため。研究対象としても好き。

 説明は右上の三井銀行からスタートします。多いので手短に行きましょう。

三井銀行周辺

 駿河町三井組(為替バンク三井組)のチェキ

     三井御用所(為替座三井組)が第一銀行に三井組ハウスを明け渡した後に移転した建物。
     三井組ハウスと同じく、明治初期に流行した擬洋風建築の旗手、清水喜助が設計したもので、屋根のてっぺんには、なんとシャチホコが乗っている。

    参考文献
    三井銀行八十年史編纂委員会編『三井銀行八十年史』(1957年)784頁
    堀越三郎『明治初期の洋風建築』(南洋堂書店、1973年)(要NDLログイン)

 地図とピンの位置

     地図は日本橋。原本は『新撰東京名所圖會』、ただし参考にした地図は明治三十年代に再版されたもの。そのため、色んな意味でズレている可能性あり。
     一番上のピンは本両替町、もとい金座銀座を指す。当時、三井組含む本両替商はこうした貨幣鋳造所の御用掛を務め、金銀の小判を鑑定して一定の金額ごとに取り分けて包み、それを取引する「座包み」を行っていた。
     幕末の動乱により本両替制度はほとんど意味を失うが、その様子の一端は安田善次郎の回顧で伺える。なお安田は安田商店時代から、鑑定の腕を買われて三井組に出入り、明治十二年からは三井物産に貸付を行っている。
     二番目のピンは駿河町。言わずとしれた、三井組の本拠地。

    参考文献
    安田善次郎『富之礎』(昭文堂、1911年)
    『東京名所図会』(睦書房、1968年)
    (再版元は『新撰東京名所圖會第二十五編』(東洋堂、1900年))(要NDLログイン)
    由比常彦『安田善次郎』(ミネルヴァ書房、2010年)

 地図左上のメモ

     内容は、「駿河町→新右衛門町(仮)→三井本館(M30)」というもの。
     三井銀行の本店の移転や建て替えの歴史。前述の駿河町三井組の建物は、明治三十年から大改修が行われ、その間本店は新右衛門町の仮事務所へ移動、そして明治三十五年に旧三井本館が落成した。なお現在の三井本館は関東大震災後に建て直されたもの。

    参考文献
    三井銀行八十年史編纂委員会編『三井銀行八十年史』(1957年)784頁

鐘淵紡績周辺

 2つ目のピン側のメモ

     内容は、「呉服店→綿花(貿易)→紡績」というもの。
     鐘淵紡績は、当時東京における綿花取引の株仲間九組のうち、綿花の輸入に賛成した三井呉服店、白木屋らが中心となって作った東京綿商会が前身。初代の経営者は三井銀行設立時に三井呉服店が三井組から放逐された際、「三越」として借り受けた山岡正次。
     なお、この時三井組の資本外に放逐された三井呉服店は、三井組の近代化改革を推し進めた三野村利左エ門の死亡後、三井組内部へ回帰している。

    参考文献
    鐘紡株式会社社史編『鐘紡百年史』(1988年)
    安岡重明『財閥形成史の研究〈増補版〉』(ミネルヴァ書房、1998年)

 三井銀行の下のメモ

     内容は、「融資◯、出向◯、株主◯」というもの。
     三井銀行と鐘淵紡績の関係性についてのメモ。ウ゛ッ「語り」てぇ……ッ!
     上から真面目に説明すると、鐘淵紡績の前身、東京綿商会は明治十九年の第一次企業勃興期に生まれ、各地に紡績工場が建設された第二次企業勃興期にあたる明治二十一年頃から工場を建設、鐘淵紡績へ会社を再編成。
     創業期から赤字続きであったが、その赤字の多くは三井銀行が補填していたため、明治二十三年の恐慌時、創立に協力した株主の一部が離れた際には、三井銀行が彼らの株を引き受けた。

     また、同時に三井銀行の経営責任者である西邑虎四郎が副社長に就任し、その地位は明治二十五年から三井銀行の改革に当たった中上川彦次郎に引き継がれた。工業を重視する中上川は、三井銀行に入れた大学卒業者を鐘紡へ入社させ、赤字の続く鐘紡の経営改革や新工場建設に当たらせた。また、中上川は三井銀行と鐘紡の副社長を兼任し、自ら率先して鐘紡の経営を指導。
     よく考えなくてもこれ「出向」じゃなくない……?でもこの関係なんて言ったら良いんだ……。「天下り」って言うのもなんか違うし……。
     
     後に中上川が三井家顧問井上馨との政争に敗れ、三井銀行の保有していた鐘紡株はその多くが売却されるが、依然三井銀行(及びその関係者)は常に鐘紡の株主内において、安田銀行(三井銀行が売り払った鐘紡株のほとんどを回収した)と並ぶ屈指の所有数を誇った。

    参考文献
    武藤山治『私の身の上話』(1934年)(要NDLログイン)
    池田成彬『財界回顧』(世界の日本社、1949年)(要NDLログイン)
    鐘紡株式会社社史編『鐘紡百年史』(1988年)
    千本暁子「紡績業における雇用関係の転換点」『社会経済史学』(社会経済史学会、2016年)
    矢倉伸太郎「明治30年代以後における鐘淵紡績株式会社の役員と株主について」『産業と経済』(奈良学園大学、2016年)

 駿河町から鐘紡への糸

    上記の三井呉服店や三井銀行との関係から。
東京海上保険周辺

 東京海上のメモ

     メモの内容は「三菱信託」というもの。
     なんで海上保険で信託銀行の名前が出てくるのかというと、三菱信託の設立の旗手が長年東京海上のトップを務めていた各務鎌吉であったから。
     各務鎌吉は東京海上以外の仕事を滅多に引き受けず、当時「一人一業主義」の財界人の一人だと見られていたが、信託銀行業に対しては非常に意欲的であり、会社設立前の準備の指揮を取ったほか、三菱信託銀行を設立した際には、自らの東京海上ビルの中に本店を構えようとしたほど。しかし、後者は流石に他幹部の反対にあって実現しなかったようだ。

     なお無論三菱銀行も関与しており、三菱信託設立の際には、銀行界の誇る学者の一人だと謳われた三菱銀行常務、山室宗文が入っている。

    参考文献
    岩井良太郎『各務鎌吉伝加藤武男伝』(東洋書館、1955年)(要NDLログイン)
    三菱信託銀行『三菱信託銀行四十年史』(1968年)(要NDLログイン)

 本両替町から東京海上への糸

     これは三菱信託銀行の設立に三井銀行の関係者と三井信託銀行が関与していることから。
     本両替町から糸引いたのはそっちのほうが構図的に助かるからという非常に都合主義的な理由です。三井銀行から繋げばよかった〜😢

     実は(?)、三菱信託銀行は三井信託銀行を参考に設立されたもの。
     それもそのはず、三井信託銀行こそが日本初の(正式な)信託銀行だからです。

    Q.正式な、ってどういう意味?
     まるで正式ではない信託銀行ならあったみたいな書き方ですが、普通にありました。
     安田銀行や住友銀行、台湾銀行などがおこなっていた「協定破り」の信託業務を指します。

     当時、大正期の銀行界では”預金協定”という一種の紳士協定があり、大銀行が地方の中小銀行を圧迫しないようにするという名目で、預金に対する利率が制限されていたのですが、一部の銀行がこの協定を破るために、「普通預金」ではなく信託業務の一環である「信託預金」として預金を預かり、協定以上の金利をつけるという行為をしていました。
     なお大銀行だけが破っていたのではなく、地方の中小銀行も一部の預金者にたいしてのみ法外な利率をつけるというようなことを行っていたそう。
     この預金協定違反問題が明るみになった際には、安田銀行が手形交換所から一定期間追放されることになりました。

     面白いのは、三井、三菱銀行といった市場の二大銀行がこれを遵守したのに加えて、五大銀行では最も苦しい立場にいた第一銀行もこれを遵守し、積極的に違反の批判をしていたことですね。
     やっぱり第一銀行のこういう姿勢が、例え老いても自分こそが銀行会の長老だぞという意気込みを感じさせられて非常に良くて……。

     三井信託銀行が設立された背景にはこの問題も大きく関わっているので、以前から興味はあるのですが、あまり調べられていないので、いつか勉強したことリストのうちの一つです。

    参考文献
    池田成彬『財界回顧』(世界の日本社、1949年)(要NDLログイン)
    「金融制度調査会特別委員会の審議 : 信託兼営論で委員会大混乱 : 議事未了で休会す」『大阪朝日新聞』(1926年10月29日付)[『神戸大学新聞記事文庫』金融及金融機関一般(7-67)]
    「果然紛糾した信託兼営問題 : =金融調査委員会遂に休会= : 井上氏の態度から曲った信託側に政府は腐心」『日本産業経済新聞』(1926年10月30日付)[『神戸大学新聞記事文庫』信託(3-30)]


     この三井信託銀行を設立したのが三井銀行における池田成彬の相方、米山梅吉であり、彼が三井信託を設立した際には、なんと前述の各務鎌吉が三井家につぐ二位の大株主になっています。しかも東京海上の名義でもトップ10に入る株数を保有している。

    参考文献
    大川孝昭『人物写真集米山梅吉翁』(米山梅吉翁写真集出版会、1997年)
    谷内宏文『点描 米山梅吉』(新風舎文庫、2005年)

八幡製鉄所周辺

 関税問題の紙とメモ

 釜石の上のメモ

 東京海上から八幡への糸

     日本製鉄時代の関係による。
     1934年に、官営製鐵所や三井鉱山傘下の輪西(室蘭)、釜石製鉄所などが大合併を行い、日本製鉄が誕生した。
     その2年後、二代目の日本製鉄会長についたのが平生釟三郎、前述の各務鎌吉と長年双璧として東京海上に君臨した人物である。

     平生は東京海上を引退した後、甲南大学を創立して運営を担っていた。その実績を買われて廣田内閣では文部大臣に就任している。
     近衛内閣では商工大臣のポストを断り、日本製鉄へ入社、鉄鋼統制会の会長も担当した。
     長らく金融界で活躍してきた人物では会ったが、日本製鉄においても精力的に指導していたようだ。戦時下の八幡製鉄所の所長に、渋沢栄一の三男にあたる渋沢正雄を任命したのも平生の采配によるもの。

     なお平生が政界へ進出した昭和十年代は、軍部や革新官僚らによって政党政治が否定されるようになった時代であり、実務経験のある大臣級の政治家が不足したことで、その補欠として軍部との妥協を選択した旧財閥系の財界人らが内閣へ入閣したり国策会社に就任したりすることが多かった。

    参考文献
    河合哲雄『平生釟三郎』(羽田書店、1956年)(要NDLログイン)
    平生釟三郎「故澁澤正雄君を悼む」『鐡鋼統制』(鉄鋼統制会、1942年)第2巻10号、pp.8-10(要NDLログイン)

 八幡から関税問題への糸

     1920年代半ば、前述の関税問題とほぼ同時期に、日本の鉄鋼業界では官営製鐵所を民間に払い下げ、それを中心に鉄鋼諸会社を大合併、あるいは巨大なカルテルを形成させようとする動きがあった。
     この1920年代の鉄鋼大合併運動は、主に政友会や工業倶楽部が発端となった運動であり、釜石、輪西(後の室蘭)製鉄所を有する三井財閥や、陸軍、農商務省の反対にあって成立しなかった。

    参考文献
    岡崎哲二「1920年代の鉄鋼政策と日本鉄鋼業一製鉄合同問題を中心として一」(『土地制度史学』1983年)第26巻3号、pp.1-17
    井上雄介「官民合同過程における鉄鋼政策の再検討」『早稲田大学産業経営研究所 WorkingPaper』(早稲田大学産業経営研究所、2023年)第14巻1号

 鐘紡から関税問題への糸

     前述の通り、鉄鋼関税問題の対岸には紡績産業が関わっていたのだが、当時の紡績業界の中でも、鐘淵紡績の社長、津田信吾はイギリス紡績産業を最大のライバルに置いていた人物であり、こういった貿易問題に大きな発言力を持っていたことから。
     我ながらこれはこれはあまりいい関連のさせ方じゃないな……。
     津田の発言力は1930年代の鐘紡大争議を越えてから高まったので、1920年代の鉄鋼における関税問題に紐づけるのはこじつけ力120%が無いと有効打にはならないぞ‼️😡(誰?)(自覚あるなら辞めなよ)

    参考文献
    石黒英一『大河 津田信吾伝』(ダイヤモンド社、1960年)(要NDLログイン)
    石井寛治『帝国主義日本の対外戦略』(名古屋大学出版会、2012年)

 八幡から釜石への糸

     官営製鐵所の創立時には釜石製鉄所から二十人ほどの職工が移入している。ただし、田中翁の回顧によると、彼らも他の職工と殆ど同じ扱いであり、ドイツ人技師に抑えられ、あまり目立った存在では無かったようだ。

     八幡の創業前後に行われた実験の多くも、釜石製鉄所で行われた。
     後に八幡の再建を担当した工学士野呂景義は、後藤象二郎農商務大臣の水道管事件に連座して官営製鐵所設立委員会を辞めた際に、田中釜石製鉄所から声をかけられ、嘱託顧問として雇い入れられている。

    参考文献
    富士製鉄釜石製鉄所編『釜石製鉄所七十年史』(1955年)(要NDLログイン)
    「田中宿老想い出を語る」『鉄鋼界』(日本鉄鋼連盟、1959年)第9巻3号、pp.32-37(要NDLログイン)

 釜石から三井財閥への糸

     前述のメモの内容からの関係。
     ところで良く考えなくても、東京海上は三井財閥か三井物産から繋げたほうが良かったのでは……(自覚あるならやりなよ)(……😢)
三井財閥周辺

 三井財閥横の写真

     三井本館の写真です。も〜見たまんま!
     このサイトでは旅行のレポも書いていきたいな〜と思っていたので、写真を使いたく、三井本館なら分かりやすいよねと思って描きました。

 三井財閥から駿河町への糸

     本拠地だからですね。説明無用!
結論

 という訳で、総ての小ネタの解説もこれで終了です。

 書いている内に何度か致命的なミスや、もっとこうした方が……というような部分を見つけて、自己嫌悪タイムに突入してしまいました。ぐ、愚者。

 しかし、まぁこれはこれで、良くも悪くもvar:Int!の適当ぶりが出ていて……自分はこういうノリで創作していくから、よろしく🎶🎶🎶という自己紹介代わりになって、良いかも!?
 フン……あまり期待するなよ?このvar:Int!の知識に……😏(本当に謙遜ではない)(恥)(皆も参考資料を確認して、どこまでが真実なのかをチャックしよう😭)