森川英正「第4部のまえがき」『近代日本経営史の基礎知識《増補版》』250頁
「経営史学の生命はケース・スタディである。経済史学との重要な相違の一つはそこにある。もちろん、経済史学者も個別企業経営を研究する。しかしそれは、国民経済の総体的把握から導き出される結論の枠組内での個別的例証でしかない……すべての企業は同一の論理を体現した同質の存在とみなされ、個々の企業の運命は関心の外に置かれる。
これに対し、経営史学のケース・スタディでは、個々の企業が、人間と同じように独自の個性と運命を持つものであることが前提され、企業が、その個性にしたがって、直面する諸状況に反応しながら変化し成長する過程が研究される。段階や構造は、企業が立ち向かうべき状況を構成する要因として取り扱われる。研究の重点は、その状況(オポチュニティとニーズ)に対して企業が示す個性的反応のあり方に置かれる。」
最高だ……😭
この記事は、この文章をインターネット上に半永久的に保存するために書いたため、もはやこれ以上言うことはありません。
それでは、ご精読、ありがとうございました。
企業擬人化について一言も触れずに記事締めるとか、自分で書いた題名もう一遍見直した方が良いですよ⁉️😡
はい、ここからは題名通りのお話をしましょう。
冒頭の文章は、1970年代、日本で始めて編纂された経営史学の教科書に登場した文章です。当時、経済学の中の一つの分野、経済史学の中から経”営”史学という分野が生まれ、学会を設立して十年を経た時の言葉でした。
また、経営史学の着眼点は「経営主体の意思決定」に置かれる、というのは、本書のはしがきを執筆なされた中川敬一郎先生の考えです。
以上の考えから自分は、経営史学とは「問題に直面した企業、経営陣がどのように行動し、それがどのように従業員や消費者、そして市場含む他者へ影響を与えたか」ということを研究する学問だと捉えています。
そして、この経営史学の視点は、「擬人化」という、非人間的な物事を、あえて人間的な主体に置き換える捉え方と非常に相性が良いと思っているのです。
このような考えに至ったのは、自分が二年ほど前から、企業擬人化(このサイトでは近代財界擬人化と呼んでいますが、ここでは一般名称の企業擬人化を使用します)の分野の創作を始めたことがきっかけです。
当時は、経営者よりも、彼らが動かした会社の方がネームバリューがあり、より多くの人に情報をアプローチできるかな、という理由で企業擬人化を始めました。
しかしながら、この「擬人化」という考え方は、創作活動においてのみならず、自分が経営史学を勉強する時においても、非常に役に立ちました。
私は、それまで経営者の本ばかり読んでいたので、基本的に、企業活動は二の次でした。また歴史に関しても、人物の評伝をつなぎ合わせた虫食い状の知識しかなく、大学レベルの歴史学では到底力不足であることを痛感していました。
そんな中、企業擬人化の創作を始め、そのために経営者の評伝だけでなく、社史や経営史学の本を読むようになった結果、非常に視界が広がり、またそうした人物を超えた、集団、社会、歴史そのものを勉強するモチベーションにもなったのです。
これは本当に勉強の仕方が変わりました。特に釜石、八幡の歴史小説を書くために論文や研究書を探して読み込んだ時、一番力がついたと思います。この小説を書いた経験が元となって、財閥の研究に打ち込むことができたので、本当にいろんな意味で思い出深い作品です。
まぁ正直に言えば、拙いところも多いし、史実と違う所も山積しているし、到底恥ずかしくて読み返せませんが……😢そういう反省点が多いのは、改善しようというモチベーションでもあります。
経営史学では、基本的にあまり経営者の名前が表に登場しません。
流石に武藤山治や広瀬宰平レベルの独s……カリスマ経営者レベルにもなると、彼らが主役となる論文もあるのですが、基本的には一瞬登場するだけで、論文の主語は会社そのものであることが多いです。
だからこそ、経営者の本ばかり読んでいたときには、経営史学の研究書を読むモチベがなかったわけですが、企業擬人化をやろう、じゃあそのために勉強しよう、と決意したことが、それらの本を手に取るエネルギーをくれたわけです。ありがたい。
食わず嫌いしていた経営史学も、意欲を持って取り組むと中々面白いものです。
分かりきったつもりでも、勉強し直すと、更に深みが増すということも多々在りました。
最たるものは三井銀行であり、例えば、三井銀行における中上川彦次郎の輝きっぷりは、三野村利左衛門の改革とその挫折あってこそ、さらに燦然と増すのだと思いました。
ご興味ある方は、安岡重明先生や石井寛治先生の明治十年代の三井組の論文を読んで下さい。どちらもインターネット上で閲覧できる論文です。
ご興味ない方は、いつか自分が企業擬人化で創作するときを楽しみに待っていて下さい。
と、いった自らの経験から、企業擬人化は経営史学と非常に親和性がある、と思うのですが、2025年現在、SNSでよく見る企業擬人化は、基本的に「サービスや商品」を軸で創作されたものが多く、「経営主体」を軸に創作されたものは比較的少ないようです。
自分の人生の野望は歴史学の繁栄であり、研究書や博物館などアカデミックなコンテンツが経済的に豊かになることです。自分が人生で苦悩していた時、歴史学のコンテンツが、人生や他人の捉え方を変えるきっかけをくれたので、その恩返しをしたい所存。
経営史学も、大学においては(文学部としての)歴史学ではなく経済学の分野なのですが、しかしその手法を見れば歴史学の一端であることは自明。
それに、自分は会社を率いて意思決定し、社会を変えるくらいのパワーを持った経営者が好きなので、「経営主体」を重点に置いた作品が見たい。
それにもっと深堀りすれば、企業の人間的な要素、アイデンティティは一体どこまでの範囲に適応されるのか、という問題があります。
転職して二ヶ月目の労働者に企業のアイデンティティは宿るのか?そもそも企業の組織を変える権利を与えられていないブルーワーカーの派遣労働者、明治期で言えば渡り職工や出稼ぎ女工は、その企業の「アイデンティティを共有する仲間」に含まれるのか?(経営判断に影響を与える一つにはなるが、それは経営者にとって労働市場という外部と密接だからこそだ、というのが自分の意見です)
また、サービスや商品のアイデンティティは「消費者を虜にするために」付与されたブランディングの結実であり、企業のアイデンティティはまた別にあるというのが私の意見です。役者(企業)と演技上のキャラクター(商品、サービス)という感じ。無論、演技とは言え、それを実行する身体は役者なわけですから、サービスや商品が企業のアイデンティティであるという意見も理解できます。
まぁ擬人化に限らず、キャラクター化におけるアイデンティティの定義は千差万別なので、人それぞれの意見が聞きたいですね。
世界観の話を聞くのは大好きだ。人の個人サイトを隅から隅まで読んでるオタクとして、やはり、こちらからも開示しておこうかなと思った次第✋️😁
色々書きましたが、自分は経営史学を広めるといった意味合いでも、(戦前の)「経営主体」を軸にした企業擬人化、もとい近代財界擬人化を続けていきたいな〜と思っています。
経営史学、そして経営者のオタクを、一人でも増やし、歴史学を潤したい……という、壮大な野望をもって……。
1.現在進行系においては創作者も消費者の一人という制限
まず、「経営主体」の創作が見たいと私は言いましたが、これは非常に困難がつきまとう道だとは自分でもよく思います。
最大の壁は、「自分の好きな会社の史料が無いor閲覧できない」ということですよね。
経営主体の創作となれば、経営の内部でそのような決定がなされたのか、どのような問題を抱えていると自覚しているかがメインテーマになってきます。
しかし、そういった問題は、経営主体の重要な機密に含まれる部分も多く、あまり史料が外にでてきません。
現に経営史学においてさえ、企業史料の収集と閲覧は一つの課題として挙げられているのですから、素人の我々が知れる企業内部の情報など砂の一握……😢
あと、致命的な問題に、現代においては経営者同士のやり取りが残らないというところがあります。
近代の経営者は(概ね大正期までは)基本的に書簡のやり取りで連絡し合っていたものですから、経営者同士がお互いの経営方針に与えた相互作用を確認できますが、現代の企業でメールデータは保管されるんでしょうか?電話の記録だって取られないし……。
まぁこういった、電子データのアーカイブは一体どのように捉えるべきか、どのように保存するべきか、どのように分析するのか、というところは、史学全体の問題ですね。
150年前の近代史料の体系化と分析を取り扱う近代史料学の成立は、たったの25年前、中野目徹教授が2000年に著した『近代史料学の射程』がスタートですし、我々の現代史料学は、2100年に成立しえるのか、はたまたもっと早いのか……。
まぁ、経営者のインタビューを見る、IR資料を読む、株主総会に参加する、調査報告書を読む(不祥事起こす前提なの辞めてね😡)(でも五十年くらい生きてれば不祥事起こさない企業とか無いから)など、色々手段はありますが……。
逆に言えば、そういった手段を探さなくては分からないという所は非常に面倒ですよね。まぁそれが、生きている企業を追う業やねん。
結論、現行の企業で「経営主体」の創作をするは、本当に茨の道だと思う🥹
それにそもそも、企業を好きになった理由が商品・サービス由来だとしたら、それをメインテーマにしたくなるよね。
自分も企業を好きになった理由が経営主体の一部だから、それをそれをメインテーマにしたくなったわけだし。
2.それでなんで貴方は経営主体の創作が好きなの?
上で書いておいて、「経営主体」の創作を見たいと言っているにも関わらず、その「良さ」を全く書いていないことに気がついて……こりゃいかんぞッ‼️😡
世相を批判しておいて、自分の立場ははっきり表明せず、批判される部分を用意していない……?
⚠️オタクの一方的批判流石にキモキモ罪で逮捕だ‼️☝️🚨💦💦💦⚠️
というわけで、もっとはっきり自己開示をしておきます。
人間が創作をする理由とは、何かを伝えたいから。
それが自分自身の実力であれ、あるいは他の事物の良さであれ、とにかく、他人に見せてアピールせざるを得ない熱情なくして創作なし!
であれば、企業擬人化創作とは、創作というアピールを通じて、「自分がなぜその企業のことを愛しているのか」を伝える行動なわけ!
(あるいははたまた、その企業が犯した罪を告発する行動であるわけ……愛も怒りも熱情だからね)
なので、自分も「経営主体」創作語りを通じ、企業のどういった部分を愛しているのか、開陳しておこうと思います。
「経営主体」創作の何が良いか、何が醍醐味かというと、企業の理念・理想と業界、社会全体との相克に苦悩する、企業の姿、美しい‼️‼️‼️😭😭😭という事です。
世の中には、たくさんの社会問題があります。
経済格差と教育格差、グローバリズムによる文化の均一化、大量生産大量消費による環境の大変革、あるとあらゆる問題が我々を脅かしています。
しかし、我々は最早その社会問題の原因(お金や有料の教育機関、インターネット環境の整備や移動手段の低価格化、もはやアイデンティティさえ侵食する消費文化)によって生み出された快適な生活からは脱却できないレベルに到達しています。
そう!いつだって社会問題が表出するのは、最早我々がその原因を止められないレベルに到達してしまってからのこと!
であれば、我々の取るべき道は、現在の否定、過去への回帰などではなく、未来のために新しい道を模索すること!
そして、(自分にとっての)「経営主体」創作には、新たな道を模索してきた経営者達の相克が詰まっているのです‼️
(自分にとっての)「経営主体」の創作は、企業における内紛や、あるいは業界や社会との対立に、企業がどのような決断を下したのか、あるいは、経営者の世代交代によって企業の経営方針がどう変わったのかというところに妙味があります。
特に、その企業で問題となった部分が、社会や業界の問題改革を巡っての紛争であったりすると、本当に、最高。
例えば、私が愛して止まん♥️四大企業は、三井銀行、鐘紡、東京海上、八幡にあたるのですが!?
戦前の三井銀行は、常に日本の市場経済を牽引する意識をもって、欧米の銀行経営や金融事情を先進的に取り入れ、日本へ持ち帰ってそれを広める立場に立ちました。
殖産興業の志の下に、当時未だ貧弱で常に乱高下する市場に悩まされていた日本の工業に莫大な投資をし、尋常でない面倒見の良さを見せ、遂には自身の方針に敵対した地方財界を焼き払おう(金融凍結)としたり、銀行市場で所謂価格競争を制限するための利率協定違反が横行した際には、大蔵省を恫喝してまで先陣に立って取り締まったり……。
この、理想のためなら凡人の常識を捨てて行動する、常軌を逸した覇者の姿‼️堪らない‼️
とはいえ、このヤバすぎムーブの結果、三井銀行と三井財閥(というか三井十一家(三井大元方)→三井管理部→三井合名)の間では、幾度か政争が起こり、カリスマ的経営者を失うという挫折を2度も味わっているのですが……そうした挫折を経験してもなお、理想のためには他者を蹂躙することをも厭わない姿を貫き通す、その勇姿と矜持、理想と裏表の冷酷さを、愛している♥️
鐘紡こと鐘淵紡績は、前述の三井銀行の愛重ムーブによって地方財界を焼き払う原因になった企業です。
“いぎかね”って、最高だ……✨️
鐘紡は三井銀行の指導によって経営を再建させた企業であり、彼もまた、三井銀行の志、覇者ムーブを受け継ぐ企業。
彼は、労働者のやる気が商品の品質に直結すると考え、紡績業界の抱えていた職工の移動の自由制限を打破し、出稼ぎ労働者として使い捨て同然の待遇であった女工の生活環境を改善させ、共済保険制度をいち早く導入し、紡績業界どころか、日本の財界の中でも、労務管理制度の見本として君臨した企業でした。
無論、そういった業界の旧態打破の道のりの間には、紡績工場間でヤクザを繰り出し事務所を破壊する文字通りの紛争が起きたり、株主の会社を乗っ取られかけたり、様々な困難があったのですが、それらを乗り越えていく様……。
当に「正義」に生きる企業、格好良い‼️🥹健気で可愛い‼️🥹
これは三井銀行の本店営業部長及び営業担当常務も鐘紡関連の話題が出るたびに鐘紡称賛を一言挟まずにはいられないわけですわ……😊
三井銀行が鐘紡のこと大好きなの、経営が良すぎる資本家としての寵愛と、三井財閥内では否定されてしまったカリスマ的経営者の意思を継ぐ最後の形見としての重すぎる期待、庇護欲が籠もっていて……。
対する鐘紡側には三井銀行に永遠の恩義と諦めという本当に複雑な愛が籠もっていて……。
普通に”いぎかね”語りになってしまってすいません。
このまま東海や八幡のことまで語っていると、文字数が壊れるため、ここで止めておきます。またいつでも語りだすときが来るでしょう。ていうか八幡はもうサイトメイン絵記事で語ったから……。
まぁこの自分の推し語りを通じた会社の「良さ」開陳を見れば、私が何に魅力を感じているのかは、非常に分かりやすいものですよね。
つまり、本来は利益獲得を目指して行動する営利企業でありながら、企業の理想のために、様々な障害とぶつかって時に甚大な損失を上げながらも乗り越えていく様が‼️本当に美しい‼️
企業を経営しているのは、単に利益という数字を追う人工無脳的機械などではなく、社会への理想と苦悩を抱える人間であるということを体現しています。彼らが企業活動を通じて社会や業界を変えようとしている姿を愛しています。
堪らない。世界、美しい。社会問題に向かって先人たちがどのようにそれを克服しようとしていたのか、奮闘する様、最高。(思わず、語彙も小学生レベルに低下)
自分は、人間がその苦悩の果に苦悩の原因に対して、肯定なり拒絶なり、何かしら「自分にしか在り得ない答え」を考え出して再び前を向いて歩く様が、本当に大好き。
苦悩の果に自己否定にまで陥り、しかしながら、その苦悩を乗り越えて自分にしか理解できない幸福を見つける──人間性って、奇跡の恩寵だ──😢😢😢
擬人化は、物事を人間的に捉える作業なわけですから、その人の思う、人間の持つ、創作的に最も「良い」「推せる」部分がその擬人化にも現れてしまうものだと思っています。
自分の場合は、「苦悩と克己」だったというわけ……。
皆も、企業擬人化の方向性で悩んたときは、「自分はなぜその企業を愛しているのか」そして「自分は企業を人間化してまでその企業の持つどんな”人間的良さ”を表現したいのか」を考えたら、何か新しい作品が浮かんでくるのでは無いでしょうか!
自分の理想的表現のために、頑張っていこう。