あとがき
登場人物が多いせいか参考文献も多くなってしまった。しかし今考えると書く前に『鉄鋼巨人伝白石元治郎』も読むべきだったなと後悔しています。
Q.どうして……どうして万全の知識で書き始めないの?
A.なぜなら、知識に万全などということは、ありえないから🥺
この小説、本文は以前の短編集で書いた『マージナルから踏み出す時』と大体同じくらいの文字数なんですが、振り返ってみると、自分は一体マージナルのあのプロットでどれだけ文字数掛けていたのかを思い知らされて、絶妙な気分になりました。
もっと文字数を絞り、短い文章でまとめて伝える力が必要だと思う。歴史背景と心理描写に執心し過ぎなんだよね。でも自分は心理描写がしたくて小説書いてるのでこれは譲れないトコでもある。何事もバランスなんだ……。
そして、以下は史実についての補足です。
作中での大きな偏向的描写は主に2つあって、一つは白石と浅野の関係、もう一つは戦間期(第一次世界大戦後不況)における日本鋼管へのメディアの評価です。
まず1つ目の白石と浅野の関係について。
作中では日本鋼管目線の回想の中で、白石が東洋汽船での経営難を巡って浅野の不興を買い、左遷されて独立したような描写がありますが、これは白石目線だとほぼ否定される見方かなと思います。そもそも、白石が浅野から独立する契機は、東洋汽船ができる前からありました。白石は浅野のもとに入社した際、既に「自分はいつか貴方の元から独立する」と約束していたと回顧しているので、別に東洋汽船の経営難以前から独立しようという意思はあったわけですね。加えて、同じ白石の回顧の中では、日本鋼管設立直前の東洋汽船の経営状態について「経営が落ち着いてきた」と評価しています。彼の言う通り、東洋汽船での銑鉄調査旅行は、丁度日露戦役後不況が落ち着いてきた頃にあたります。経営難を巡って責任を問われて左遷のであれば、不況の内に移動させられそうなものですが、そうではなかった訳です。さらに言えば、元々東洋汽船の創立期から、白石は新規航路の開拓などでかなりの回数で欧米への調査に向かわされており、白石が今泉に出会う契機となったインド銑鉄の調査に関しても、浅野が白石の調査能力を信頼していたからこそ派遣されたのであって、左遷ではないようにも思えます。
ただ、東洋汽船時代の白石と浅野の関係が仕事の上では非常に良好だったのに対し、感情的にはどうだったかというと……微妙なんですよね。
小島直記が書く上司と部下の関係くらい微妙。朝吹と武藤みたいな関係ではなくて、中上川と池田みたいな関係に近かったわけです。小島先生では益田と馬越といったところかな❓流石に中上川と岩下みたいな関係ではなくて、良かった〜✋😄💦すみません。こうやって身内(三井の経営者オタク)以外には無為な比較を持ち出してくるのが、オタク仕草の悪いところです。いや自覚済みなら辞めろよ。うるっさい❗ここは俺のサイトやぞ😡俺のしたい話させろ❗😭閑話休題。
まぁ要するに、お互い信頼はしているけども、なんとなく気に食わない所があって「なにくそ〜ッ」という感情が根底にあるような関係です。←正直言っていいですか?これはvar:Int!が一番好きな関係の一つ。
特に入社直後の白石と浅野のエピソードの時点で、既になんとなく不吉な空気が流れているので是非読んで下さい。もう駄目そう。令和の若者だったら確実に逃げてるだろこれ。
白石は、四時間睡眠で働く浅野に対して「こんな爺さんに二十代の元スポーツマンの自分が負けてなるものか」と思って働いたとあり、東洋汽船の経営難では浅野が自分によく白石の経営方針について愚痴を言ってきたと回顧しております。なお白石はその愚痴にも平然と受け流していた模様。白石って負けず嫌いなトコあるよね。
日本鋼管の設立への浅野の態度もこれまた絶妙です。大川平三郎や大倉喜八郎が白石に経営のアドバイスや伝手を与え、株主集めのために奔走したことと比べると……白石が日本鋼管を作って独立することを相談した時点で、彼が「独立するのに自分が口を聞いたりすれば君の仕事にならないから、援助はしない」とガッツリ断った通り、もう放任って感じです。株は結構買ってくれているんですがね。この浅野の態度を、獅子の親が子を千尋の谷に子を突き落とすような、一種の愛情と見るか、それとも自分の下から離れていく部下への冷徹な素っ気なさと見るかは、人によって大きく分かれるでしょう。
ちなみに日本鋼管は後年戦中期くらいの頃、浅野良三ら浅野家の人間を取締役陣に迎えていますし、白石自身も浅野系列の会社十社以上に取締役員として名を連ねています。こういうのを見ると、白石の言った「独立」は近世における別家制度みたいなものだったのかなと思いますね。元々部下だった人間が、商売上経営者としては独立しても、家族的連帯は繋がっている訳です。ただ例として、三井家の別家が本家の呉服に連なる商品である靴や簪、綿花等を取り扱っていたのを考えると、日本鋼管という会社自体はあまり浅野財閥との接点が少ないように思えます。社史には同業者の小倉製鋼ですらほとんど言及されませんし。ただ浅野造船所や浅野の石油事業は、鋼管にも繋がりがあったでしょうね。
次に日本鋼管へのメディアの評価について触れましょう。
作中では第一次世界大戦後、日本鋼管がメディアからひどく悪く言われたように書かれていますが、これもまぁ見方としては微妙かも知れません。1930年代の好景気、日本鋼管が成績を回復させた際には「かつては日本一のボロ会社と言われていたが……」と枕詞のようにつけられたものですが、いざ1920年代の雑誌や書籍などにあたってもそこまで手厳しい批判にさらされていたわけではないように感じます。今泉博士も1920年代にはいろいろな所で講演したり、鉄工業者の代表者として斯界に目されたり、評判を高めており、日本鋼管がそこまで世間中から大失敗のように思われていたかというとそうではないようです。ちなみに、『実業之世界』には白石へ凄まじい悪口ぶりを書いている記事もありますが、1920年代の彼ら日本鋼管への批判記事といえばその一つです。むしろ1930年代後半の第二次製鉄合同を蹴った後の時期の方が、かの雑誌らしい攻撃的批判記事が増えます。そ、そんな……。
まぁ第一次世界大戦後の不況は大概の会社が沈んでいたために日本鋼管の経営難ぶりもそこまで目立っていなかったのかも知れません。そりゃ大戦後不況やら関東大震災やらで会社の倒産が相次ぐ中にいれば、生き残っているだけでも大変な優良会社ですからね。
以上が補足です。この小説では、日本鋼管の持つ後ろ向きな見方や、攻撃的な気性を強調するために、色々ちょっと偏向的にした情報を出しました。エンタメ系歴史小説の本質、これ。つまり、作者は自分の書きたい展開のために情報を歪める可能性が高いのである。皆も歴史叙述には気をつけよう!
あと東邦電力が東洋汽船の後輩みたいな描写しちゃったんですけど、東邦電力の前身を考えると、彼は東洋汽船より歳上なんですよね。東洋汽船は日清戦争後、日本政府による航路補助金を契機に設立された会社で、明治29年生まれです。一方の東邦電力はというと、名古屋電灯の部分を大同から受け継いだものとして除外しても、九州電灯鉄道は明治27年生まれだし……。まぁ、山下汽船の山下亀三郎も、大同電力の福沢桃介のほうが大体二歳下であるにも拘らず、先に出世したからという理由で先輩扱いしていましたし?東京進出や海上ビルにおいては東邦電力は東洋汽船よりずっと後に来た勢力なので、東京財界においては東洋汽船の方が先輩じゃん?よし!じゃあ年齢問題はこれで解決ですね❗😄
参考文献
- 今泉嘉一郎『日本鋼管株式会社創業二十年回顧録』(1933年)
- 井東憲『鋼管王白石元治郎』(共盟閣、1938年)
- 日本鋼管『日本鋼管株式会社三十年史』(1942年)
- 今泉博士伝記刊行会編『工学博士今泉嘉一郎伝』(1943年)
- 柴孝夫「不況期の二大造船企─大正後期の三菱造船と川崎造船所─」(『経営史学』1983年)第18巻3号、pp.1-28
→山下汽船の造船業進出に関する話が出てくる。 - 岡崎哲二「1920年代の鉄鋼政策と日本鉄鋼業一製鉄合同問題を中心として一」(『土地制度史学』1984年)第26巻3号、pp.1-17
→この作品の軸になった論文。第一次製鉄合同に関する製鉄業者等の動きと彼らの会社経営を比較した論文。「その頃、白石さんが何度も八幡へ来て……」という農商務省官僚の話がある。 - 新鞍拓生「八幡製鉄所における筑豊地方からの原材料調達と筑豊鉱業主―石炭、石灰石の供給における麻生太吉」長野暹編『八幡製鉄所史の研究』(日本経済評論社、2003年)
→九州電灯鉄道と八幡の関係に関する話が出てくる。 - 今泉嘉一郎「技術家會社經營の可否」(『実業の世界』1912年)第9巻17号、pp.64-66
→今泉が八幡から独立する際に実業之世界へ送った寄稿。当時の財界において、技術者は経営を無視しがちであるという風潮があったことへの批判か。今泉らしい勝ち気な文章。 - 西野惠之助「余は何故東京海上保險會社に入社せしか」(『実業の世界』1913年)第10巻8号、pp.41-42
→作中、東京海上の言葉の中で一瞬だけ出てくる西野に関するもの。日本鋼管三十年史の役員の章でも西野のことを確認できる。 - 近藤義太郞「大工業家と其財力」(『工業之大日本』1916年)第13巻12号、pp.46-48
→日本鋼管を設立した今泉のことを取材した記事。かなり濃い目の近代文語文。でもね〜今泉の強情な描写がとても良い。 - 「東京海上ビルデイングだより」(『実業の世界』1921年)第18巻7号、p.31
→東京海上ビルのオフィスのどの階にどんな会社が入っているか分かる記事。 - のの字「會社銀行御役所では晝飯をどうしてるか:丸の內界隈晝食行脚の記」(『実業の世界』1924年)第21巻10号、pp.140-145
→東京海上ビル中央亭組の面子がサラッと書かれている。東洋汽船の経営者もたまにここに加わっているらしい。 - 岳陽生「郵船東洋汽船の合併問題と其の經緯」(『実業の世界』1926年)第23巻2号、p.140
→東洋汽船と日本郵船の合併の後日に書かれた記事。東洋汽船の経営難によって彼の持っていた国外航路が停止されるとなれば国の面子潰れだとして国が合併を促進したという意見が載っている。正直郵船との合併問題はもっと調べるべきだったかも。 - 「財界廓淸の第一聲 新聞記者放談會 (第十三回) 老朽若朽重役引退勸吿八つ當り」(『実業の世界』1929年)第26巻5号、pp.12-21
→1920年代後半、白石に対して激烈批判が加えられている記事。 - 高橋亀吉「製鐵大合同案の正體」(『実業の世界』1931年)第28巻3号、pp.80-81
→製鉄合同は三井や三菱など大財閥の救済案だと批判する記事。こちらは第二次製鉄合同の際のもの。目玉はそれぞれの鉄鋼業者がどんな設備を有しているかを分析した部分。 - 「社運挽回物語 日本鋼管の更生と白石元治郞君と今泉嘉一郞君と」(『実業の世界』1934年)第31巻4号、pp.12-21
→1930年代に入り、日本鋼管の経営難を立て直した二人を評価する記事。ちなみに大体この記事以降から『実業之世界』は日本鋼管に対してかなり批判的になっていく。 - 関善太「工業立国に捧げた白石元治郎の清洌な生涯」(『経済知識』1982年)第347巻、pp.60-80
→短くまとめられた白石元治郎と日本鋼管をめぐる評伝。 - 小指軍夫「鉄の人物史-6 今泉嘉一郎」(日本鉄鋼協会編『ふぇらむ』2000年)pp.34-40
→日本鋼管関係者による今泉嘉一郎の短い評伝。彼の技術家としての側面が描かれている。 - 丸之内新聞社編『丸の内紳士録 昭和三年版』(丸之内新聞社、1928年)
→郵船ビルに川崎造船所営業部や海外の鉄鋼業者が入っているのが確認できる。 - 白木正光編「海上ビル」『大東京うまいもの食べある記 昭和8年版』(丸ノ内出版社、1933年)pp.60-67
→東京海上ビル地下食堂や中央亭のメニューの様子が分かる本。 - 小林一三「事業・東京型と大阪型」『私の人生観』(要書房、1952年)
→福澤桃介が大同電力のオフィスを海上ビルに持ってきたことに対し、地方の会社でありながら東京に事務所を置くのは無意味だと、松永安左衛門(東邦電力)が批判的に見ているのが分かる。 - 松永安左衛門「ホール・ネーチュアの人」「財界の自然兒・淺野と野口」『私の人生読本 』(要書房、1954年)
→松永安左衛門(東邦電力)の浅野総一郎(東洋汽船)への好感情が見て取れる。また東邦のオフィスが大同とすぐ近くであった話や浅野の大川へのライバル視など。 - 東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』(1962年)
→作中の東邦電灯の主体は九州電灯鉄道となっている。東邦電灯で実権を握った松永安左エ門は、九州電灯鉄道からの関係者であるため。 - 大同製鋼『大同製鋼50年史』(1967年)
→大同製鋼の描写に。大同製鋼は高級品質な特殊鋼を生産する業者。 - 松永安左ェ門「各務鎌吉さんの思い出」『淡々録 改訂版』(経済往来社、1971年)
→各務鎌吉(東京海上)を中心とした東京海上中央亭に集まる海上ビルの経営者たちの様子が分かる。眩しすぎるんだけど?おじさん世代の青春だろこれ……。 - 飯田賢一『人物・鉄鋼技術史』(日刊工業新聞社、1987年)
→今泉嘉一郎の評伝。彼の八幡での努力や出世についても触れられている。また大同製鋼の寒川恒貞の評伝も納められている。