置いていくなんて
1925年、早朝の川崎に朝日が差している。
冬の冷え切って澄んだ空気に、日の光が鮮烈に広がり、平炉や転炉を抱えた巨大な工場群が落とす影は地面を青く染めていた。
雨音はすっかり去って、産毛に包まれた多年草の若葉に、朝露が滴って輝いている。
社宅の群から白い煙が上がっていた。朝食の準備をしているのだろう。
鉄底の足音がドアの向こうからやってきた。
彼はあちこちの部屋に何かを探しているのか、慌ただしく辺りを行き来している。
やがてその人物は、この日本鋼管の役員室の扉を開けて入ってきた。
「ご苦労だったな」
声をかけたのは、早朝からこの部屋に陣取っていた今泉嘉一郎、取締役技師長である。
いまだ給仕も出社していない役員室の中、今泉はストーブの上でやかんを沸かしていた。
入ってきた男は、応接間の背丈の低い椅子の上に抱えていた荷物を置く。
「あぁ……ありがとう。しかし君がこんなに早くに出てきてくれるなんて、昨日は酒を飲まなかったのかい」
「折角君が帰ってくるのに、寝坊なんてしていられないだろう」
今泉はニヤリとして答えると、椅子に座っていた身を起こして、戸棚からコップを取り出した。
「そうかな。私はてっきり何か問題があるのかと心配に思ったのだがね」
男は身につけていた外套を脱いで、苦笑しながら今泉を見た。今泉は戸棚から振り返り肩をすくめた。
「はぁ、あぁ、君の言う通り……そうだな。問題も、ある」
バツが悪そうに答えながら、ストーブの上のやかんをとると、コップの中に白湯を注いだ。白い湯気が流れる。
今泉が温まったコップを男に手渡す。男はつけていた手袋を外してそれを受け取った。
会釈をして、すぐに白湯に口をつける彼の手や頬は赤く乾燥して、ところどころに赤い切り傷が見える。
今泉は、そこに彼の長い苦労の旅路を忍ばずにはいられなかった。
「結局」
今泉が、白湯を飲む男を見ながら、目を伏せた。
「八幡は駄目だったんだな」
男は白湯から一瞬口を話して、今泉の方を見た。
「あぁ」
彼は素っ気ない端的な返事だけをして、白湯を飲み続ける。今泉は静かに頷いた。
今泉の目の前に立つこの男こそが、日本鋼管の副社長にして経営のリーダーを務める、白石元治郎である。
彼はつい先日まで、北九州の八幡へと旅立っていた。昨今、製鉄業界を賑やかせている製鉄合同に、白石は賛成の立場で論陣を張っている。彼は八幡の技官達を説得するために、経営者の立場から自身が練った合同案を携えて、向かっていったのだ。
しかしながら、やはり八幡の技官たちは納得しなかったと、一昨日の白石の電報で、今泉はその失敗を知らされていた。
白石が八幡の技官に合同案を納得させようと苦心するのは、これが初めてではなく、すでに幾度と却下されてきていた。今泉は彼の出立前からすでに、きっと今回もうまくは行かないのだろうと――半ば諦念を感じていたので、今更それに何かを言うつもりはなかった。各地の製鉄所の救済的合同案を抱え込むのは、八幡にとって容易ではないだろう。官僚的で、半ば採算度外視の経営を行っている八幡が、民営の会社と歩調を合わせるのが如何に困難であるかは、八幡の内部にいた今泉自身がよく知るところである。
ただ今泉は、白石の、日本鋼管の経営のためなら、そうした一縷の可能性のためですらも努力を惜しまない姿勢に感嘆していた。
「何はともあれ、疲れているだろう。今日の午前中くらいは休憩しておくべきだな」
今泉はそう言って椅子に戻る。だが、白石はただ黙って首を振るだけだった。
「それで」
白石はコップを応接間の机の上に置いて、今泉に向き合った。
「君が早起きして待っていた問題というのは?」
今泉はあぁ、と答えて、何というべきか首を捻る。ため息をついて、一昨日の顛末を語り始めた。
「日本鋼管が……遂に伊藤から君の八幡行きを聞いてなぁ。……アイツは随分、君に怒り浸透の様子だったよ」
「……」
部屋の空気がどこか重くなる。白石は黙って目線を窓の方にやった。
「君の代わりに俺に当たり散らかしてきた……どうにもアイツには憤怒にかられる癖があるよな」
白石が心配そうに今泉の方へ視線をもどした。彼は眉間を揉みながら呟く。
「それで……俺がついカッととなって怒鳴り返したら、雨の中に飛び出してってなぁ。そのまま風邪になったらしい……昨日から寝込んでやって来てない」
今泉が彼の特徴的な垂れ目で、白石の方を見つめていた。白石はあぁ、と相槌を打った。いつも早朝から事務所か作業所へ紙や鉛筆を広げて屯していている日本鋼管が、今朝は見つからなかったのはそういうことかと合点が行ったからだ。彼は健康児で、めったに寝込むことなどないが、大丈夫なのだろうか。
「私と日本鋼管の喧嘩になるはずが、君と日本鋼管の喧嘩になったと。……そしてその仲裁役を私に?」
白石は平静な調子で話を続ける。
今泉と日本鋼管が喧嘩するのは一度や二度のことではなかったから、今更驚くことでは無かった。両方とも負けず嫌いで熱しがちなので、相手に食ってかかられると我慢ならなくなるのだろう。しかし、そういう今泉の怒号に慣れている日本鋼管が、今回は大人しく折れて出ていったというのは意外であった。
「昨日は伊藤に頼んだ。仲裁役は君が二人目だ」
今泉は白石から目を泳がせながら答えた。バツが悪いのだろう。ここで自分から見舞いに行けないのが今泉であり、おそらくそれは彼の「息子」の日本鋼管も同じなのだ。
「伊藤は……仲裁に失敗したのか?」
「家に行ったが、向こうは風邪を移されたくなかったら早く帰れと喚いて、戸も開けてもらえなかったらしい」
「あぁ……」
日本鋼管は一度へそを曲げたら強情で押し通そうとする性格だと、白石もよく知っている。ただ……伊藤はちょうど昨年、病気でいきなり倒れて皆随分心配したものだから、顔も合わせずに追い返したのは、彼の容態を気にした日本鋼管なりの配慮であったのかもしれない。
「それで……あいつ、今日もまだ来てないだろう?まだ寝込んでいるようなら……今度は君が見舞いに行ってくれないか」
白石は苦笑した。
「あぁ……分かったよ。彼の癇癪の理由が私にある以上、断れないね」
「そうしてくれると助かる……ついでに、もし家にあがれたら、アイツの看病をしてやってくれ」
「看病ついでに私に休めと?君も上手いことを考えた……あぁうん、もちろん見舞いに行くよ」
そう言いながら、白石は椅子の上の外套を再び羽織った。今泉は窓の方を見て黙っている。
「……」
「お土産だ」
黙り込んでいる今泉の前に、白石が菓子折りを差し出した。今泉はそれを一瞥し、受け取ろうとして――しかし、それを白石へと押し返した。
「いや……俺より先に日本鋼管へ食わせてやった方がいい」
その塩らしい答えに面食らった白石だが、それももっともだと思って、返された箱を懐に戻した。
風呂敷に菓子折りを包み直し、椅子の上の荷物をまとめ直す。
白石が荷物を引き上げて移動しようとする中でも、今泉は椅子に座って、静かに窓の方へと向かっていた。
手袋をはめて、白石はドアの方へと戻る。
「それじゃあ」
静かに振り返ってドアを開きかけたその時、今泉が口を開いた。
「日本鋼管のやつ……」
白石が驚いて窓を眺める今泉の顔を見つめる。彼の顔はよく伺えないが、どこか不機嫌そうなその心持ちを感じ取れないほどの間柄ではない。
「俺たちが株主にせっつかれて、八幡へ自分を預けて経営を降りるとでも思っているらしい」
「……」
眉間に皺が寄る……白石は頭を抱えた。
要するに……日本鋼管は、自分たちと同じく製鉄合同の賛成者である東洋製鉄の戸畑製鉄所のように、合併に際して経営の采配まで八幡に譲るのではないかと思っているのだ。
「何故そんなことを?」
今泉は忌々しそうに答える。
「知らん。どうせ馬鹿馬鹿しい噂話だ……」
白石が、今泉のその怒りのこもった様子を宥めようと何か言おうとした瞬間、続く言葉が彼の動きを止めた。
「15年も一緒に居て、どうして俺たちがそんな薄情な両親に見えるんだ?」
事務所を出た白石は、向かいの木造の社宅群へと向かった。
今泉も白石も、日本鋼管が自分の家に寝泊まりするならそれでも構わないと彼に言っているのだが、どうも彼は社宅に一人で暮らす方が気楽らしい。
年頃の男が、親の家に居続けるのは気まずいのだろう。広い邸宅より、6畳でも一人の居城を選ぶのは、今泉譲りの強情な性格の表れだと白石は微笑ましく思っていた。
だが同時に、そういった気の強い日本鋼管のことだから、きっと寝込んでも近隣の職員の助けを借りようとはせずに一人で過ごしているであろうことも予想できた。
木造の平家の社宅が長く続く様は、一種の長屋である。6畳と土間のついた小さな社宅が立ち並んで、朝食の喧騒が聞こえてくる。
日本鋼管の社宅は……白石は、長く広い社宅群の列を数えながら、注意深く目当ての家の位置を探す。
そして、日本鋼管が自分の顔を見たら、一体なんと言ってくるだろうかと考え始めた。
彼がどうにも何か思い込みで怒りやすい性格をしているのは、白石の頭を悩ませている問題の一つであった。強情なのは親譲りの生来の気性なのだが、日本鋼管の場合は、それを拗らせて一人で考え込んだ挙句に否定的な方向へ物事を考えがちなのだ……。一方で、そう言った性格を作った原因の一端が、自分の招いた経営難にあるであろうことを、白石は申し訳なく思っていた。
日本鋼管は世間が嫌いだ。
彼もこの工場の中では明るくて威勢のいい男なのである。昼は技師たちと論戦しあるいは転炉の付近で修理や点検に当たり、夜になれば仕事仲間と囲碁や将棋で大騒ぎしだすような、普通の青年だ。
しかしながら、工場の外の世界の話になると、日本鋼管はうって変わって思考がどこか根暗になり、物事を否定的に捉えだす。そしてその原因は、新聞や雑誌や、あるいは銀行などの金融先からの批判に晒され続けてきたからだと、白石は考えているのだ。
明治45年に生まれ、そのまま第一次世界大戦の波に乗って急成長した日本鋼管は、当初こそ時代の潮流に乗った当代の当たり男で、多くのメディアは彼のことを肯定的に捉えていた。だが第一次世界大戦の素晴らしき好景気は終結し、鉄鋼市場と共に彼の成績が転落し始めると、メディアの中にはうって変わって痛烈な批判を浴びせ始めたものもいた。また、銀行などの多くの金融機関は彼と急激に距離を置くようになったのだ。
白石や伊藤はすでに、東洋汽船で日露戦役前後の不況において同じような体験をしてきたので、メディアや銀行の、晴れの日に傘を貸し、雨の日にはそれを取り上げるような態度の変えように、今更驚くことも無かった。今泉も、八幡において同じような体験をしてきた事業家であったから、彼らの批判に憤激こそすれど、むしろ自身の燃料にするくらいの気概を見せているものだ。
対する日本鋼管は違った。生まれて2年で時流の雲に乗り、そしてそれから4年で人生の転落というものを体験させられる感覚は、長い苦学生生活を送ってきた白石たちには分からない。ただ、その体験はメディアや銀行の言い分を世間の言い分だと思い込んで、敵視しだすようになるのに十分だった。強情で負けず嫌いの彼は、人に自分の弱音を吐けない。日本鋼管が一人で塞ぎ込むような様子が見えるようになったのはこの頃からだ。今泉や伊藤は、日本鋼管も思春期か反抗期の時分でそうなっているのであって、大人は見守って黙っているべきだと言っていたが、白石にはそう思えなかった。
白石は、第一次世界大戦の好景気で振り戻しがくると分かっていながら、内部保留を間に合わせられなかった自分の経営の見通しの至らなさが、彼をこうした苦境に追い込む原因一つになってしまったのだと考えていた。無責任な外野の批判でさえも、火の無いところには立ちえない。批判される状況を作ったのは、経営者である自分なのだ。であるから、白石は日本鋼管に悩みがあるなら聞こうと何度も接したが、むしろそうやって近づくほど彼の心の壁が厚くなっていくような距離感を感じずにはいられなかった。
社宅の端の手洗所から子どもが駆け出してきて、白石と危うくぶつかりかけて止まる。少年は白石の身なり――外套に帽子を被った、如何にも社宅の住民でない姿を見て、驚いたように目を丸くした。しかし、白石が帽子をとって会釈しようとすると、彼はそれも待たずにすぐ自分の家へと再び駆けて行ってしまった。白石は苦笑する。日本鋼管の家はちょうど彼の駆けていったこの列だったろう。
日本鋼管が怒りをぶつけたに来たという今泉の話を聞いて、白石はどこか、彼に何か期待をするような、絶妙な気持ちになっていた。どこかこちらに距離を置いて自分の苦悩を隠してきた日本鋼管が、それを爆発させてうち明けてくれるなら、自分はそれを聞いてやりたかったからだ。
日本鋼管の社宅の前につく。表札を確認して、扉を優しく叩いた。
すると、意外にも中からはすぐに返事が返ってきた。
「なんだよー!」
ぶっきらぼうなその言葉を聞くに、きっと扉を叩いているのは、近隣の職員だと思っているのだろう。そしてこの快活な調子からは、到底寝込んでいる様子が思い浮かばない。すでに回復して、一人で朝食をとっているような気がする……。
白石はむず痒いような気分になったが、深呼吸をして戸に触った。
「やぁ、おはよう」
日本鋼管は、白石の予想通り、すでに6畳の家の真ん中でちゃぶ台を前に麦飯の茶碗を手にして、まさしく食事の最中であった。机の上には青菜と小さな焼き魚が数尾、それに味噌汁が並んでいる。自分でそれだけ用意できるくらいには回復しているようだ。いや、戸の鍵がかかってなかったのを鑑みるに、隣の家族からもらいものをしてきたのかも知れない。
「……」
口を開けて、困惑した顔で日本鋼管がこちらを見つめていた。
彼は一瞬固まっていたものの、すぐにため息をついて首を振る。
「あー……おかえり」
そして、どこか気まずそうに挨拶を返すと、そのまま平然と麦飯を食べ始めた。白石は思わず拍子抜けする。
出会い頭に怒りをぶつけてこないまでも、睨んでくるぐらいの勢いでくるかと思っていたのだが、まるで正反対だ。
しかしここで引き下がったら、日本鋼管の苦悩を聞ける機会ももうやってこないかもしれない。
白石は意を決して日本鋼管の家の土間を上がった。日本鋼管は、困ったような、なんとも言えない目でこちらを見ている。
土間の縁に荷物と外套を置いて、土産の袋を取り出す間に、白石は日本鋼管へやって来た理由を話し始めた。
「昨日の伊藤の訪問で重々承知しているかもしれないがね、今泉は未だに君の容態を心配していたよ。でも喧嘩して気まずいからって、私に様子を見ていってほしいと」
「……」
優しく声をかけても、日本鋼管は黙ったままだ。
白石は荷物から振り返ると、微笑んで風呂敷から菓子折りを取り出した。
「さっき事務所に土産物を置いていこうとしたら、今泉が先に君へ食べさせてやれと押し返してきたんだ」
日本鋼管は白石の話を聞きながら、今度は味噌汁をすすっている。
白石はちゃぶ台に土産物を置くと、黙って日本鋼管の食べる様子を見ていた。穏やかな沈黙が二人の間に流れる。
土間に置かれた石炭ストーブが、湯気をあげて室内を温めていた。窓辺の障子から、白く柔らかい光が畳を照らす。押入れの上の長押には、いくつかの写真が並んで掛けられていた。建設時のものと、白石が炉に火をいれた時のものと……職工の家によくあるような、創設者の肖像は無い。日本鋼管の曰く、親の顔を飾るのは恥ずかしいから嫌だと、写真を送り返してきたのを思い出す。
ちゃぶ台の奥にはいまだ敷布団が広げられたままで、枕側の部屋の隅には、日本鋼管が買って集めた本や今泉達が土産ものに買ってきた洋書が乱雑に並べられて、あるいは積み上げられていた。
「私が八幡に行ったのは株主の人々に押されたからでは無いよ」
「……」
単刀直入な白石の言葉が沈黙を破る。日本鋼管は目を丸くさせたが、やはり黙っていた。
「君は……君は株主のことを嫌っているようだけれど、私は彼ら一人一人に本当に感謝している」
日本鋼管は目線を下にやった。
「浅野さんから独立すると決めた後、私はどうにか君の設立に力を貸してほしいと……皆に頼んで回った。その時応えてくれた恩は到底忘れえない……」
「……その話はもう聞いた……」
不意に日本鋼管がつぶやいた。白石から目線をそらしながら、彼は言葉を続ける。
「世界大戦の時に株を買った奴らはそうじゃない……それに、創設の時には俺にいい顔をしてなかったのに、担保でやってきた安田銀行のやつらも……俺は好きじゃない」
「彼らだって私には恩人だ。たとえどれだけ株価が下がっても、未だ手放さないでいてくれている時点で……まだ私達に期待してくれている事自体に感謝しないと」
説教じみた言葉に、日本鋼管は一瞬彼に不満げな目線を寄越したが、すぐにまた顔をそらして、焼き魚を口に運んだ。
白石はため息をついて言葉をなくしてしまった。日本鋼管の株主嫌いは、白石もどうにか治さなくてはいけないと思っているものの、彼にそのことを諭そうとするたびに、いつもこうやってへそを曲げて嫌がるのだ。
日本鋼管は焼き魚を麦飯で押し込む。黙ってしまった白石を見かねて、今度は彼が質問をなげかけてきた。
「じゃあなんで八幡に行ったんだよ……」
どこか刺々しいその声には、白石のことを責めているような気配があった。
白石は思わず今泉の言葉を思い出す……彼は自分たちが、八幡か、あるいは合同先の会社に彼を預けてどこかに行きはしないかと思っているのだ。どうやって話し始めるべきか、白石は考えあぐねて天井を仰ぎ見た。
日本鋼管は、突然の白石の訪問に、なんとも歯切れの悪い気分になっていた。
昨日までは、怒りのあまり彼が来たら思い切り問い詰める気位でいたのに、いざ本人を目の前にすると、何も言えなくなってしまうのが日本鋼管であった。昔から、今泉や伊藤に対しては平気で怒りをぶつけられるのだが、白石相手だと好きにモノを言えなくなる……。白石は今泉よりも落ち着いていて、それに伊藤よりも口数が少ないから、こちらが食ってかかっても、平素のように受け流してしまうのだ。だから張り合いがなくて……。
いや、違うな。
日本鋼管は、小皿に残った最後の青菜と共に放り込まれた麦飯を飲み込むと、茶碗を置いて味噌汁に口をつけた。
白石は……何を考えているのか、よく分からない人だ。タバコは好きだが酒を飲まず、話していても感情を表に出す機会が少ない。話していても、彼はいつも落ち着いて真面目な顔をしているか、静かに微笑んで聞いているだけだ。
それに彼には趣味も無い。昔はボートが好きで学業よりも打ち込んでいたようだが、それはきっと”ボート”が好きだったからというよりも、”仲間とボートで勝つ”のが好きだったのだろうと、日本鋼管は思っている。すでに彼はボートをしていない。それに彼が東洋汽船時代に欧米から持ち込んできたゴルフセットも、いまやほとんど使っていなかった。彼は何が好きなのかも、よく分からない。
結局、彼は仕事が趣味のような男なのだ。それは東洋汽船時代から……ではなくて、きっと大学のボート部時代の以前から、彼の気質としてそうなのだろう。彼は、仕事でもスポーツでも何か一つのことに熱中すると、もう他のことは二の次でどうでもよいとばかりに、さっぱり諦められる性格だった。そして今、彼が他のものを諦めてまで打ち込んでいるのが日本鋼管のことなのだ。
彼がいつも何を考えているのか、何が好きなのか、それは未だに分からない。それでも日本鋼管は、白石がいつも自分のことを、会社のことを考えてくれているし、自分の事を好いてくれているのだろうということは、分かっている。
水深の浅くなった味噌汁のあさりをつついて貝柱を切る。白石が黙ってこちらを見つめている。
石炭ストーブの小窓から、薪木の弾ける音が聞こえた。
それに、白石は……優しい人だと日本鋼管は思っていた。今泉と比べると、彼はもっとずっと人のことを気にかける性格をしている。日本鋼管は、彼が職員の健康を気にして声を掛けているのを幾度と聞いたことがあった。
白石はあまり身体が壮健でなくて、子供の頃ひどく苦しんだことがあるから……いや、もっと大きなことで言えば、彼の長男が病で早世したからかもしれない。自分が苦しんできたから、他人の苦しみが想像できるのだろう。会社の人間の面倒を見るのは尋常でなかったし、社員を滅多にリストラしなかった。
それが社員その人への愛情からくるものなのか、それとも仕事への連帯感からくるものなのか、本人以外には知れないことだが、日本鋼管にはそれは愛情の一端だと受け取っていた。
ならば、白石が優しくて、自分のことをいつも考えてくれて、愛しているから、でも一方で今泉や伊藤はそうでないから、自分の中で彼らへの態度が変わるのだろうかと言ったら、それも全く違うのだ。
隣の家から喧騒が聞こえてきた。そろそろ出社の時間帯だ。あちこちで戸の開く音が聞こえてくる。
だがこの室内は未だに静かなままだった。聞こえるのは、箸であさりをいじる軽快な衝突音と、石炭ストーブの燃焼室があげるかすかな破裂音だけだ。
日本鋼管の左手の麦飯は、もはや最後の一かけらだけになっていた。あさりを毟っては、僅かに残された米粒の山と共に口に運ぶ。
今泉は怒りっぽい人だ。それに天才肌で昔から優秀だったからか、自他ともに厳しいところがあった。部下の技師のことも日本鋼管のことも、至らないところがあればすぐに指摘するし、口論になれば声を荒げだすことも少なくない。
だが今泉は、そういった怒りを引きづらないところに美点があった。彼が怒りやすいのも、それは彼の正直な性格の一面なだけであって、怒りやすいのと同じくらい、彼はよく笑うし、とにかく明朗な態度で人好きのする人だと知っている。日本鋼管は今泉と何度も喧嘩をして、家出だ勘当だと言って周りを困らせるような言い合いを演じたこともあったけれども、毎回二三日で二人共すぐに気を許して元に戻るのが常であった。
最近の彼は世間からすっかり製鉄業界の代表者扱いをされていて、色んな会合で弁舌をふるったり、代議士になったり、あるいは新聞社の社長になったりしていた。それでも、彼は結局現場が大好きなようで、暇があれば日本鋼管の工場に来て、彼の眼光と探究心でもって新米の技師たちの肝を冷やし、振り回すのだ。
日本鋼管は、今泉が色々なものに手をだしてあちこちに行ったとしても、最後にはやはり自分のところに帰ってきてくれるだろうと分かっている。
伊藤も、白石よりは今泉の方に似ている。おしゃべりでよく笑う人だ。彼は技術者ではなかったけれども、事務や文書の処理は自分の役目だからと意気込んで、日本鋼管の建設準備の時から、今泉や他の技師と一緒に合宿所へ住み込んでまで熱心に準備の手伝いをしてくれた。東京の事務所からの手紙や機械の購入先である欧米からの英文書を捌く様は会社の皆が常に感嘆していたものだ。おまけに彼は冗談が上手く、日本語でも英語でも同じく洒脱に話す様もまた、会社の皆の及ぶところではなかった。彼は今泉や白石のように、メディアの前に目立つ人では無いが、彼ら二人では補えなかった長点を持つ人で、本当に皆が頼りにしている。
しかし、伊藤は数年前から急激に身体を悪くさせている。腎臓を切除や脳溢血があって、彼の気性にも変化が生じた。何と言うか……自分の嫌なものへの拒絶反応が酷くなって、どこか気難しい性格になってしまったのだ。彼の身体や脳が、次第に病魔に蝕まれつつあるのは誰の目にも明らかなことであったが、彼はどれだけ体調を悪くしても、療養によって快復すると、すぐに日本鋼管の工場へやってきた。日本鋼管も彼の身体を心配していたものの、それでもやはり、いつもおしゃべりで場を明るくしてくれて、技術のこと以外でならなんでも相談できる彼が来てくれるのは、嬉しいし安心する。
日本鋼管は、伊藤が身体の無理を押してでも工場へやってきてくれるのは、それだけ自分のことを愛してくれているからだと、よく分かっている。
あさりはすっかり殻だけになって、茶碗の中身もまっさらになった。日本鋼管は残った味噌汁を飲み干す。白石はちゃぶ台の上を見て、思わず微笑ましく思った。昔から彼は好きなものを最後に残す癖があって、今まさにちゃぶ台の上には、彼の好物の焼き魚だけが残っていたのだ。
日本鋼管も、白石を前にして、なぜだか随分昔のことを思い出していた。工場を建設していた当時、皆で合宿所に住み込んでいた頃は……こうやって好物を後に食べようと残していると、横から酔いの回った悪い大人が箸を伸ばしてきて喧嘩になったものだが、一人暮らしを始めてからはそうした争いともすっかり無縁だ。
とどのつまり、日本鋼管は、白石も今泉も伊藤も、彼らが自分の事をどれだけ大切にしてくれているのか知っていた。日本鋼管だけでなくて、きっと職員たち皆もそうなのだろう。日本鋼管の工場では第一次世界大戦が終わった苦境の中でも、一度もストライキが起きなかったが、それは彼ら経営者三人の人情と熱意を皆がよく知っていたからだ。
今泉や伊藤に怒りをぶつけられるのは、それだけ彼らに甘えられるからであって、一方で白石にぶつけたくないのは、いつも考え事の多い彼に悩み事を背負わせたくなかったからだ。そしてその理由は、日本鋼管が昨日伊藤を追い返した理由と同じだった。自分のどうしようもない悩みを彼に聞かせて、彼の悩み事を増やしたくなかったのだ。ただでさえ、彼は自分の身体と日本鋼管の経営で苦しんでいるのに。日本鋼管は全く素直な性格ではなかったが、彼らのことを心底敬慕していた。
だから……日本鋼管は、彼らが八幡との合併を選んだことを信じたくはなかった。彼らはもう、自分が一人で再起できるとは思っていないのだろうか?彼らは株主の期待の話をするけれども、日本鋼管自身への期待はどうなのだろうか?
しかしそれも……結局のところ、すべて自分の力が足りないからなのだ。彼らは多くの辛酸をなめてきた大人で、現実は親の愛でも覆せないほど厳しいことを知っている。日本鋼管は、彼らが自分たちの力と日本鋼管への期待だけではこの難局を乗り切れないと判断したとしても、自分には全く、彼らを責める道理がないのを痛く自覚していた。
情けなさとやるせなさが急に彼の胸をついて、首を締め付けられるような気分になる。
どうしようもない無力感が日本鋼管の心を占めた。
白石は驚いて腰を浮かした。
眼の前の日本鋼管が急に涙ぐみ始めたのだ。動揺しつつも彼の傍に近寄ろうとすると、彼は白石の腕を払い除けて、後ろに敷いてあった布団に飛び込んだ。
「あぁっ――」
白石は、自分の無言の思案が、彼に何か悪い予感をもたらしたのではないかと心配して声をかけようとした。だが彼はそれにも構わず、こちらに背を向けてしまう。
「何でも無い……もう寝る」
「……」
突然の日本鋼管の言動に困惑して、白石はかけるべき言葉を思いつけなかった。しかし、ここで引いたら結局何も解決できないのだ。もう思いつくままにでも、彼の質問に答えて、自分たちの立場を話さなくてはいけない……。
「私は……私は、製鉄合同が起これば良いと思っている。だから……君の言う通り、八幡の民営化が実現するなら、彼と合併したい。それは今泉や伊藤も同じだ」
日本鋼管の鼻を啜る音が聞こえた。白石は布団の前で、なんとか話を続ける。
「八幡に行ったのも全部そのためだ。正直言って、あそこへ行ったのは今回が初めてじゃない……経営者として、何度も彼らに合併案を示した。でも、上手くいかなかった……今回も」
「……」
背を向けながらも、日本鋼管は黙って白石の言い分を聞いていた。
「君の怒りは分かる、私も今泉も……長い間、働いてきた場所から独立して、ようやく君を作ったのに」
白石の声が暗くなる。目線を下げながらも、彼は語る。
「その君を、誰かの寄合世帯の下に置こうとする運動に参加するなんて、矛盾していると思うだろう」
「別に」
不意に日本鋼管が声をあげた。白石が顔をあげる。
「俺を置いていくなら……」
声が震えて、その先は言えなかった。
日本鋼管は……白石達が、たとえ八幡や合併先の会社に自分を預ける判断をしても、それは自分を見捨てるためではなくて、責任をとるために選択するのだろうと考えていた。第一次世界大戦後の不況期に、自分の作った会社でありながら、白石がその社長の座を降りたのを見ていたから。
無力な自分には彼らを責める道理が無いし、それに……自分が彼らに多くの苦悩を背負わせているのなら、それを手放させてやりたいとすら、薄ら思っていた。
白石は深呼吸をして首を振った。
「……そんなことを心配する必要はないよ」
日本鋼管は目を瞑った。
彼が……彼ならきっとそう言うだろうと、日本鋼管には、正直、予想ができていた。
「私たちが製鉄合同に賛成するのは、たとえ恥を偲んでも、それでもやはり私達は君のことを愛しているから」
それも……日本鋼管は、よく知っている。目を開けると、涙が布団に染み込んでいった。
「君が倒産するのを回避するためなら、私も今泉も……会社の皆は何でもするよ、どれだけ多くの恥をかくとしてもかまわない」
恥……もし今、八幡を民営化して合併するとなったら、それはまさしく救済合併の構図だ。救済される側の会社は世間から後ろ指をさされるだろう。独立のために艱難辛苦を超えて打ち込んできた白石や、官僚主義の八幡には出来ないことをやろうと意気込んできた今泉にとっては、屈辱に違いない。
「それでも、私たちは君のもとに居続けるよ」
「俺は嫌だ……」
自分のせいで白石達が馬鹿にされるのは。
……彼らが自身の力量に諦めをつけて、誰かに頭を下げる姿を見るのも。
日本鋼管の声はいまだ震えていて、呟きのような小声だった。白石は眉尻を下げて嘆息する。
「……嫌なことを避けているだけでは、生きていけないよ」
白石は優しく日本鋼管をたしなめる。
いつも……彼はこうだ。日本鋼管のわがままを聞くと、それを大真面目に諭しだす……。
きっと彼は、日本鋼管にとって、何が嫌なのかを分かっていない。
「平気さ……嫌なことがあっても、私達が一緒にいれば乗り越えられる」
白石の穏やかな声が聞こえる。
日本鋼管は頭を抱えて身を丸めた。白石が彼の肩に触れてなだめるように撫でた。二人はしばらくずっと、そうやって黙りあっていた。
白石も今泉も伊藤も、こんなにも自分を愛してくれているのに。自分も彼らを愛してはいるのに。一体どうしたら、何時になったらこの愛が結実するだろうか?
日本鋼管は目を閉じた。