等身大
反射して映る汽車内の光景が、窓の夜景を覆っている。
窓際に座り込むと、写り込んだ影の中に、広々としたホームと電灯の輝きが見えた。
笛の音が響き渡る。汽車はもうすぐ出て行くのだろう。
「あーあ、出遅れちまったよぉ。喫煙室は終わりだ。全然空いてねぇ……」
振り返ると、三池炭鉱がつまらなそうにタバコの箱を自身の麻袋に突っ込んでいた。
「タバコ吸い終わってるくせに、おしゃべりで居座りやがってよぉ、許せねぇ……」
ぶつくさと呟く三池に、八幡は自身のカバンから取り出した飴の缶を差し出しす。
「口寂しいなら、どうぞ」
三池は首を振ると、客車の椅子に座り込んで持っていった雑誌を広げた。タバコは我慢するつもりらしい。
八幡が上京して週末に帰ると聞いた三池は、自分も久しぶりに大牟田に戻るからと、同じ夜行列車に乗って帰ることにしたのだ。
弟の官営二瀬炭鉱が聞いたらきっと眉を顰めるだろうが、別に八幡としては同じ客車で帰った方が、客席も圧縮できていいことだと思っている。よもや今更、一緒の汽車で帰っただけで彼に特別な因縁ができるほどの関係でも無いのだし。
「日本鋼管に会いましたよ。今日の昼に」
三池が目線だけをこちらにやった。八幡は言葉を続ける。
「声をかけて、一緒にご飯を食べたのですが。その際、彼に……なんて言えばいいのか。久しぶりに、本当のにくまれ口というものをもらいました。それでいつか僕を見返してみせると」
相槌を打つように三池がやや顎を上げる。
「彼は……色々気が立っていたのかもしれません。声をかけるべきでなかったのかも……しれないと、今はちょっと悪く思っています」
「へへ……文句言われて、言われた側が悪く思うって、なぁ……」
どこか独り言のような八幡の言葉に、三池は雑誌を見ながら、鼻から抜ける独特の笑い声を上げた。
「まぁ、自分に自信に無いんだろ。まだガキだしな!だから他人を尺度にして勝手に怒り出すんだ……」
「?」
三池の言い方に、どこか周りくどいものを感じて、八幡は首を傾げた。三池はその視線に気がつくと、手を振った。
「自分に自信があって幸福なやつは、他人に一々怒りを覚えないだろ?多少ムカつくことがあったって水に流せる位寛大になれる……」
三池はそこでため息をついて雑誌をめくった。
「他人に苛々してるやつは何かしら不幸を背負ってる証なんだよ。鋼管のやつも不景気で落ち目だしな!」
「……」
三池の言葉を八幡は黙って聞いていた。
そうこうしているうちに、汽車は動き出して、窓の外では黒い蒸気が走るように流れている。八幡の影には、街頭の明かりが星のように輝いていた。
「三池さんは僕に苛々しますか?」
「あん?」
三池がやや困惑した目でこちらを見る。
「僕が貴方の勧誘に乗らないから……貴方の愚痴をよく聞くので」
八幡はにこやかにして話している。三池は黙って、八幡の淡白な目を訝しむように眺めると、鼻で笑って雑誌に視線を戻した。
「あぁムカついてるぜ、お前の官僚肌にも余裕ぶった態度にもな!あーあ、俺って本当に不幸で可愛そう!」
その威勢のいい憎まれ口に、八幡は思わず苦笑した。
「けっ、可愛くねぇ大人になりやがって……」
三池の忌々しそうな声が聞こえた。
「可愛くないですか?褒め言葉ですね……三池さんの前だと僕は格好つけたくなるので」
「そういう言い訳の上手くなったとこが、可愛くねぇんだよ」
自分の冗談を面倒臭そうに打ち返す三池に、八幡はなおも言葉を続ける。
「でも言い訳の腕は三池さんに鍛えられたものですよ」
「はぁー、もう喋んな!」
三池が顔を引きつらせて八幡を睨みつける。しかし八幡は畳み掛けるように微笑んだ。
「あぁ、僕といる時の三池さんってなんだか可愛いですね、普段よりも感情豊かで……」
そこで三池はふてぶてしく笑って、八幡に微笑み返した。
「何言ってんだ?い、つ、も、可愛いだろうが!おじさんってば三井財閥の癒しだからな……」
特大の冗談を上回る三池の態度、八幡は開いた口を閉じられずに首を振った。これが胆力の違い、あるいは年の功の差なのだ……。
ようやく口が止まった八幡に、観念したかとばかりに三池が鼻を鳴らした。八幡は再び苦笑する。
汽車はなおも走る。
ビル群を抜けて長屋の住宅街へ。おぼそかな灯火が浮かんでは消える。
「昔の三池さんは」
八幡が呟いた。客室にはランプが輝く。
「もっと偉大だと思っていました」
ランプの明かりは橙色に客室の中を照らす。
「なんだよ急に……」
三池がまた雑誌を見ながら聞き返した。
「貴方も筑豊も釜石先生も、私にとっては本当に偉大でしたよ」
「……」
天井からぶら下がるランプの光は、色濃い影を落とす。赤い客室の唐草の壁に、緑のベルベットの長椅子に。
「でも今は、彼らは皆、僕と等身大の存在だと分かっています」
汽車がレールの歪みを跳ねて、客室がやや揺れた。ランプのあかりが瞬く。
「彼らにも、貴方にも、僕と同じように長所と短所があって、そして多くの苦悩を抱えて生きているのを知っています」
八幡の射干玉の目に白色のガラスに包まれた、橙色のランプの輝きが映った。
「他人に怒りを覚えるのは、不幸の証だと三池さんはおっしゃられましたが……」
雑誌から顔を上げて、椅子にもたれながらこちらを見る三池の姿が見える。彼の平易な顔がランプの明かりで照らされているが、口を引き結んでいる彼の表情から読み取れる心持ちは無明瞭だ。八幡はそれでも話を続ける。
「僕は……少なくとも彼の怒りは、僕を大きく見すぎて、生まれたものだと思います。彼は僕のことを……意識しすぎてしまっている気がする」
「……」
八幡の言葉に三池が口角を上げて首を捻った。
「日本鋼管は、私と東洋汽船の見返すというのが……目標だと言いいました。……私も昔は、あなた方偉大な大人を尺度に目標や夢を持ったものです。だから、僕が思うに……彼の目に映る私は、かつての私にとっての先生や貴方と同じなんでしょう」
そこで三池が読んでいた雑誌をたたんで両手を広げた。
「フン……今の俺は偉大じゃないって?年上への敬意が足りてないな!」
彼の場を選ばないとぼけた調子は、出会ってから四半世紀経っても変わらない。いや、すでに四世紀以上を生きてきた彼には、八幡の人生分の時間など今更刹那に近いのだろう。
八幡は苦笑して答えた。
「敬意の意味が畏怖ならばそうかもしれません。でもそれは……貴方がたのことをもっと親身に感じているからですよ」
汽車が笛の音を上げて減速し始めた。どうやら品川駅のホームへと入るらしい。緩やかに響くブレーキ音は、客室まで届いている。減速が終わると、客室が最後の一揺れを放って、汽車の扉が開け放たれる音がした。ガヤガヤと人々が乗り上がる。八幡らの寝台室のそばにも、東京帰りの紳士たちが行き交った。
「今の貴方は偉大ではなくて、等身大なんです。僕にとって、貴方がたは、もはや畏怖の対象ではなくて、心の置けない言葉を言い合える一人の友人と等しいと思っています」
八幡は三池の目を見抜いて語る。三池は雑誌を開き直さずに黙ってこちらを見ていた。お互いの射干玉の目は淡白で、何を考えているかはよく分からないのだ。しかしながら、昔のような、三池への、何を言い出すか分からない恐怖心が今の八幡には無かった。
三池は静かにうなづいて、淡白な、あるいは真剣な、眉一つ動かさないさない表情で答えた。
「そうか?まぁ、親しく思ってくれてるなら大歓迎だぜ。ありがとうな」
そのあまりにも素直な返事に、八幡は目を丸くした。
「嬉しいんですか?僕に苛々していらっしゃるのに?」
驚きのあまり、どこか冷やかすような言葉で聞き返してしまう。しかし、三池はその真に迫った無表情で穏やかに語った。
「仕事と個別の感情は別だろう。筑豊に劣るかどうかは知らないがな、俺だってお前のことを愛してるぜ。八幡」
「……」
三池の深い深淵の瞳がこちらを黙って見つめている。彼の顔の皺はずいぶん増えて、どこか肉つきも控えめになってきたようだ。八幡と出会った頃より、彼は多くの息子たちと関連会社を抱える大所帯になって、いつの間にかそれだけ大きな貫禄と苦労というものを背負っていた。それでもやはり、八幡が抱く彼への印象の本質にある姿は変わっていないような気がする……。
八幡は息を飲んで、答える言葉が思いつかなかった。
汽車はやがて再び笛の音を鳴らす。次は横浜へ向けて旅立つために。
ギリギリと軋む音を上げながら、巨体の汽車は鉄のレールの上を滑り始める。
「あぁ!貴方と話していると、やはりどうにも変な気分になる!」
手で顔を覆って、八幡は嘆いた。客室の中の緊張の糸が一気に切れたようだった。三池が笑い声を上げて八幡をこづいた。
「へへへ……何だよそりゃ!」
八幡は顔を覆った両手の指の隙間から三池の方を見た。
「貴方はどこまでが本心でどこからが演技なのか分からないから……お話していると偶に不安にさせられるんです」
三池は再び笑い声を上げて答えた。
「これが政治家になれる才能ってやつだぜ!八幡……相手が喜ぶ言動を考えて、それを本心から誠実に言える演技ができないと……」
ニヤリと語る彼に対して、八幡はなおも困惑気味だ。顔を覆っていた手を離すと、首を傾げて三池に質問した。
「それは……つまり本心なのか、演技なのか」
「馬鹿!分かってないな」
三池が八幡の顔の前で指を鳴らした。そしてふてぶてしい顔で八幡を揶揄う。
「本心だの演技だの、そんなの一々考えてる時点で、二流ってこった!」
汽車は川を越えて走る。あたりは一面真っ暗で、街灯もない田畑の上を走っているのだと感じられる。
遠くに人家のわずかな火の灯りが見えたような気がした。レールは山の方へと伸びる。不意に客室が少し揺れた。ランプが静かに瞬く。山間に入ればもっと揺れるだろう。
八幡は深呼吸をして椅子にもたれた。真っ暗な外界の方へと視線を流す。反射した窓の向こうで、三池が足を組んで、再び雑誌を開いているのが見えた。
どうにも、三池といると自分の弱点を思い至らされる気がする。彼は生来の性格からして、こちらの裏をかいて驚かせたがるから……八幡は苦笑した。
要するに、八幡は、自分がいまだに三池という尺度で自身の弱みを理解させられているのだと考えて、緩やかにため息をついた。
自分も、自分が思っているより、まだまだだ子どもなんだろうな。
八幡は目を閉じた。