短編集2(近代財界擬人化)

 

君が誰か知ってる

  
 
「クソッ……」
 道路のレンガは照り返しで白く輝く。陽炎が見えんばかりの熱気が満ちている。
 1928年の晩夏の丸の内、日本鋼管は東京海上ビルの影から飛び出て、正午を過ぎ去った盛りの日差しの元へ歩き出す。
 丸の内の東京駅は眼の前にあるが、だだっ広い野原のようなロータリーが前に鎮座していて、ひどく遠く感じられた。
 日本鋼管の肌はよく焼けて、小麦色に染まっている。日本鋼管は経理より現場が大好きな性質の男だった。外に飛び出て機械の面倒を見るのが彼の趣味で、太陽や炉の熱波に照らされてきた彼にとっては、炎天下の下も平然たるものだった。
 彼を苛立たせているのは、もっと別の事柄なのだ。

 日を浴びた瞬間、焼けるような反射光が目に飛び込んできた。日本鋼管は、目を閉じて深呼吸する。
 とにかく……早くここから離れたい……。

 不意に、道路でクラクションが鳴り響いた。車が二台向かい合わせで睨み合っている──しかし、すぐに向かい車線の一台が走り去っていってしまった。窓を開け放していた、こちら側の車夫が苛立って悪態を飛ばす。だが彼も急いでいるのか、時を待たずに発進する。
 日本鋼管はまじまじとそれらの車を眺めていた。車は……というよりそれに内蔵されたエンジンは機械工学の最高傑作だ。日本鋼管はあくまで鉄鋼業者ではあるが、工学の学徒としては興味を抱かずにはいられない。東京の街には、彼の暮らす川崎よりもずっと多くの種類の車が駆け巡っている。日本鋼管は黙って車を、というよりもその内部に思いを馳せて音を聞いた。エンジンは見えずとも、その発進や加速のたびにうなりを上げる音が、その様子を伺わせてくれる──吸気系や燃焼室の振動には、ただの騒音ということではなく、振動によるパワーロスや部品の摩耗など車を設計する人間にとって最も考えなくてはいけない要素が詰まっていて……。
 そこで、日本鋼管は思わず頭を振った。苛立ちを忘れて車道を眺めていた、自分の姿にため息をつく。
 こうやって技術にのめり込んで、それ以外を考えることを止めるから、俺は……。
 気分を入れ替えてようと、顔を上げた日本鋼管だが、次の瞬間、思わず言葉に詰まった。
 向かいの道路に、よく見知った嫌な顔を見つけてしまったのだ。
 どうしてこういう時に!
 
 八幡製鉄所は、郵船ビルを出て首を捻った。腕時計を眺めて思案する。
 今日の帰りの予定の電車は、寝台付きの夜行列車である。
 どこで時間を潰そうか……。上野の恩賜公園にでも行こうか……しかし、一人でいったら、弟分の戸畑製鉄所に怒られるだろうな……。
 考え抜いた結果、とりあえず丸善の本店にでも行こうと決心する。
 顔を上げた八幡は、見知った顔を見つけて、驚きと共に喜んで駆けよった。

 嬉しそうに駆け寄ってきた八幡を、日本鋼管は苦虫を噛み潰したような顔で迎えた。
「日本鋼管君!こんなところで出会えるなんて、奇遇ですね」
 ハキハキとした快活な態度はいつも通りだ。日本鋼管にとっては、この年上の、絵に描いた優等生のような姿が苦手でたまらない。
「……どうも、お久しぶり」
 動転する気分を隠すために、なんとか引きつった笑顔で挨拶を返すと、対する八幡はにこやかに言葉を続けた。
「海上ビルから来たんですか?たしか……貴方のお父様のオフィスがあるとか」
「なんで知ってんだ……」
 日本鋼管はいつもの調子を取り戻そうと、ぶっきらぼうな言葉で応える。
 八幡は人の態度に口を挟むような性格ではないし、日本鋼管は敬語や礼儀作法にはどうにも反感を覚えてしまう年頃だ。結果、どちらが歳上なのかわからない会話が展開されていく。
「東洋汽船の浅野翁は、九州でもずいぶん活躍なさっているでしょう。ですから以前名刺をいただいた時に……」
「はぁあ、成る程ね」
「丸の内へはお父様と会いに?」
 八幡の言葉に日本鋼管が顔を曇らせる。逡巡して、苦笑いした。
「まぁそんなところだな……」
「あぁ、良かったですね、彼はいつも忙しい方ですから……お元気そうでしたか」
「元気だろ、いつでも……合併したのなんて嘘みたいだぜ」
 東洋汽船は数年前、経営難を理由に、同じ三大汽船中の王者、日本郵船と合併していた……。しかし、そのオフィスが未だ、郵船ビルではなく向かいの東京海上ビルの最上階に位置しているのは、一種の皮肉のようでもある。
 八幡は快活で常に忙しそうな彼の経営者を思い出して頷いた。
「それは何よりです……この後はすぐにお帰りになりますか」
 日本鋼管は驚いたように八幡の顔を見た。相変わらず、何を考えてるのかよく分からない淡白な目と、にこやかな口角でこちらを見ている。
「昼食はもうとられてしまいましたか?もし、そうでなければ、是非ご一緒させて下さい」
「……」
 よりにもよって!苦手なこの年上の誘いに、思わず下を向いて頭を掻いた。
 いや……毒をもって毒を制するという言葉もあるのだから、この不愉快な気分を鎮めるには、案外眼の前の八幡と喋ったほうが楽になるのかもしれない。
 ため息をついて、日本鋼管は顔を上げた。
「なんでかなぁ、俺……実はまだ昼食が食えてねぇんだよなぁ」
 彼は頷いて苦笑する。
「まぁ汽車の中で一人飯を食うよりは……アンタと一緒に食ったほうが有意義かな」
 その言葉に、八幡の顔が輝いた。

  

 東京海上ビルの地下街の食堂は、いつも階上のサラリーマンたちの往来で混雑しているが、すでに昼食の時間は過ぎ去り、人気の少ない空間は静かに感じる。それでもどこかから笑い声や楽しそうな声が聞こえてくるのは、暇を潰しに来た学生や婦人たちがまだまだ残っているからだろう。炎天下の地上と打って変わって、地下に位置するこの空間は冷えていて居心地がいい。
 腹が減ってすぐにでも飯を食べたいという日本鋼管の願いで、二人は東京海上ビルの地下街で昼食をとることにした。地下街にはいくつもの食堂が位置しており、外部の人間にも開放されている。八幡は意外そうに、それらの店々のショーケースを眺めた。
「地下にも食堂があったんですね、面白いな……」
「なんだ、アンタ来たことないのかよ」
「僕は……中央亭にしか伺ったことが無かったものですから」
 八幡がこのビルに来るのは、二、三階に位置する中央亭で開かれる宴会の時ばかりであったので、地下街に来るのは初めてだったのだ。
「あそこか、まぁ最近でも鋳物の懇親会が向こうで開かれてたしな……」
 日本鋼管は2つの店の前で悩みながら八幡の言葉に返答する。
 千疋屋と富士アイスクリーム……どちらのショーケースにもランチやデザートの色とりどりなサンプルが並んでいる。
「ここにする」
 日本鋼管はそういって富士アイスクリームの方へと入っていった。
 八幡にはなんとなくその理由が分かる……千疋屋よりも、富士のほうが肉々しいランチばかりだったからだ。千疋屋はサンドイッチやホットドッグなどパンものが売りのようだが、富士のショーケーズには牛肉のロースやチキンソテーがデカデカと鎮座している。弟分の戸畑も、きっと同じようにこのロース肉に飛びついていただろう。二人は食べ盛りだから、きっと肉の方がそそられるのかな……と、八幡は年長者として微笑ましく思ってしまう。

 八幡は日本鋼管を親近感の湧く存在だと思っていた。
 日本鋼管の創設者の今泉嘉一郎は、官営八幡製鉄所の幼少期、つまりはその建設と試運転期の時代から共に過ごしてきた、最古参の技官の一人だ。特に、彼は明治35年前後にあった、八幡の運転が見直された時代にも辞任せずに彼の元に留まり、技術部門のトップである技監の地位にまで昇進した人物であったから、人一倍印象的な人であった。
 今泉は負けず嫌いで声が大きいので、彼と技官仲間が合宿していた赤い欄干の旅亭で勝負事をするたびに、喧騒を起こしていたのを八幡はよく覚えている。子どもの八幡にもよく話しかけてくれたが、遠慮なくこちらを扱う人だったので、大人というよりも、気の良い兄貴分といったような人だった。
 そういった、自分が子供の頃から親しかった兄貴分が生んだ会社であったので、八幡にとって日本鋼管は甥っ子のような存在として見ていたのだ。

  
 
「ハンバーグステーキ」
「僕はソフトクリームとコーヒーを」
 日本鋼管は信じられないという顔で八幡を見た。しかし、八幡の視線、まだ注文はあるかとこちらを見ている様子に気がついて、首を降った。
「では、以上です」
 八幡はメニュー表を畳み、微笑んで給仕に手渡した。給仕もメニューとコーヒーの順序を確認すると、すぐに置くのキッチンへと帰っていく。

「ここに来て、デザートだけって、アンタもう昼飯食ったのかよ……」
 日本鋼管はテーブルに肘をついて頬杖をした。
 食堂の中はブースに区切られた区画もあるが、四人がけのところへ二人で座るのは気が引ける、という八幡の主張で、多人数が自由に腰掛けられるような中央の長机の端に向かい合って座っていた。
「えぇ、郵船ビルの方の中央亭で」
「……なんたって向こうで?」
 グラスの水をあおいで日本鋼管が不思議そうに聞く。郵船ビルには八幡の付き合いのある会社が入っていただろうか。三菱商事はあそこの中にはいないし……。
「川崎造船さんに誘われたんです。彼の営業の支社は郵船ビルにありますから」
 八幡は言葉を区切った。
「それに郵船のビルにはUSスチールやボルディ製鋼さん達……海外の鉄鋼業者の営業所が多いでしょう。だから今日は、川崎造船さんが彼らに声をかけて下さって僕と一緒に昼食を取ろうと」
 はぁ、と日本鋼管は生返事をした。
「そういうのって……何語で話すんだ?」
「はは、それは……挨拶の時に、僕はドイツ語のほうが得意だと言ったら、ドイツ語で会話することになってしまって。まぁ東欧出身の方が多かったものですから」
 八幡の建設はドイツ系のお雇い外国人が中心であった。それに当時世話になった和田維四郎長官や大島道太郎技監も皆、若い頃ドイツへ留学した関係で、ドイツ語が非常に堪能だったのだ。そういう背景があって、八幡は、外国語の中でいうとドイツ語が一番好きであった。
「貴方が来ていると知っていたら、あぁ、是非お誘いしたかった。川崎造船さんは気の良い方ですから、きっと喜んだでしょうね」
 日本鋼管は苦笑した。川崎造船は……おしゃべり好きかつ記者にもよく会う男なので、雑誌や何かでたまに見ることがある。温和で気ままな楽天家だ。きっちりとした八幡とは正反対のイメージがある。彼らがどんな風に会話するのかは日本鋼管も気になるところではあった。
「あぁ!俺も行きたかったよ、そしたらもっと早くに帰れた……」
 八幡は首をかしげて日本鋼管の顔を見る。
「そういえば、まだ昼食をとられていなかったのは……お父様とのお話で何かあったんですか」
 心配そうな声に、日本鋼管が首を振った。
「別に」
 あっけらかんとした答えだ。
 触れられたくないのだろうか、しかし、何かあったとしても、それは家庭の問題である。
 八幡が何と声をかえるべきか考えていると、ふいにテーブルに人影が落ちた。

  
 
「おっとォ!こんな所に⁉︎やんごとなき国営企業の方が来るなんて!光栄ですねぇ!」
 急に現れた、人影の主は、二人の座っていたテーブルに手をついて八幡の顔を眺めている。
 白い上下のジャケットとズボン、その内側の鮮烈な赤色のシャツのコントラストが非常に印象的な男だ。
 八幡の困惑もいざしらず、楽しげな様子で、彼は話しかけてくる。
「郵船ビルの方じゃなくて良かったんですか?あっちの方が宮内省御用達で格が──」
「いや、駄目だね。郵船は昨今の経営難で随分信用を失った……その点、僕とこのビルは、いつだって堅実で比するものはいないよ」
 後ろから現れた長駆の男が、赤いジャケットの男の肩を掴んだ。
「こんにちは」
 八幡と日本鋼管を交互に見て、長駆の男が微笑みかける。ネイビースーツに涼しい目元、いかにもビジネスマンという輝きを放っていた。
「日本鋼管だっけ?アンタのこと雑誌で見ましたよ!」
 また別の男が現れる。日本鋼管の肩を叩いて声をかけると、男はそのまま彼の横の椅子を引いて座った。
 日本鋼管は意味がわからないというように頭を抱える。八幡は驚いた。日本鋼管の横に座った男──浅黒の大柄で、どこか険しい顔つきの姿には見覚えがあった。
「東邦……あぁすまない、二人共、横の席が空いてるなら、僕らがご一緒しても構わないかな?」
 長駆の男が少し申し訳なさそうに、二人の顔をうかがい見た。八幡は苦笑して肩をすくめる。がらんとした長机に断る理由は見つからない。
「はぁ、えぇ、僕は良いですが……」
「おぉう!日本鋼管は?駄目?怒る?」
 白いジャケットの男がわざとらしい上目遣いで日本鋼管の顔を伺うと、彼は抱えていた手を放して振った。
「……勝手にしてくれ」
「ありがとう」
「マジか?じゃあ失礼しちゃうぜ!よろしく!」
 長駆の男はその返答にうなづくと、すぐに八幡の隣の椅子に座った。もう一方の男も先程東邦と呼ばれた男の横に陣取る。
「もう十分失礼してるだろ……しかしまぁ、本当にご一緒させてくれるとはね、寛大なお心遣いに感謝だ」
 低い声が八幡の後ろから響いてきた。
 振り返ると、体格のしっかりした色黒の男が、八幡たちへ挨拶代わりに手をあげて、そのまま長駆の男の横に座りこむ。
 どうやら、これでこの一行のメンバーは全員揃ったらしい。

「八幡の所の製鐵所と……日本鋼管だっけかぁ、いやぁ珍しいね」
「東京の会社じゃないってだけで新鮮に見えるぜ」
 興味深そうにこちらを眺める四人組に、八幡は困ったように声をかけた。
「皆さんは……えぇっと、こちらのビルの方……?」
「そう!俺の名前、木曽川電気製鉄、いやぁ同業者だな!八幡さん!」
 白いジャケットの男が、威勢のいい声と笑顔で指を鳴らす。横の男が肩をすくめた。長駆の男が色黒の男と目を合わせて苦笑いしている。
 八幡は思わずその言葉を訝しんだ。製鉄業界はどこも会社が離れていて、あまり横のつながりは無いものの、同業者の名前は論文や雑誌でいつも意識して探しているものだ。
日本鋼管も眉間にシワを寄せる。彼は富山に電気製鉄所を持っているから、電気製鉄の仲間のことはある程度把握しているものの、彼のことは知らない。いや確か……木曽川で電気と言ったら……。
 そこで、八幡は眼の前の男とよく似た顔の人物を思い出し、声をあげた。
「もしかして、大同製鋼さんの関係者……ですか?」
 木曽川電気製鉄、と名乗った男が驚いたように目を丸くした。周りの男達もおぉ、声をあげた。
 長駆の男が八幡の方を見て感嘆する。
「すごいよ。よく分かったね。やっぱり業界の人には分かるものだ」
「じゃあ彼は本当に、大同さんの……えぇっと」
「あーあ、こんなすぐに当てちゃってさぁ!」
 男は口を尖らせた。両手を開き、困ったように笑う。
「はいはい……俺の正体は大同電力!製鋼のやつは俺の弟!でもよく分かったな。製鋼のやつ、もしかしてアンタと仲良い?」
「ええ、大同製鋼さんは鉄鋼協会でよくお話しますよ。電気炉に関して、彼はこの国の先駆者です。彼のお話は本当に興味深くて、いつも勉強になっています」
 大同電気製鋼は、大同電力──旧名古屋電燈から吸収合併などによって成立した、大同電力会社の余剰電力を鉄鋼産業に応用するために設立された会社であった。また、甲府の土橋電気製鋼と並ぶ高級鋼材、特殊鋼研究の大家である。中でも電気炉を民間産業としても確立させた大同電気製鋼は、八幡にとって一種敬念を抱く存在であった。また、彼の工場長は八幡から迎えられた技師であったから、どこか親類のような親しみも持っていた。
 日本鋼管はグラスを傾けながら、いつもの如く秀麗に受け答えをする八幡を眺めた。
「大同は努力家だからな、勉強熱心な良い男だ……そこの兄貴の方も、仕事の時はマトモだぜ」
 色黒の男はタバコに火をつけながら日本鋼管へ目線を投げた。
「俺は山下汽船ってんだ。日本鋼管、お前の親父さんの商売敵だな」
 山下汽船は大阪を中心に活動する汽船会社であり、第一次世界大戦時、戦争によって借り出さりたり沈められてしまったりした西欧列強諸国の汽船会社に代わって大進出を果たした船成金の一人であった。もっとも、三大汽船会社に数えられる東洋汽船とは規模においては劣っているのだが。
 日本鋼管は山下に一瞥すると、素っ気なく首を捻った。
「そうかよ。俺には関係無い話だね」
「おぉっと、これは手痛い!冷たくされるのが一番身に堪えるぞ、坊主……」
 山下汽船はつれない態度の日本鋼管を見て、悲しそうに眉尻を下げ、吸っていたタバコの煙を吹き出す。
「山下さんはおしゃべり好きだから、構ってあげないとヘソを曲げるぞ」
 先ほど東邦と呼ばれた男が日本鋼管にニヤリと笑いかけた。
「さっき東京海上先輩が名前呼んじまいましたけど……自分は東邦電力です。八幡さんは俺のこと憶えて……ますよね?」
 日本鋼管に笑いかけた東邦電力は、最後に至って、どこか不安げに声のトーンを落として八幡を見た。大同電力がその様子にため息をつく。八幡は微笑んでうなづいた。
「勿論ですよ。貴方が九州電灯鉄道だった時、私の所へ営業に来ていたでしょう……それに、貴方がた北九州電力業界が遠賀川の方で水力発電をめぐって争っていた時、一消費者の私は非常に悩まされて、心配しましたから」
 東邦電力は、明治20年代後半の第二次企業ブーム時代に生まれた九州の電力会社らが合併して生まれた、九州電灯鉄道を母体としながら、中京の電力会社と手を組んで拡大しつつある気鋭の電力会社であった。
 八幡の言葉に東邦電力はあぁ、胸をなでおろした。
「そりゃ良かった!貴方の所に出入りする会社はあんまりにも多すぎて、俺みたいな営業マンは忘れられちまってるかと」
「東邦さぁ、お前はもっとデカく構えろよ……一応お前の方が歳上なんだろ!?」
 大同が呆れたように声をあげた。東邦がすぐさま耳を赤くして不服そうに睨む。
「すいませんけどね、アンタみたいな顔の面の厚い──」
「おい!また喧嘩か?人様の前ではよしてくれよ」
 思わず憤る東邦に、山下がタバコの火を消しながらたしなめた。
「山下、お前だって今の……マジで無いと思っただろ?年下に向かって心配性の相とか──」
「うるさいですねぇ!名実も無いのに他人に偉ぶるのがこの世で一番滑稽なんだ。アンタだって所詮地方会社の癖に東京まで出張って──」
「あぁ……うんうん、もう止めろ!友達の嫌いなところを探してつつくなんて、不毛だ!」
 山下汽船を挟んで口論しだす二人を他所に、長駆の男、東京海上が日本鋼管の方を見た。
 
「東邦が言って”くれた”けれど、私が東京海上。このビルのオーナーだ」
 八幡はそこで数年前のことを思い出した。昔、1926年に製鉄合同が破綻した時、三井鉱山へ輪西と釜石のことを聞いた時……そういえば彼の姿を見たのだ。同時期に起きていた信託論争で熱り立っていたから、今とは大分様子が違ったが……。
「君のお父上の東洋汽船とは昔から懇意にさせてもらっているし、それにこのビルの最上階に陣取っていてくれている。彼は仕事熱心で素晴らしい男だ」
「本当に意外だよ」
 日本鋼管がぶっきらぼうに口を開いた。
「あの人が帝国海上の商売敵のアンタのビルに入ってるなんてね」
 東京海上は日本鋼管の目を見て、しばし沈黙した。
 帝国海上は安田資本系列の海上保険会社だ。浅野資本系列は基本的に安田系列の金融会社と行動を共にすることが多い。工業や実業の方面を中心に発展してきた浅野系は、その金融方面は専ら安田系や渋沢系に依存してしまっている。であるから、海運業に不可欠の海上保険においても、東京海上より、帝国海上の方を優先するべきなのに……という皮肉だろう。
 しかし東京海上は顔色も変えず、すぐに微笑んで言葉を返した。
「……仕事をする上では、人間関係よりも実利をとるのが浅野さんだ。私のビルは東京駅の目の前にある。あちこちの地方を、自分の足で飛び回って仕事をしたがる浅野さんにとって、駅から近いオフィスより良い物件は無いのだろう」
 八幡も相槌を打った。東京海上の経営者、浅野総一郎は八幡も九州の地でその顔を見たことがある。東京にオフィスを構えながらよくここまで頻繁に足を伸ばしてくるものだと感嘆していたが、彼のように移動の多い経営者にとっては、駅に近い物件が一番であろうことは容易にうなづける。
 東京海上はさらに言葉を続けた。
「それに、東洋汽船は確かに安田資本系列だが、渋沢資本の系列でもある……私も一応渋沢さんの息子の一人、帝国海上の商売敵ではあるが、東洋汽船とは親戚だ。無関係な会社ではない。そして勿論、日本鋼管、君ともね」
 日本鋼管は眉根を寄せた。あまり良い顔には見えない。
「さらに言えば、去年から君の監査役になった西野君は私の所の支配人だった……彼のことはよく知っている」
 楽しそうに微笑みかける東京海上に、日本鋼管は八幡と同じような気まずさを感じて顔をそらした。
「……どうせ新規の株募集のために入ってきた株主のお目付け役だ。現場には来ない。俺にはよく知らない人間だね」
 露骨に態度を悪くさせる日本鋼管に、八幡の方が冷や汗をかいた。自分のような顔みしり相手になら構わないが、流石に父親の知り合いに向かってその物言いは……。八幡が東京海上の方へ向かって眉尻を下げた。
「あぁ、すみません、日本鋼管君は恥ずかしがり屋で……」
「はぁ?なんで勝手に謝ってんだ?アンタ俺の親か?」
 日本鋼管がすぐさま不機嫌そうに八幡を睨んだ。東京海上の顔から微笑みが消えて、沈黙しながら日本鋼管の方を見ている。
 なんだか空気が重くなってしまった……。八幡はなんと言って諭せば良いのか分からず、気まずそうに東京海上と日本鋼管の間で目線を泳がせた。
 
 そんな三人の空気を割って裂くように奥から声が飛んできた。
「おういいぞ!もっとスカしてやれ日本鋼管!そこの年上二人は生真面目でいじりがいのある奴らだ!」
 大同電力である。その横で山下汽船が笑いながら八幡を見た。
「気を使わないでくれよ。東京海上の旦那は俺等みたいな不躾なのと一緒に居るんだ。今更不躾なのが増えたってね……」
 不躾という言葉に、日本鋼管がムスッとした顔で山下を見た。山下はその視線に、肩をすくめておどける。

「大変お待たせ致しました。こちらご注文の……」
 八幡が振り返ると、給仕が銀の大皿を抱えてやって来ていた。二人の眼の前に料理の品を置こうとすると、奥の四人を見て困惑した顔になった。
「貴方たち!今日はウチに来たの!?」
 給仕は呆れたように首を振ると、八幡と日本鋼管の前に料理を置いていく。
「おばさん、いつもの!オレンジエード!」
 大同が手を上げて振った。東邦が山下の方へ視線を投げかける。山下が首を振ると、東邦も手を上げて注文した。
「ついでにコーヒーも二杯……」
「私は……あぁ、今日は紅茶とババロアを」
「んまぁ!」
 給仕の女性は勝手気ままに注文する四人を睨むと、嘆息して八幡と日本鋼管を見た。
「あぁ、お客さん、こんな不良に捕まって、はやくお逃げになった方がいいですよ」
 そのまま伝票を置いてまた店の奥へと去っていった。

「不良って……」
 さっきまでの不機嫌そうな顔がゆるんで、やや困惑したように日本鋼管が四人の方を見た。
「ひっでぇ言い草だぁ。許せねぇなぁ」
 大同がわざとらしい上目遣いで口を尖らせた。東邦が目を泳がせて苦笑する。
「だって……俺等飲み物一杯で3時間粘っていくような長尻客なんですから!」
「あぁ、律儀に毎回飯まで食うのは東京海上さんだけだからなぁ」
「いや俺も、腹に余裕がある時は食べてますよ!」
 山下の言葉に東邦が声をあげて反論した。
「花月の後だから仕方ないんだよー、あそこの牛鍋は高いし、腹にたまるし……」
 大同が頬を掻いた。

 急に空気が変わり、東京海上は仕方なさそうに笑って八幡を見た。
「はぁ、八幡、ここでの言動は……お互い気にしないことにしよう。なぜか私の周りには、年上や政治家肌嫌いで、そして言動に難のある会社が集まるから……へそ曲がりな子は慣れているよ」
「すいません……そうですね。ぶ、無礼講ということで……僕も大丈夫、です」
 八幡はぎこちない笑顔でなんとかうなづいた。
「フン!俺らみたいな不良が集まるのも、十中八九、お前の親父のせいだね」
 二人の会話を聞いていた大同が、東京海上を冷やかすように声を上げる。
「八幡、言っとくけど……一番の不良はソイツの親父だぜ!記者の前でデスクに脚あげる上に、政府の言うことも待てない悍馬だ」
 大同が舌を出して天井を指さした。東京海上がこめかみを押さえて、顔をひきつらせながら笑った。痛いところなのだろうか。
 東邦が大同のジェスチャーを見て口を挟む。
「上の階……ていうか、二階の中央亭には親父が……俺等の経営者達が居座ってるんですよ。でも、友達と話しているのを、親父に聞かれるのは気まずいでしょう?だから俺等は中央亭を避けて、いつも地下の食堂街に避難していまして……」
「あぁ、ここの連中の親父さんは全員うるさいし面倒だからなぁ」
「いや、三時間も話してるのが見つかったら、そりゃ怒られるだろ。働かないのかよ……」
 呆れたように言い放って、日本鋼管は運ばれてきたハンバーグステーキを口に含んだ。
「あぁ、ここのハンバーグステーキを選ぶなんて、良いチョイスしたな。上手いし安いし、申し分ない飯だ」
 山下がウンウンと頷いていると、日本鋼管は頬張る口元を抑えて横目で見た。
「東汽と同じこと言う……」
「おぉそうか?まぁ東洋汽船のおっさんも、たまに俺達と一緒に飯食うからなぁ。地下食堂にも詳しいのも当然だろう」
 日本鋼管が何となく来訪者達とうまく会話しているのを見て、八幡はようやく心を落着けて、ソフトクリームに手をつけた。
 
「はぁ、あの仕事中毒がアンタらと……」
 日本鋼管が信じられないという顔でハンバーグを飲み込んだ。
 今しがた給仕が黙って置いていったオレンジエードを一口飲んで、大同が日本鋼管を見た。
「俺等みたいな不良とつるむかよって?」
 大同が鼻で笑う。
「そりゃ俺等が不良なのは認めるが、三時間も喋るのは仕事の済んだ週末か土曜だけだぜ!仕事の時は大真面目だ!」
「仕事のある時、無い時、それのオンオフはきっちり分けて遊ぶのが俺等のモットーですから」
 東邦はニヤリとして言うと、身を乗り出して日本鋼管の方へ向かった。
「アンタの親父さんは俺とオフィスが近くて、経営者同士も仲が良いもんでしてね。俺としてはアンタに大いに興味があるんですよ」
 大柄な体格には凄みがある。だが今泉と白石という好戦的な経営者の元で生まれた日本鋼管だ。日本鋼管はカトラリーを置くと、憤然として東邦を睨み返した。
「浅野の爺さんは資源開発が大好きみたいだが、アンタを生むのにはあんまりいい顔してなかったんだろ?それなのに自分は浅野造船所やら小倉製鋼を抱えてんだから、不思議なもんだ」
 東邦の踏み込むような言葉に、日本鋼管の顔が険しくなる。
 浅野は白石から日本鋼管の設立をされた時に、鉄鋼業界は厳しいから……と止めたがっていた。
「知るかよ……あの独裁気質のおっさんのことだ。自分のやることは良くて、人のやることには欠点が見えてくんだろ」
 日本鋼管が噛みつくように答えると、山下がなだめるように口を挟んだ。
「あぁ、人の機敏なんて、第三者には分からないことだぜ。案外浅野さんも、お前さんの親父さんを引き止めたくて言ったのかも知れないだろう……」
 山下が日本鋼管の不機嫌を察知して場を鎮めようとしているのに対して、東邦はなおも好奇の目で彼を見続けていた。
「ま、浅野さんが独裁気質なのは否定しませんがね!でも日本鋼管って、大川さんが社長ですよね!? 浅野さん、大川さんのこと随分ライバル視してたと思うんですがねぇ、まさか自分の娘婿を預けるなんて」
「……社長の椅子に大川を呼んだのは白石だ。あのおっさんじゃねぇよ」
「浅野よりも大川の方が持株が多いし、それに……経営難で呼ぶのに浅野の方の爺さんじゃあなぁ。本人も来ないだろ?初物好きな人なんだから」
 苦笑する大同を日本鋼管は思い切り睨んだ。山下も苦い顔で大同を見る。大同は山下の目線に舌を突き出した。
「あぁ、株主の割合も随分特徴的ですよねぇ。浅野さん一割にも満たないでしょう?しかも安田さんもいませんでしたしね」
「鋼管は水道事業受け持ちの大倉の領分だし、鉄鋼業なんて銀行家連中は大嫌いだし……」
 東邦や大同の呑気な言葉に、日本鋼管が声を荒げた。
「なぁいい加減にしてくれよ!東洋汽船と知り合いだからなんだってんだ⁉ あのおっさんの交友関係なんて、俺にとっちゃどうでもいいのに!」
 その言葉には、料理が来る前の、不愉快を全面に押し出したような調子数倍の刺々しさがあった。八幡が顔を上げる。
 東京海上が向かい合う2人をなだめようと声をかけた。そして眉をひそめて東邦と大同を睨んだ。
「日本鋼管、東邦も大同も別に君を挑発したい訳では無い……君たちも!そうやって人へ無遠慮にかかるのは、年上と同世代相手までにするべきだ」
 八幡も、アイスを呑み込むと、日本鋼管をなだめようと声をかけた。
「落ちついて下さい、彼らは貴方の身の上に興味があるだけでしょう」
 日本鋼管は、八幡のその言葉が、一番癪に障った。
 呑気な年上が、年下の心中も知らないで発言しやがって──カッとなって立ち上がり、怒号をあげた。
「なんでこんな見ず知らずのやつらに、そんなの教えなくちゃいけない!?」
 
「……」
 机の大人たちが固まった。
 東邦は、流石に気まずそうな顔で八幡を睨む日本鋼管から、東京海上へと交互に目線を泳がせる。東京海上と山下は沈黙しながら、非難するように彼と大同に厳しい目線を向けた。大同は黙って両手をあげ、肩をすくめた。
 当人の八幡もまた、しばらく茫然としていた。が、すぐに立ち上がって日本鋼管に相対する。
「日本鋼管……先程からの貴方の怒りは一体何が原因なのですか」
 説教が来るかと身構えていた日本鋼管は、八幡の言葉に驚いた。
 八幡はおよそ真剣な顔で日本鋼管を見つめた。
「お父様と……株主の方々の話ですか?だとすれば……すみません。それは最初にお父様の話を切り出して貴方を誘った私に、一番の非がありますね」
「……」
 日本鋼管は険しい顔で黙っていたが、やがて苦しげに話し始めた。
「いいか?前々からアンタに言いたかったんだがな……東洋汽船は俺の親父じゃない、白石と伊藤のいた会社ってだけだ!俺には関係無い……」
 日本鋼管の言葉に東邦が驚いて、再び東京海上たちの方へ視線を泳がせた。大同がグラスを片手につぶやいた。
「まぁーあの持ち株じゃあ、株主間でも浅野財閥の発言力は強くなさそうだしなぁ」
 東邦が声をひそめて大同に話しかけた。
「……東洋汽船さん、明らかに日本鋼管のこと自分の息子みたいに言ってた気がするんですけど……」
「知るか!あの爺さん、人の感情を気にするタイプじゃねぇし、自分の子どもにどう思われてるか知らないんじゃねぇの」
 あっけらかんと答える大同に東邦が口を開けて絶句する。
 
「経営者二人が東洋汽船の出身だからって、俺をただの浅野財閥の企業だと思うなよ!」
 抑え込まれていた日本鋼管の怒りは、一度穴が空いて吹き出し始めると、抑えようが無かった。
 彼は八幡を指さして言い放った。
「白石は東洋汽船から独立して俺を産んだんだ!今泉がアンタの所の技監の椅子を蹴ってまでそうしたように!」
 八幡を睨みつける彼の瞳には、憤怒の炎が宿っている。
「それなのに、東洋汽船も、アンタも、平気な顔で話しかけてきやがって……それが一番苛つくんだよ!」
 八幡はそこで、眼の前の少年の、自分への敵意に驚いて目を丸くした。
「俺は!アンタらを見返すために──」
 爆発して火柱をあげていた日本鋼管の怒りは、そこで急激に冷めて猛風の中の煙のようになってしまった。
 
 東京海上が心配そうに八幡と日本鋼管を交互に見る。
「あぁ──クソッ!」
 日本鋼管は忌々しげにつぶやくと椅子に座って、黙って皿の上に残っていたハンバーグステーキを食べ始めた。
 八幡もいたたまれずに同じく椅子に座る。東京海上が八幡の肩に手を置いて心配そうな目線を送った。八幡は、なんとか彼の気遣いに感謝の会釈を返した。
 テーブルの奥で、大同が笑顔で日本鋼管に話しかけた。
「おぉーッいいねぇ!その意気だぜ!やっぱガキはこうじゃねぇとな!」
 流石に沈鬱した空気の中でのこの物言いに、間に挟まれた東邦が信じられないという顔で目を細める。
「日本鋼管……まぁ若いのにこんなヒドイ不況に突っ込むなんて、お前さんも大した苦労人だと思うがなぁ……苦労しているからこそ、付き合いは大切にしたほうが良い……」
 山下が穏やかな声で、黙って皿だけに専念している日本鋼管を諭した。東京海上もそれに続いて日本鋼管に優しく声をかける。
「そうだね。不況だからこそ、相手が誰でも、命綱はできるだけ多くあればあるほどいいものだよ」
 急いで口に残り物を詰め込み終えた日本鋼管は、財布から乱雑に五十銭札を引き抜いて八幡の前に置く。八幡と目があうと一瞬立ち止まったが、すぐにそのまま店を出ようと背を向けた。
「日本鋼管!大人共なんか気にすんなよ、俺は別に今のお前のままでも良いと思うぜ!」
 思わず振り返ると、心配そうな顔の大人たちの中で大同だけが楽しげにニヤリとして彼を見ていた。
「俺も財閥ってのが大嫌いなんだよ!特に三井の奴らがな!それでそこの東京海上は三菱が嫌い!ついでにお前は浅野が嫌いだって?いいね、同盟結成だ!」
 
 日本鋼管は、冷やかすような大同を睨んだだけで、何も言わずに出ていってしまった。