どこにもない出口
1925年、冬の川崎には氷雨が降って、事務所の屋根を強く打っている。
厚い雲が太陽を覆い隠し、朝から沈鬱な空気が辺り一体に立ち込めていた。窓を眺めていた老人の男は、手にしていた、北九州へ行った盟友からの電報を折りたたんで、机の中にしまう。
ふいに、ドカドカという靴の音が、廊下の向こうで響いてくる。
靴音の主が木製のドアを乱雑に開けると、彼はそのまま役員室に入ってきた。
「今泉!」
駆け込んだ少年が男の名を叫ぶ。彼は息も切れ切れで全身が濡れていた。
「日本鋼管……どうした?風邪引くぞ」
男は──今泉嘉一郎は、彼が日本鋼管と呼んだ目の前の少年に、ハンカチを差し出した。
「……」
日本鋼管は机に手をついて、息を整えながら、今泉の顔をじっと見つめた。今泉は首を振って、差し出したハンカチを机に置く。
横目で少年の顔を見つめる……また何か転炉か平炉の調子について議論をしに来たのだろうか。
「今泉……!」
日本鋼管が両腕で体を持ち上げる。
「白石のやつが……製鉄合同に……八幡に!この会社を売ろうとしてるって本気なのかよ……!」
肩で息をしながら、日本鋼管は声をわななかせた。険しい彼の表情は、どう見ても強い怒りの表れだ。
思わぬ話題が飛び出てきたことに驚いて、今泉は目を見開いた。
「何をそんなことを――」
「昨日伊藤が話してるの聞いたんだよ!白石のやつ、今八幡に行ってるんだろ⁉︎」
日本鋼管が机を叩いて、今泉の言葉を遮った。今泉は思わず手で額を打って、身を起こした。
幸次郎のやつ……だから東京か役員室以外であの話は出すなと言ったのに!
「なんで黙ってたんだ?」
今泉が口を開けて答えようとするが、怒りに燃える日本鋼管は、もはやそれを待たずに話し続けた。
「官営の八幡を払い下げて、それで俺たち他の製鉄所と合併させるって!白石のやつ、なんのために俺を作ったのか忘れたのかよ!」
今泉は険しい顔のまま、目を瞑って押し黙った。彼とは何度も喧嘩してきたからよく分かる。要するに、彼は自分に白石への怒りをぶつけに来ているのであって、話を聞きにきたのではないのだ。
伊藤がどこまで日本鋼管に話たのかはわからないが、まくし立てる彼の様子を見るに、おそらく白石が合併の話を持ち込みに行ったことを話してしまったのだろう。
それでも彼は苦々しい声で、なんとか目の前の少年を納得させようとする。
「白石の気持ちを考えてみろ……俺達の代わりに、一番株主の達の要望に疲弊しているのは彼だ。八幡や他の製鉄所と合併すれば、株主もようやく多少の安堵を得られる」
「……」
白石──白石元治郎は、日本鋼管の副社長にして、実質的な経営のトップであった。そして何より、今泉嘉一郎や伊藤幸次郎──彼に肝心の白石の八幡行きを話してしまった男──と共に、日本鋼管のと共に日本鋼管を生み出したその人だ。
「株主なんて、今更!気にする必要あるかよ!」
日本鋼管は落ち着くどころか益々憤った。
「不況でどこだってほとんど上手くいってないんだ。今までだって無配だったのに、あいつら俺の株値が低すぎて売れやしない……」
日本鋼管は1912年に設立されて、すぐに勃発した第一次世界大戦とそれによる欧米列強鉄鋼業の弱体化によって、好成績をあげて一気に成長したものの、大戦の反動不況に入ると成績は赤字へ沈没していた。大戦期に三百円を超えていた株価は最高でも二十四円の低価へ叩き落された。五割の配当は五分へ、そして無配へ……。一時は白石ら経営陣の努力によって持ち直したこともあったが、それは長く続かなかった。
そして、関東大震災が起きてから、状況はもっと酷くなったのだ。復興事業による鉄鋼輸入免税期間と、遅々として進まない復興、日本市場復活を目指す欧米鉄鋼業者のダンピング戦略によって、日本の製鉄業者がほとんどもれなく疲弊状態に陥っていたように、日本鋼管もまた酷い経営難に悩まされていた。
そうした業界の苦境から浮かび上がってきたのが、国営の製鉄所であり、同時に国内最大の鉄鋼業者の八幡製鉄所の民営化と、それに伴う鉄鋼会社の大合併である。数年前、政友会の経済通にして農商務相であった高橋是清が主張した政策は、当時こそ業界にはあまり相手にされなかったものだが、今になって吹き返してきたということである。
今泉は険しい顔で、日本鋼管へ重い口調で話しかける。
「日本鋼管、お前、一口に無配と言ったがな、それが何を意味してるのか分かっているのか?」
驚いて、日本鋼管は一瞬その顔を見つめたが、すぐに調子を戻して言葉を続けた。
「無配だろうが、その後良くなった会社は幾らでもある!鐘紡や日本製糖だって──」
「他人の成功が自分にも当てはまると考えるのは単なる一時の慰めに過ぎない」
今泉が低い声で日本鋼管の言葉をさえぎった。
「俺はお前に無配の意味が分かるかと聞いたんだ」
低い声には強い力が籠っていた。彼と幾度と衝突してきた日本鋼管には、それが、今泉が怒り始めている証拠だと気がついた。
「無配というのは、株主の期待を天秤にかける行為だ。彼らは俺達のために我慢を強いられる。だがそれでもお前の株を売らないのだとすれば、それは俺たちのために我慢してもいいと思うだけの期待をかけてくれるからだ」
日本鋼管は今泉の言葉にも納得できない。
「なんだよ……株主がなんだってんだ……」
今泉はその言葉にこめかみを抑えた。日本鋼管の怒りが移って、我慢ならなくなりそうな自分の激情を抑えようとする。
若く血気盛んで、そして未だ器量の育っていない日本鋼管は、株主という存在が自分の世界の外側にあると勘違いしていることを、今泉もよく分かっていた。だが、いつまでもそんな感覚でいてはいけないのだ。
日本鋼管は今泉の苦悩を他所に、忌々しげに言い放った。
「株主の奴らはどうせ利益の話ばかりしかしない!でも俺達が追い求めてるのは利益じゃなくてこの国の技術の発展だ!なのに……」
今泉は机を叩いて立ち上がった。日本鋼管が驚いてこちらを見上げる。
彼は拳を震わせて言い放った。
「技術だけを追いかけて、金の稼げないような技術者なんぞ、ただの学者だ!」
その言葉の裏には、俺はただの学者では無いんだという、今泉の自負が篭っていた。
「俺はお前を!研究教育機関にするつもりで作ったんじゃ無い!」
「……」
日本鋼管は黙って今泉を睨んだ。今泉も、同じく黙って日本鋼管の目を力強く見つめ返した。
「……ううっ!」
根を上げたのは日本鋼管の方だった。彼は呻き声をあげると、緩んだ目元から涙が滲んで、思わず数歩後ずさりした。
「……」
何か言おうとして口を開いた日本鋼管だったが、ついに言葉が見つからなったのか、歯を噛み締めて、脱兎のごとく部屋の外へと駆け出した。
雨の降る路地には人気が無かった。日本鋼管が走る音も、バリバリと音を立てて打ち付ける雨音がかき消す。氷雨だろうが日本鋼管にはどうでもよかった。抑えがたい苦悶が烈火のように唸って身体を巡っていたからだ。
今泉が……学者じゃないんだと言った理由は日本鋼管もよく分かっている。
彼は昔、八幡製鉄所の製鋼部門の部長だった。製鋼部門は、問題山積であった八幡の諸部門の中で唯一創業当時から好成績を上げていた花形であり、今泉が八幡に居続けたなら、彼がいつか八幡の長官になっていたとしても、おかしくは無かっただろう。そうでなくとも、勇猛果敢で快活、弁の腕も立つ今泉であれば、官僚や政治家としてもっと出世することだってできたはずだ。
それでも今泉は八幡を辞めたのだ。そして、官僚であることも捨てて、日本鋼管を作った。彼はやはり、技術者であるだけでは満足出来なかったのである。
当時日本で数少なかった鋼材であれば、きっと民間でもよく売れるだろうと踏んでいた今泉であったが、八幡製鉄所の経営陣は、鋼材の販売先を国の省庁に限って譲らなかった。そして偶然にも、それは今泉が大倉組の大陸での計画、本渓湖製鉄所の建設に協力し奔走していた関係で、ちょうど実業界への道へ興味を持っていた頃であった。保守的な態度に憤然とした今泉は、であれば自分が鋼材を作る会社を起こしてみせるとばかりに飛び出してきたのだ。
そして、その今泉に応えて金を出したのが、白石元治郎だ。白石は浅野財閥の創始者、浅野総一郎の娘婿で、浅野財閥の花形の1つ、東洋汽船の創設者の1人であった。
しかし、当時──日本鋼管ができる前の白石の東洋汽船での立場は、難しかった。東洋汽船の経営を浅野から任されていた白石であったが、日露戦争後の大客船路線が招いた経営難は巨額の借金を生み出し、彼の立場を苦しいものにさせたのだ。実権を持った支配人から平取締役に移され、インド航路の開拓調査へ向かわされることになった彼の姿は、ともすれば経営の実権から遠ざけられた左遷のように映った。
その彼の前に飛び込んで来たのが、大学時代、共にボート部に所属していた友人の今泉と、大倉組から今泉の計画を聞かされて合流してきた、東洋汽船時代の元同僚、伊藤幸次郎である。
今泉は白石に、鋼材の一種、鋼管であれば、今のところ八幡にも設備が無いし商売敵もほとんどいない一方、水道や石油等燃料パイプの需要が平時でも安定的に見込めるので、きっと成功できるだろうと熱弁を奮った。伊藤も、自分は技術者で無いものの、話し上手で仕事熱心であることには二人に劣らない男だ。白石が経営者として奔走し、今泉が技術者として奮闘するなら、自分がその他の雑事や株主向けの説明をこなしてみせるだろうと熱意を語った。彼は東洋汽船を辞めてからしばらく仕事も無く遊んでいたが、この際高校時代の旧友である今泉を助けるために一肌脱ぐと決心したらしい。
白石は彼らの熱意を見て、そして自分の立場を鑑みて、今泉と手を組むことを選んだ。
浅野はなんでも自分でやれるほどの気力が有り余って仕方がない。であるから他人に仕事を任せて放任するということができない、どうしても口を出したくなってしまう。しかしそうなると……白石は、自分が浅野財閥の中で働き続けても、いつか浅野と致命的な対立をしないか──大客船路線のような、不況期に雌伏の時を有する必要のある戦略を巡って、よくない関係になりはしないかと考えたのだ。
果断で突き進む白石は、もはや他人の手綱から離れて、自由な立場で経営して成功したかったのだろう。今泉が、保守的な八幡から抜け出して来たように。
白石はインド航路の調査を終えると、浅野に、もはや彼の元から独立して今泉と鉄鋼業をやることを申し出た。浅野は鉄鋼業市場のことを心配しつつもそれを受け入れ、独立するのであれば全て自分で資本を集めるべきだと最後の助言を与えた。そうして、白石は一人四方を奔走して株主を集め、借金を抱えながら自身も株主になることになったのだ。
日本鋼管は、自分を作る原動力になった、彼らの強い願いを知らない訳がなかった。彼らは自由になるために、独力で自分の成功を掴むために、日本鋼管を作り出したのだ。
知っているからこそ、心苦しかった。第一次世界大戦が終わってから、自分はずっと不振続きで、全く彼らの願いを叶えてやることができていないのだから。所詮、船成金達と同じように、第一次世界大戦の好景気で当てただけで、その程度の経営力だったのだと侮られることが、日本鋼管には心底耐えられ無かった。
だが、どうしたら彼らの願いを叶えてやれるかも、日本鋼管には分からない。この苦悶も、全ては自分の無力感から来ているのだ。
走っていた日本鋼管は、気がつくと海辺のそばの堤防までやって来ていた。走りを止めて、日本鋼管は堤防の傍の欄干に手をついた。
「俺は……俺は……」
声が震える。怒りか、不安か、あるいは悲しみなのか、よく分からなかった。
「俺は、どうすればいいんだよォーッ!!」
曇天の荒れた海に絶叫しても、うねりを上げる波風は小さな彼の嘆きをいとも簡単にかき消して、黒い海底へと引きずり込んで行った。