「和田のために遠賀川で翡翠を狩りに行く八幡が見た〜い😭」
そういう小説で、ございます。
明治34年初夏の官営八幡製鉄所。
濃紫や白の綺らびやかな輝きが、小さな洞の中に収まっていた。
灰色の岸壁にひしめく宝石の姿はまるで龍鱗だ。
それは窓から差す初夏の白い朝日を乱反射させ、辺りに虹色のプリズムを振りまく。
「おぉ、松かさの裏返ったやつみてぇだ!」
「随分独特な例えを……」
「こんなに立派だとわざわざ綺麗だとかいうのもまた野暮ですね」
明治34年初夏、赤レンガが目を引く官営八幡製鉄所の本事務所、その長官室に鎮座する茶褐色の滑らかなデスクに上には、両手で包めるほどの大きさをした特徴的な姿の石が置かれていた。
外側は灰色の、一見なんの変哲もないような見た目であるが、その内側には深い濃紫色の小さな石が無数に突き出ている。濃紫色は根本にかけて段々と白く輝く。
薄い灰色の外殻、肉厚な白い層、芳醇に輝く濃紫という一連のコントラスト──幼い八幡には、まるで石でできた果実のようだとすら思えた。
周りに集まった大人たちも、舌を巻いてその石を代わる代わるに眺めていた。
ウンウンと唸って感嘆していたのは、八幡の師匠、釜石鉱山田中製鉄所だ。
「氷菓みたいって言ったほうが良かったか?」
釜石製鉄所が首を捻って大島道太郎技術長を見た。道太郎は、釜石での製鉄業の先駆となった大橋高炉を建設した洋学者、大島高任の長男にして工学博士である。
大島は苦笑した。
「はは、氷菓に柴漬けと言ったところか?」
「いやぁそれなら羊羹の叩きの方が美味そうでしょう」
「俺もそっちのほうが良いなァ。柴漬けなら白飯の方が良いですよ」
服部漸、製銑課長が同輩にして製鋼部長たる今泉嘉一郎の言葉に相槌をうった。上司の冗談にも遠慮なく反論するのは、欧州帰りの帝大生らしい不遜ぶりだ。
「果物みたいですね、なんだか──」
大人たちの下で、机にへばりつくようにじっとその石を眺めていた八幡がつぶやいた。
すかさず釜石が笑って反応する。
「そうだな!この白い部分とか、冬瓜みたいなかんじで──」
「剥いてみたいか?」
よく響く声と共に、背後の扉からよく響く足音が聞こえてくる。
皆が振り返ると、八幡の長官、和田維四郎が颯爽と表れた。
「私が来る前にもう見てしまったとはな」
デスクについた和田が楽しげに一同を見上げると、その物言いに今泉が口を尖らせる。
「こんなあからさまに机の上に置いておいて、見るなというのは酷でしょう!」
「ははは、その通りだ」
笑って机の上の石を持ち上げる。八幡はそれを目で追う。
「なんの石ですか?それ」
八幡のあどけない質問に和田はにこやかに答えた。
「アメジストだ。紫水晶!」
「水晶……」
思わず息を飲んで、再び和田の手中の石を見る。自分が考える水晶と言えば、よく磨かれて透明に輝く姿や、白く濁った柱状の欠片ばかりであったから、その奇妙な原石の姿は意外の感があった。
「一体どこからこんなの持ってきたんです?到底道や海岸で拾えるようなものじゃないでしょう」
副官役の大島が不思議そうに和田の顔を見る。和田は子どもの頃からの癖で常に石を拾って集めるのを趣味にしていた。だが、流石に水晶の外殻のついた原石など拾えるものではないだろう。
「一昨年上海へ出張した帰りに、向こうで駐在してる友人に面白い石を見つけたら送ってくれと頼んでいてな」
なるほど、と大島は合点する。
「そしたら、今年になってようやくこの石を寄越してくれたわけだ」
和田は明治32年の初夏、中国上海に赴き、八幡のために大治鉄鉱の鉄鉱石を購入する契約を結んできたのであった。
「こういう宝石は拾いにいくのも難しいし自分で買うと高い。貰えるのが一番助かる」
うんうんと楽しげに語る彼を八幡は意外そうに眺める。厳格でどこか気難しいところのある和田が朝から上機嫌なのは、めったに見ない姿だったのだ。
「まぁ、人から貰うと、どこで拾ったかわかりにくいのは口惜しいがね」
そういたずらっぽく肩をすくめる和田の姿は、どこか稚気にあふれていた。
「日本でも宝石って採れるんですか?」
辺りには虫の声が聞こえる。空はまだ青いが、影はすっかり長くなり、竹林には寂しげな風が吹いていた。
「なんだ、今朝の和田の水晶見て、八幡も欲しくなったのか?」
釜石が八幡の頭を撫でると、八幡は少し恥ずかしげに身をよじった。
「いや、そうじゃありませんけど……純粋に……」
目を泳がせてもごもごと喋る八幡に、釜石は微笑ましく思って肩を軽く叩いた。
時刻は既に夕方である。しかし初夏の長い日照時間からすれば、空はいまだ昼間の終わりくらいの心持ちだ。
八幡と釜石は、すっかりこの日の授業や作業を終わらせて、寝泊まりしている筑豊炭田の邸宅へと向かっている最中であった。
「そうだなぁ、日本の宝石って言ったら、水晶の他にも瑪瑙やら翡翠やらがあるよな」
片手であごをなでて考える釜石に、八幡もあぁ、と声をあげる。
「確かに、翡翠も宝石ですね……」
翡翠と言えば古来から東アジアで絶大な人気を誇る宝石だ。日本でも古来から勾玉の原料などに用いられてきた。
「瑪瑙は難しいが翡翠は川で拾えることもあるらしい……和田のやつも拾ったことあるのかもな?」
川でも拾える……それを聞いて、八幡の好奇心がそそられる。
「まぁでも、ここらへんの川で拾うんだったら、カンラン石とか水晶の欠片とかじゃねぇか?カンラン石なら俺も昔よく採ってたし……」
釜石の声も、弾みだした八幡の心にはよく聞こえていない。八幡は気持ち足早に歩き出した。
自分も宝石とやらを拾ってみたい……。
それに、採ってきて、和田に渡したらどういう顔をするのだろうか?
青々とした竹林に、爽やかな風が吹き抜けた。
「という訳で、遠賀川に行きたいんですよ、二瀬!」
土間の縁で草履を履いていたところを呼びかけられた二瀬──官営二瀬炭鉱は、驚いたように、声の主である八幡の方を振り返った。
官営二瀬炭鉱は、明治32年の11月、和田が筑豊炭田から買収してきた炭鉱群を管理するために作られた、官営石炭会社であった。しかし、漢人の八幡のコークス炉の建設や運用がうまく行っておらず、石炭を全く消費できていないので、生まれてきたばかりの二瀬は仕事もなく毎日手持ち無沙汰そうに遠賀川で遊んでいることが多かった。
八幡はまだまだ、遠賀川の山の手の方の地理には疎い。だから毎日通っていて道に慣れている二瀬についていこうと考えたのだ。
「今日は僕もついて行っていいですか?」
二瀬は黙って八幡の顔を見つめる。射干玉の瞳を持つどこか無機質なその顔尽きは、八幡と瓜二つの弟であった。
しばらくして、黙ってうなづいた二瀬は、立ち上がって脇に置いてあった魚籠と長い柄のついた網をとると、一人で玄関を出ていった。
ついて行ってもいい、ということだったのだろうか。
一瞬茫然としていた八幡だが、二瀬の姿が見えなくなる前に追わなくてはと、急いで草履を履き始めた。
初夏とはいえ、快晴の日の夕暮れはいまだ涼しく、快適な気温である。川の近くならばなおさらだ。
石の合間をぬうように、白波を立てて駆け抜ける川のせせらぎが絶え間なく響きわたり、辺りの青々しい木々からは様々な鳥の声が四方から聞こえてくる。
見渡す荒野に鉄を打つ音が幾度と響き渡る八幡の建設現場とは、全く違う風景が広がっていた。
近世の筑豊の地では、藩の政策によって木材や薪の輸出のため多くの木々が切り出され、あたりの山々はすっかり禿げ山にされてしまったものだった。だが、そのおかげで薪木を失くした農民たちが筑豊炭田の炭を求めるようになり、現在の巨大な石炭産業の先駆けとなったのだ。塞翁が馬というべきか、人間の歴史は予測しがたい。石炭や電気が使える様になった今では、あたりの木々が切り出されることも少なくなり、山にもかつての森林が戻りつつあった。
その穏やかな森林の中で、八幡はうぅんと力なく肩を落とした。
案内人の二瀬は、もう少し上流の方の、大きな石がいくつか関のように連なっている場所で網を構え、じっと魚の影を探していた。
下の方の、穏やかな流れに澄んだ川底が見える川の中腹に立っているのが八幡である。
八幡は清流を手で汲み取って顔を洗った。顔を振って気を取り直し、もう一度川底を見つめる。しかし、目をこらして見ても、辺りに広がるのは石英や長石の集まったような白い石か、黒や茶色、黒雲母や角栓岩の集まったような無骨な石ばかりである。この景色、もう一時間近くは経っただろうか。思わず首を降る。
気がつくと、二瀬がこちらの方を見つめていた。
八幡は嘆息して、ゆっくりと二瀬の方に歩み寄る。
「あはは……魚、とれましたか?」
力なく笑う八幡の言葉に、二瀬は水に沈めていた魚籠を持ち上げた。川岸に上がり、慎重に粗い岩肌を下ってくる。八幡も川岸へと登った。
二瀬はいつもの調子で、黙ったまま八幡の方へ魚籠を突き出す。八幡が覗き込むと、中には立派なヤマメが何匹か重なっていた。
よくも手網であのすばしこい魚影を捉えられるものだ。八幡が感嘆していると、二瀬が珍しく口を開く。
「貴方の目当ての石は」
「あぁ……」
八幡は一瞬固まったが、首を振ってベストのポケットからこぶりな石を取り出した。
「はぁ、全然、それらしいのは見つかりませんでした」
そう言いながら手に取ったその石を二瀬に手渡す。二瀬は丁寧にそれを眺めた。
一見、それは白い石の塊のようであったが、よく見ると、淡い緑色が所々に色づいている。
片手に納まる白く丸い姿は、まるで饅頭のようだ。黄緑色の餡が、白く透明な求肥で包まれているかのようにも見える……。
「綺麗な石もそれくらい、でもきっとそれも翡翠じゃなくて石英の仲間でしょうね……」
二瀬が見入っている横で、八幡は残念そうにつぶやく。二瀬は訝しむようにその顔を見た。
「何が問題なんです。こんなに綺麗なのに?」
「だって……石英では、翡翠どころか宝石ですらないでしょう……」
ムッとして二瀬が眉をひそめる。
「宝石か、宝石じゃないかなんて、誰が決めるんですか?八幡、貴方は宝石の定義がなんなのかご存知なのですか?」
八幡は驚いて言葉をつまらせる。口数の少ない二瀬がこんなにも自分に迫ってくるのは初めてだった。
宝石の定義……八幡は、なんとなく自分の浅はかさを突きつけられたような気がして、何も言えなくなってしまった。
「……」
気まずそうに目線を泳がせる年長者に、二瀬は黙って石を返した。八幡がまごつきながらそれを受け取る。
「少なくとも、私にとっては十分”宝石”です」
二瀬ははっきりそう言い切ると、黙って川岸を下りだした。筑豊の家に帰るのだろう。
八幡も急いでその後を追う。
まっすぐ道の先を見てずんずんと先に進んでいく二瀬は、相変わらず黙っている。
「……」
こんなに綺麗なのに。
夕日はすっかり海の向こうの水平線へと溶け出し、森林の周りでは今日も虫や蛙たちの旺盛な声が大反響だ。
しかし、八幡の頭の中では先程の二瀬の言葉がずっと残っていた。
バツの悪い思いが八幡の胸の中に広がる。自分の手の中に収まっている石にも、申し訳無い思いが募ってくる……。
二人が帰路についた頃には、夕日も沈みきり、白い星々の煌めく黒い夜空が天井を覆っていた。
「おぉ、二人共おかえり!遅かったなぁ。風呂入るか?」
玄関の門をくぐると、すでに湯を浴びたらしい釜石が、滴る髪を拭き上げながら土間に立っていた。
「すいません、こんなに遅くなって……」
どこかしおらしく頭を下げる八幡に、釜石は驚いて手を振った。
「なんだよ?無事に帰ってくれば、なんの問題もないって!」
「はい……」
頭を上げるも、その視線はなお下を向いている。
釜石は首を捻った。夕方筑豊の家に帰ってきたばかりの時の八幡は、随分上機嫌で飛び出ていったのに。
川で二瀬と喧嘩したのだろうか。
釜石が二瀬の方を振り返ろうとすると、すでに彼の姿は無かった。土間の縁には彼の草履と魚籠だけが取り残されている。
「ん!?あれッおい!二瀬ーッ!?」
焦った釜石が、土間から居間にかけての廊下の方をのぞきこむと、ドタドタという足音が居間の奥から聞こえてきた。
あぁ、なんか取りに行って、戻ってきたのか……などと、釜石は勝手に焦った心を安堵させる。
しかし、次の瞬間、釜石は仰天した。
「どォしたァ八幡!なんかあったのかァッ!」
虎のような大喝が廊下に響いた。足音の主は筑豊炭田だったのだ。
「お、遠賀川で、翡翠探し……」
口を開けて呆れたような声を上げ、釜石は思わず天井を仰いだ。
心配そうにしていた筑豊も、八幡の話を聞くと、なんと声をかければいいか、腕を組んで気まずそうに土間の縁に座っている。
「……」
八幡はもう気恥ずかしさで胸いっぱい、穴に隠れたいくらいの気持ちになりながら、土間で棒立ちになっていた。
一人、筑豊炭田を呼んだ張本人の二瀬は、いつもの淡白な表情をして、筑豊の隣で静かに三人を眺めていた。
一体、二瀬は筑豊に何と言って呼んできたのか。筑豊はやってくるなり、至極心配そうな様子で八幡に迫った。元よりこの養父の自分に対する熱の入り用は伊達ではないが、肩まで揺らしはじめそうなその気迫に押されて、思わず八幡も口をすべらせてしまった。つまりは、夕方から考えていた宝石、もとい翡翠探しの下りを。
釜石は嘆息する。八幡がわざわざ翡翠を探しに……などと言ったのは、どう考えても自分との会話が原因だろうと釜石は自覚していた。
頭を掻いて、腰に手をあてる。ゆっくりと言い聞かせるように話始めた。
「いいか、その……八幡、翡翠っていうのはなぁ、そもそも、筑豊の山じゃ取れねぇよ……」
「えぇッ……」
八幡が息を飲んだ。
夕方の会話の時に、自分がもうちょっと説明してやるべきだったと、釜石は自分の至らなさに首をひねる。
「九州でも長崎のほうじゃ採れるらしいが……基本的に、宝石って目に見えるくらい綺麗なのは、新潟くらいでしか取れねぇよ……」
弟子は未だ呆気に取られて身動きがてれていない。釜石は言葉を続けた。
「それに、俺は確かに川で拾えると入ったが、川は川でも、翡翠を取るなら河口くらい下流のほうまで行かなくちゃ駄目だ。河口の石くらい角が削れてないと、翡翠は分かりにくいんだよ」
二瀬がいつも魚を取りに行くのは、決まって川の中流ほどの、水深の浅い渓流だと釜石もよく聞いていたのだ。
そこまで聞くと、黙っていた筑豊も顎髭を撫でながら八幡に声をかけた。
「八幡ァ……、石炭だって採れるヤマとそうじゃないヤマがある。翡翠も同じだ。どこでだって採れる石なら宝石になんぞ、なっとらんだろうに……」
低い声が土間に響く。
「うっうっ……」
八幡は肩を落とした。あなや、自分の浅はかさに対する失望がずんずん大きくなっていく。もはや涙目になりそうなくらいだった。
二瀬は嘆息して首を振った。
「でも八幡。何も、翡翠だけが宝石じゃないでしょう」
二瀬の言葉に大人二人が驚いて振り返る。二瀬は筑豊の方を見た。
「ね、筑豊。例え翡翠がなくたって、遠賀川には、それに負けないくらい、もっと綺麗なものがありませんか?」
筑豊が目を見開く。しかし、すぐに腕を組み直して思案し始めた。
釜石は滅多に喋らない二瀬の言葉に、意外そうに声をあげた。
「どうしたんだ、二瀬!今日のお前は随分……」
二瀬は黙って釜石の顔を見つめる。
「喋っていますか?」
「え、あ、おう。そうだ、な」
冷静に答える二瀬に、釜石はますます面食らう。
「私が喋らないのは、喋る用事がないから、喋らないだけです。今の私には仕事がなくて暇だから……」
その言葉に、八幡は少し申し訳なく思う。二瀬がいくら石炭を用意しても、自分が消費できていないので、二瀬を手持ち無沙汰にさせているのだ。
「でもだからこそ、私の言葉が八幡の助けになるのなら、話しますよ」
その言葉に、八幡は二瀬の顔を見る。
「他人を助けることを仕事というのなら、他人の悩みに手立てを与えるのも、仕事でしょう」
その顔はいつもと変わらず、無機質な表情をしていたが、今日はなんだか、それが随分頼もしく思えた。
「フン、そうだな……」
筑豊が感慨深そうに隣の二瀬の頭を撫でる。身を屈めて縁の草履を引っ張り出すと、早速足にその紐を結び始めた。
「ついてこい八幡!俺が遠賀川の宝石を見せてやる!」
辺りは真っ暗、木の陰の合間から月光が落ちる。
フクロウの低くくぐもった声が頭上の木々から響いた。先程から聞こえている、川のせせらぎも段々と大きくなってきている。
筑豊の持つカンテラの火が静かに揺れて四人の足元を照らしていた。足元の木の葉や木々の根を踏み分けて、静かな山道を歩き続ける。
「俺も草履に変えて来ればよかった」
釜石がため息がちにつぶやく。彼の下駄は枝を踏み、小気味良い音を立てる。
「宝石を探しに行くのに、ヤマの中に入らない訳が無いだろう。先生はそういう所で見通しが甘い……」
たしなめるように筑豊が答えると、釜石は肩をすくめた。
1800年代、大橋高炉として生まれた釜石と比べて、1600年代には遠賀川流域で活動していた筑豊は二世代以上も年上だ。人をかき回すのを好む三池炭田よりも、落ち着いていてどうにもやりにくい。……激昂しだすと、それはそれで三池よりもよほど面倒な男になるのだが。
「こんな本気で探しに行くとは思わなかったんだよ!帰ったらもういっぺん水浴びようかな……」
思い立ったら吉日とばかり、行動し始めるのが釜石だ。自覚してはいるが、生まれの気性は中々変えられるものではない。
参っていそうな釜石をよそに、二瀬はしきりに辺りを見回している。普段は行かない方面の川なのだろうか。
八幡にとっても初めてくる山道で、一体筑豊はどこまで行くつもりなのか、心配そうに先を歩くその姿を見た。
「筑豊……高雄や潤野に何も声をかけていませんが、大丈夫ですか?」
官営二瀬炭鉱の構成要素である高雄炭鉱と潤野炭鉱は筑豊炭田に位置している。いわば筑豊炭田の子どもたちの一人で、筑豊炭田の石炭でもってこの地に生まれた八幡製鉄所にとっては叔父や叔母のような存在であった。筑豊の邸宅に住み込んでいて、随分世話を焼いてくれる。帰りが遅くなったら、心配されるだろうし、夕餉の準備にも困るだろう。
筑豊は振り返って笑った。
「安心しろ!もうすぐにつく……それに、すぐに見つかる。時間もかからりゃあせん」
気がつくと、鬱蒼としたあたりの木々がまばらになり、川のせせらぎは滝壺に水の落ちる音へと変わっていた。
前方にはいくつか巨大な岩が見える。気持ちの良い風が清涼な香りを運んできた。
どうやら自分たちは川の瀬の近くまで来ていたようだ。
土禿げの小道を抜けて、砂利の川辺に降り立った筑豊が、岩肌の向こうの川を覗き込む。
八幡もそれに習ってその隣から川の方を覗き込む。
その光景に、八幡は目を見開いた。
浮遊する光が、辺り一帯を飛び交っていた。
蛍だ──八幡は、息を呑んで思わず声を忘れる。
右手の上流に小さな滝壺を持ったその川の周辺は、粗い岩肌に囲まれているが、ところどころの浅瀬には丈の低い草が青々として繁茂している。
無数の蛍はその川の周囲を飛び交い、川面の近くから八幡たちの頭上の木々の方まで、空中を自在に駆け回っていた。
「ははぁ──これは……」
釜石が目を輝かせて、辺りを眺めている。
「久しぶりに見たぜ、こんな大群!すげぇな……」
無表情な二瀬の顔も、圧巻の面持ちであるようだった。黙って宙を見上げているばかりだ。
満足げな筑豊が、隣で蛍に引き込まれていた八幡の頭を撫でた。八幡は筑豊の方を見上げる。
「どうだぁ大層なもんだろう……翡翠にだって、到底負けまい」
「でも、これは翡翠と違って、”石”じゃねぇなぁ」
釜石が茶々を入れると、筑豊は気にする様子もなく、鼻で笑った。
「別にいいだろう。蛍の甲羅は硬いし、石のようなものだ」
「まーた、むちゃくちゃなこと言うおっさんだよ……」
苦笑して首を降る。しかし、釜石としてもこの風景が翡翠にも値いすることには異論がないらしい。再び蛍の方に視線を戻し、蛍の舞う姿に目を細めた。
八幡が不思議そうに筑豊に聞く。
「筑豊、いつこんな……素晴らしいところを見つけたんですか?」
荒々しい性格で、常に政治的、経済的な野心に溢れているのが、八幡のもつ筑豊へのイメージであった。こんな風流な景色を好むような側面は、全くもって意外だったのだ。
筑豊は八幡の顔を見て、微笑んで答える。
「なに、子どもの時にな……」
蛍の方へと視線を戻し、穏やかに言葉を続けた。
「子どもの頃は誰でも暇だ……だから余計なものをいくらでも見つける」
余計なもの……蛍を眺める筑豊の顔はひどく懐かしいものを見るような目をしている。八幡はそこにどこか寂寞を感じるような気がした。あるいはこれが郷愁なのかもしれない。
そうか、この眼の前の筑豊にも、子どもだった時代があるのか……八幡は再び蛍の方を眺めた。
無数に飛び交う光は、宝石の煌めきとはまた違う輝きを持っている。
この景色は、子どもの頃の彼にとっての宝石だったのだろうか?