短編集(近代財界擬人化)

 まずい……。
 もぐもぐと口を動かしながら、東京海上は冷や汗をかいていた。目の前の、十数分前までサンドイッチで満ちていたはずのバスケットに残っているのは、もう3切れしかない……。
 一方で、目の前の平生もまた、どうしたものか……と首を捻った。
 
 いつもよりも、二回り大きなバスケットは、昨日、東京海上が下宿先の女中に頼んで作ってもらった二人分のサンドイッチを詰め込んできたものだった。平生がいつも昼食時にパブやレストランに行っているのを知っていたので、ならば誘ってみれば話せるのではないかと踏んで持ってきたのだ。
 しかし、誘ってみたはいいものの、思い描いていたほど会話できていないのが、現状であった。最初の数分は共通の趣味である本の話題で、何とか話し続けられたが、やがて話題が尽きて二人して黙ってしまっていた。東京海上としては、もっとお互いに距離を縮めて、自身の考えた人と「仲良くなるための方法」を実践したかったが、このレベルの距離感では流石に難しい。
 人見知りの東京海上は自分から話しかけるなど未だ無理難題の行為であり、一方の平生は、どうやって声をかけるべきか思案して黙ってしまっていた。
 
 平生は手に持っていたサンドイッチを口に押し込んで、新しい一切れを掴む。目の前の東京海上は、バスケット一点を凝視して、全くこちらに目を合わせてくれない。心底、緊張しているのだろうと伺えた。自分も、婿入りをして初めて相手の嫁にあった時、こんなふうに全く相手の顔を見れずにいたなぁと思い返す。
 あぁ、我が嫁!それに、日本に残してきた家族のこと──平生は、思わず、ひどく懐かしいような気持ちになって目を細めた。平生は婿養子であったが、妻との関係は良好な方だと自負していた。元より、家では暴れん坊で遊び好きの兄に代わって妹たちの面倒を見てきた平生は、世話好きな性格で、妻のためによく尽くそうと努力した。商談を家でやって妻に食事や酒の面倒を見させることが多かった時代、平生は体が弱く人見知りな妻のことを気遣って、家に人を呼ぶことは絶対にしなかった。妻が風邪で床に臥せった時も、自ら氷を持ってきて手拭きや雑煮を用意し、夜通し看病に努めた。数年前に生まれてきた娘のことは目に入れても痛くないほど可愛がり、急いで仕事から帰ると、娘を抱いた妻が玄関で子煩悩だと笑って迎える……。
 寂寞の心持ちが胸を占めた。娘はまだ幼児で、育ち盛りなのに、一緒にいてやれないことが申し訳なくてたまらない。だが、体の弱い妻をロンドンまで連れてくることはできないし、東京海上の抱える数十人の社員たちにもそれぞれ家族がいる以上、東京海上を見捨てて帰るようなことは絶対にできない。それに……目の前の、未だ子どもであるのに、海を挟んだ苦難に立たせられていた東京海上のことも、平生は救ってやりたいと思っていたのだ。
 
 そうだ、家族……そういえば、平生はまだ、東京海上が他者のことをどう思っているかは、聞いたことがない。無論、入社する前に、彼の人間や会社関係を聞いたことはあったが、それは経営者の益田や各務から聞いた話で、東京海上自身が、自分の過去と、他人や他社をどう思っているのかは知らないのだ。
 平生は、沈黙を破って東京海上に話しかけた。
「なぁ、東京海上にとって……その、親父さんみたいな人って、いるのか?」
 東京海上は驚いたように顔を上げた。しばし思案するように目を逸らす。
「えぇ……うん……それは、難しい質問だ……」
 平生は手に持っていたサンドイッチをひと齧りして飲み込むと、身を乗り出す。
「そうだな……益田専務は?あッ、いや……」
 平生はしまった、とばかり、思わず口を覆う。益田克徳専務取締役──平生をスカウトした、その上司は、すでに明治29年の本店整理の際、経営難の責任をとって辞任の憂き目に遭い、今は第一銀行の佐々木勇之助支配人の兄、佐々木愼思郎が専務取締役となっていた。……平生は、温厚で寛容にして、何度も家で食事を振舞ってくれた益田のことが好きだったので、佐々木専務に交代してしまったことは、少し口惜しく思っていた。
「あはは……き、気にしないで……そうだね。益田のことは……好きだった。各務は、あんまり、好きじゃあ無かったみたいだけどね」
 東京海上は少しばかり悲しそうに目を伏せる。平生は身を引いて、何とか場を紛らわせようとするが、うまく言葉が思いつかない。
「あぁ……そ、そうだったな!アイツは東京商業学校にいた時から気難しくてさ……人の好みがちょっと激しいんだよな」
「……でも、君のことは良く言ってたよ」
 東京海上は上目遣いで平生を見る。平生はドキッとして固まる。
「えっあぁ、それは……まぁ、アイツと俺、郷里が滋賀で同じだったから、学校の郷土ごとの集まり見たいな会合でよく会って、友達になってさ……囲碁とかして遊んでたんだ」
「やっぱり、その時から囲碁好きだったの?彼はいっつも、暇があると囲碁をしたがった……」
 珍しくにこやかに笑う東京海上に、平生はホッとして顔が緩む。
「うんうん、アイツは……本当に、囲碁に取り憑かれてるんだ!いっつも囲碁で賭けてたよ……今、本店に残ってる下野野太郎ってやつ、顔合わせたことあるか?アイツは学生時代、鏡の一番の親友だった……各務に輪をかけて気難しいやつなんだけどな……そいつも囲碁に付き合う常連だったよ」
 昔を思い出すように感慨深そうな顔をする平生に、東京海上は少し瞬きして、質問した。
「学生時代の各務って、どんな……感じだったの」
「おぉ!気になるか?」
「各務は……あんまり自分の話するの、好きじゃなかったから、聞けなくて」
「だろうな……あれは結構、繊細でカッコつけたがる奴だからな!」
 笑いながらそう語る平生を、東京海上は不思議そうに見つめる。仕事外では愛嬌があるとはいえ、普段は厳格で気難しい各務のことを、こんな風に、フランクに語る人間に会ったのは初めてだった。
「とにかく負けず嫌いだ。成績は首席か二番で、いっつもその下野と二人で争ってた……。成績だけじゃなくて、普段の弁論でも酒でも競争してたよ」
 喋るのが好きな平生だ。昔話もそうそう止まらない。
「いつだったかな、期末の一週間前くらいに、各務がめちゃくちゃ安い飯屋見つけて、下野を誘って行ってさ、アイツら何にも考えずいつもみたいにどんだけ食えるか競争して……それで腹壊した下野が四日位休んで勉強できなくて、その時は各務が主席になった……」
「そうなんだ……」
 東京海上は信じられないとばかりに目を丸くした。各務にも、そういう学生らしい無茶をした話があったのかと驚いたのだ。

 平生は持っていたサンドイッチをもうひと齧りする。平生は、東京海上がこんなにも各務のことを慕っていることに内心少し驚いていたが、同時に安心した気持ちもあった。自分にも他人にも厳しい各務のことだから、この年下の少年を怖がらせてはいないかと心配していたが、むしろ好かれていたとは、嬉しい話だった。
「……話は戻すけどさ、じゃあ、その、今のところは、各務が親父さんって感じか?」
「うーん……それは、どうだろう……」
 平生の言葉に、東京海上は少し顔を逸らす。確かに、各務のことは大好きだが、父親のような存在かと言うと、それは違うように思う。
「各務は……その、僕が生まれた時からいたわけでは無いから……父親とは、違うと思う」
「あぁ、そりゃそうか……じゃあ、やっぱりあれか?第一銀行さんか?」
 東京海上はしばし思案していたが、絶妙な顔でうなづいた。
「うん……そう、かも。でも、彼は父親というよりも、先生って感じだった」
「あぁ、そういや君を産んだ時の第一さんはまだ生まれて7年くらいだったわけだし、親父さんって言える年齢じゃないか……」
 平生は半ば腕を組んで、うんうんと一人でうなづく。
「第一さんって、君から見たらどんな先生なんだ?」
「どんな……うん……良い先生だった……と思う。私のために株主集めに奔走して、私が設立した時も、きっぱり私に保険事業を譲ってくれたし」
 フゥン、と平生は鼻を鳴らす。
「第一さんって、すごい先生っぽいよな。しっかりしてて、物腰穏やかでさ……」
 平生は昔、朝鮮で海関の調査員を務めていたから、海関税を朝鮮王朝への借款の担保として運用していた第一銀行とも何度か話したことがある。目鼻立ちのスッキリした青い目の美丈夫で、外交官のように流暢な韓国語で話す礼儀正しい好青年だった。彼が昔、紙幣寮と共に国立銀行の教師役をしていたことを聞いた時は、いかにも適任だろうと思ったものだ。
 平生の言葉に、東京海上が微笑む。
「うん……そうだね。彼は責任感が強いから。渋沢さん譲りで、人のことをすごく気にかけてくれる良い人だ、けど……なんていうか……」
 その一瞬、東京海上の顔が少し曇ったのを、平生は見逃さなかった。
「その、背負い込みすぎるところがあると思う。他人のこともそうだけど、彼は自分のことをものすごく、完璧であろうとして……ちょっと、無理してると思う」
 思わず、目を丸くする。平生にとっては未だ少年のように幼く見える東京海上だが、案外、人のことを細部まで見ているのだと思い知らされたのだ。
「……凄いな。自分の先生のこと、そんな冷静に見れるのって、なかなかのものだと思うよ」
「そうかな……?う、嬉しいって言って良いのか、分からないけど……」
 東京海上ははにかんで答えた。平生は手に残っていたサンドイッチの欠片を飲み込む。最後の一切れが残っているバスケットを東京海上の方に傾ける。
「えぇっと……どうする?俺が食っても良いか?」
「うん、良いよ。君の方が、年も体格も上だからね」
「ありがとさん!」
 そういうと平生はサンドイッチをとって椅子に座り直した。

「あ、そういや、東京海上にも友達っているのか?」
 持っていた最後のサンドイッチを頬張りながら、平生は質問する。
 先ほどの各務の話で、学生時代のことを思い出したが、よく考えると、目の前の東京海上には、自分たちにとっての“学生時代“なんてものは存在しないのだ。何気なく、学生時代の友人だと話したが、東京海上にも”同年代の友人”という感覚はあるのだろうか。
「えっと……うん……いる!いるよ?」
 東京海上は少し赤くなって目を泳がせた。
「物産とか、横浜正金とか……」
「あ、物産って友達なのか、てっきり兄貴分とか、先生みたいなもんだと思ってた」
 サンドイッチを頬に詰め、意外そうに呟く平生に、東京海上の顔がさらに赤くなる。平生は仕事終わりや昼食時に物産が東京海上を引っ張っていくのをよく見ていたので、てっきり物産には頭が上がらないのかと思っていた。
「……そ、それは確かに、年上だし、彼にはとても世話になっているけども、でも、あくまで友達だよ」
「おぉ、東京海上……結構怖いもの知らずだな。物産と喧嘩とかしたことあるか?」
「……うん、というか、昨日したばっかりだけど……」
「えッ本当か!?殴られて……ないか?」
 物産の社員といえばとにかく気性が荒いことで有名だ。部下に叱責するにそろばんで頭を叩くという話はよくある話で、社長の益田ですら怒り出すと支店長相手にインク瓶や灰皿を投げつけるのだから、血の気の荒さは筋金入りである。
 サンドイッチを喉奥に押し込んで、心配そうに腰を浮かせた平生を、東京海上は手で静止した。
「平気だよ!私がちょっと怒ってしまっただけで、すぐに収まった。……彼とはよく口論になるけど、物産に殴られたことは一度もないし、私が嫌だと言ったら止めてくれる人だから」
「へぇ!結構、好き勝手言い合える関係なのか。そりゃいいな」
 ……物産は好き勝手言いすぎるけど、と東京海上は内心思った言葉を秘めた。
「好きに話せる相手がいるっていうのは、良いよ。まぁ、俺は誰が相手でも、結構好き勝手言っちゃうけど……」
 少しバツが悪そうに頭を書く平生を、東京海上は黙って見つめた。
 
 東京海上は、目の前の平生を、遠慮のない、少しぶっきらぼうなところはあるが、気の良い男だと感じ始めていた。それに、誠実で、人付き合いも良さそうだ……ある意味では、各務よりも、気負いなく接することのできる相手なのかもしれない。各務も自分に懇切丁寧に物事を教えてくれる、良い先輩ではあるが、彼はあまりに完璧すぎて、会話をする時には少し緊張することもあるのだ。平生くらい、等身大に話してくれる男の方が、気負いなく話せるし、相談もしやすそうである。
 彼なら、自分の弱みを打ち明けるのにも向いているのではないか。そうだ!昨日自分が徹夜で考えた「人と仲良くなる方法」を試すのは今……。
 東京海上は決心した。

「平生……その」
 なんとか自分から話しかけようと、声を上げる。平生はにこやかに答えた。
「うん、なんだ?」
「君は……人に……友達に頼ることって、できる?」
 意外な質問に、平生は顎に手を当てて首をひねる。
「えぇ?それは……難しい質問だな……」
 東京海上はすこし身じろぎすると、気恥ずかしそうに言葉を続けた。
「あぁ、いきなり……その、変な質問をして、すまない。でも平生は、以前教師だったって効いたから、こういう相談も得意かと思って……」
 教師、という言葉に思わず平生の心が反応する。教育学を自分の人生の軸だと思っているからには、応えずにはいられない使命感が湧いてくる……。直情径行で素直なのが、平生の気性なのだ。
 一つ景気づけに咳払いをして、平生は手を組んで東京海上に向かい合った。
「相談ってことは、なんか悩みごとでも──」
 言い切る前に、重大問題に思い至って、平生は声を落とす。
「あー……経営難のこと……か?」
「えっと……ちょっと違う、かな……?」
 東京海上はどんな顔をすればいいかわからず、頭を掻いた。
「その……昨日、物産と口論になったときに言われたんだけど……」
 
 物産から、もっと愛敬を持て、人と仲良くするように、そう言われた東京海上は、その夜、就寝のベッドの中でひたすら考えてきた。
 「人と仲良くなる」とは、一体なんなのだろうか。
 ただ、その人と話せるようになることが、仲良くなるということだろうか。しかし、毎日顔を合わせる店員や女中と毎日ただ注文のためだけに話をしたところで、仲良くなるわけではない。
 自分の物産や各務のような、いつでも笑って会話できる人との心の距離と、そうでない他の人との心の距離の差とは、一体何なのか。
 それはきっと、自分の弱みを自分が言えるか、あるいは相手が分かってくれるかだ!物産が自分の平生に対する人見知りを見抜いたように、自分の分からないところを相談された各務が親身に答えてくれたように……。自分の持つ一種の弱みや足りない部分をわかってくれる、見せることのできる相手こそが「友人」なのではないか。そして、自分が人見知りなのは、人と会話したり、あるいは一緒にいる中で、そういう弱みを見出されるのが恐ろしいからではないか……。
 だとすれば、人に自分の悩みを打ち明けることは、人と仲良くなるための道の一歩になるのではないか?
 未だ人間関係に疎い東京海上は、自分なりに考えて、そういう結論を得たのである。一方で、悩みを相談するということは相手にとっても負担になるという問題は、東京海上にも理解できた。打ち明ける内容と相手の性格や思考は、十分配慮するべきである。しかし、平生との会話の仲で、明るく気の良さそうな平生ならば、自分の相談にもよく応じてくれるだろうと確信を持てた。そして、その相談内容は……東京海上自身の、人との距離感の問題であった。
 人に弱みを見せられるということは、多くにおいて、それは人を頼るということによって発露する。東京海上は、他人と仲良くなると、むしろ人に迷惑をかけたくなくて、頼りづらくなってしまう。ただでさえ、人と距離を詰めるのが苦手なのに、人と距離を詰めると、逆に自分から距離をとってしまう……。この矛盾こそ、今の自分が抱える最大の悩みなのだ。

 愛敬を持て、人と仲良くしろという言葉に、自分のことを振り返って、自分が持っていないのは人との距離感の取り方だと気がついた。僕は人に弱みを見せるのが心底苦手なんだと……思う。私が……人と会話するのが苦手なのは、会話をする中で、人にどこかを悪く思われるのが嫌だからだ。それって、つまり、人に私の弱いところを見られるのが嫌なんだ。そして、今、平生、君と話す中で、教師として色んな人間と付き合ってきた君ならこの問題にも何か一つのいい考えを持っているんじゃないかと考えたんだ……。
 東京海上の相談内容に、平生は舌を巻いた。少年のような姿だが、その考えはすっかり大人びていた……いや、違う。
「東京海上……あぁ!こんな言い方は何だが、君もそう言えばもうそろそろ二十歳になるのか……」
 眼の前の東京海上は、人に例えればすでに二十歳近くで、この時代の人間ならば、一角の大人然とした顔つきをしているべきにも思える。しかし、眼の前の少年は、未だ十代半ばに届くかどうかともいうべき、あどけない少年の風貌をしていた。一才違いの横浜正金でさえ、すでに大きく身長を伸ばし、青年のような姿をしているのに、東京海上は未だ少年のままだ。会社の成長というものは人間以上に大きな個体差がある。いまだ保険業のノウハウを確立できていない、未熟な東京海上の経営が、彼の成長を停滞させているのだ。
 しかし、体や知識が未だ成長していないとしても、本人の心は成長している。平生が感嘆したのは、東京海上が自らのことを冷静に鑑みて、それを治そうと自分という他人に打ち明けようとしてくれたことだ。自分の弱みを自覚して克服しようとすることは、人間にとって一番難しい問題の一つだと、平生もよく分かっている。
「なんというか、言い方はおかしいが、すごく立派な相談内容だと、俺は思うよ」
 平生は腕を組んだ。
 自分の頭のなかで、東京海上の相談に対する答えを考える。人との距離感か……。こういった問題は人によって背景に違いがある以上、単純明快にして単一の答えを出すのは到底だめだ。相手の情況や心理に合わせた答えでなくてはいけない。そのためには、もっと東京海上の気持ちの背景を知らなくてはいけない。
「ちょっと聞きたいんだが、昨日物産に言われたからって、急に……今日、実際俺に話しかけるのは、相当勇気がいることだったろ?なんでそんな決意が湧いてきたのか……できれば教えて欲しいな」
 東京海上は一瞬恥ずかしそうに目を泳がせた。
「う……その……うーん、あぁ……」
 平生は黙って、穏やかに東京海上を見つめる。東京海上は深呼吸をして、なんとか自分を奮い立たせた。
「君は私の社員だ。だからいつかは絶対……仲良くなるべきだとは私も思ってたんだ。それに……今まで傍にいてくれた各務は思い立ったら何でも用意周到に実践する人間だったから。私も自分から実践しなくちゃいけないと思って」
 気恥ずかしさから、目を合わすこともできず、うつむきがちになってしまう。しかし、平生は大きく頷いて微笑んだ。
「なるほど。ありがとう……そうか……」
 商業学校時代の学年では一年先輩だったとは言え、二三才年下の友人である各務が年下の少年から慕われているのを実感して、思わず感慨深くなる。
 各務を見習って……実践しなくちゃいけない、か……。平生は考え続ける。
「各務は」
 東京海上がつぶやくのを聞いて、平生は再び彼の方を見た。
「各務は……ロンドンに居る時、自分が英国で一番の保険業の学者になって、会社を立て直すどころか世界の一位にしてみせるって、ずっと言ってくれた」
 再び深呼吸をする。
「……私も各務についていきたいから。変わりたい……」
 消え入りそうな声だ。だが、東京海上が心底そう願っているのだろうことはよく分かった。
 
 変わりたい──平生は、その言葉に、東京海上の相談の理由へと思い当たった。
「俺が思うに、君の相談、人との距離感って問題は……それは、確かに、君にとって大きな悩みかもしれないが、同時に一つの君の成長の証だと思う!」
 平生の明朗な声に、東京海上が驚いて顔を上げた。
「特に人に頼れないって話はさ……あぁ!実は、俺もそうだよ。俺も人に頼るのは苦手なんだ。俺も学生時代、それで色々苦労した……」
 バツが悪そうに頭を掻いて苦笑する。
「でもさ……そうやって、人に頼らずに、人に弱みを見せずに、人から独り離れて、全部自分一人で決めてなんとかしようって、思えてしまうのは──それもまた、大人になるための第一歩なんだよ」
 平生はまっすぐ東京海上の目を見た。

 東京海上の悩みは、平生にもよく分かる問題だった。人に弱みは見せられない、親しい人に頼ることができない……。彼自身、学生時代、平生家の婿養子になったのは、なんとか学費を得るため、親や周りの教師に頼らずに解決しようと先走った結果だった。後から、親や教師からは、散々もっと早く相談しろと言われた。おまけに恩師の矢野先生は、そういった無理をしないで済むように、政府の奨学金を出そうと奔走していたことを知って、自分の行為の浅はかさ、無鉄砲さに申し訳なくも思った。しかし、そうやって一人で解決しようとしてしまうことは、自信の裏返しでもあるのだ。

「人は周りの人に支えられて大きくなる……大きくなるうちに、自分の力に自信がついてくる。そのうちに、もう周りの人の支えなんて必要ないと思ってしまうようになる……でも、それだってある意味、成長の証だろ?」
東京海上は黙って平生の言葉に耳を傾けている。
「自分一人で解決して、生きていこうとしてしまうのは、自分ならそれができるだけの力があるって自信があるからだ……特に東京海上、君は普段からすごく丁寧できちんとしてるから、そういう意識が強いんじゃないかな」
「……」
「君は第一銀行の渋沢さんが作った日本初の海上保険会社で、生まれてからずっと市場の一位だ。それに海外に支店を持っている数少ない会社の一人で……色々、気負っているように見えるから」
 
 この気持ちも平生にはよく分かるのだ。貧しい家庭から苦学生として努力し、東京までやって来て高等学校に受かった平生には、強い自負心があった。自分は努力によって何でもない乗り越えてみせられるという自信だ。周りの人間に頼らなくたってやっていけるという反抗心!

 少し恥ずかしそうに、東京海上が俯く。
「あぁ……なんだか、さっき私が第一銀行のことを言った言葉が……」
「あはは……そうだな。完璧であろうてしてしまう、か……ある意味、親父譲りなのかもな?」
 平生は苦笑して、うんうんと頷くと、温かな笑顔で言葉を続ける。
「でもそうやって完璧でいようって思えるのは、本当に凄いと思うぜ。かっこいいよ!」
 目を丸くして、東京海上は平生の顔を見た。「かっこいい」などと人から褒められたのは、人生で初めてのことだったのだ。
「大概の人間は、そうは思えない……俺だってそうだよ。清く正しく、誠実にってさ……みんなそれが一番良いことなのは知ってるけど、でも毎日どこでもそれができるわけじゃない。酒を飲んで大声で騒いだり、冗談で人のことを揶揄ったり、そういうことをして鬱憤を晴らそうとしちまう」
「……それは……私には……そういうこともできる友人も少ないから……」
「そうか?でも、俺や物産が今日は酒飲んでハメ外そうぜなんて誘っても、君ならきっとそれを諌めようとするだろ?」
「う、うん……」
 東京海上は節目がちに頷く。
「たとえ相手が年上でも、人に流されるんじゃなくて、自分が正しいと思うことをはっきり言える……これだって“完璧”の一種だよ!」
 平生はそこで一息ついた。
「でも、そういう完璧で、人の支えから独立して、一人でなんでもやっていこうっていう考えから、君は脱却しようとしてる。周りの人を頼って、たとえ初対面の人に自分の弱みを見られても構わないくらいの気持ちが持てるようになりたいって……いわば、これが大人への第二歩なんだよ」

 学生時代の自負心から来る無我夢中の努力によって、多くの苦労をしてきた平生だ。人の支えから脱してなんとかしようとすることは、確かに成長の第一歩だが、それがどれだけ難しいことなのか、人生の先輩としてよく知っている。だからこそ、この後輩の悩みをきちんと支えてやりたいと強く思うのだ。

「俺は、人の支えから独立しようとして、挫折して、そこで初めてそういう……人に頼るってことの偉大さを思い知った」
 平生は身を引いて、昔を懐かしむように少し目を細めた。
「でも、大人になるためには、そういう自分の限界を見極めて、足りないところを認めることが大事なんだ……俺は失敗して初めてそれを思い知ったけど……」
「……」
 東京海上は少し物寂しげな平生の顔を見た。平生は、直情径行でいつも明るい男のように見えるが、そういう彼にも多くの苦労があるのだというのは、意外に思えた。
「君の場合は、各務と出会って、自分も変わろうって気持ちになれたんだ。賢いよ!失敗する前に気がつけたんだから……」
「失敗は……私だってしているよ。イギリスでの大赤字という失敗があって、それを解決するために各務と一緒に努力してきて、彼の姿勢を見て……変わろうと思ったから」
「あぁ……各務のやつ!年下にこんなに影響を与えるなんて、本当に偉くなったんだな……」
 苦笑して答える東京海上に、平生は二度目の感嘆をする。
 
 そして、彼は東京海上の方に身を乗り出した。
「……それに、もしかしたら、そうやって、変わりたいって思ってるっていうことは……今がまさに君の成長期なのかもな」
「成長期……」
 その言葉に、東京海上はどきりとする。自分の姿が、いつまでも成長しないことは、東京海上自身もよく意識している……。物産や横浜正金、同年代だったはずの国立銀行や鉄道会社たちが大きくなっていく姿は、東京海上の心に少なからずの焦燥を抱かせ続けてきた。
「うん!そうだ!きっとそうだよ……俺と各務が、今まで脆弱だった保険業の基礎をしっかり作って、きっと君の経営を立て直してみせる!そうすれば、君もきっと大きくなるんだ!」
 胸を張って思い切り腕を広げ、平生は熱っぽく語る。その明るい晴れやかな話ぶりは、東京海上の心にも光がさすような感じがした。
「誓うよ!俺も各務も、君のために、この会社のためにいくらでも努力してみせる……だから好きなだけ頼ってくれ!」
 胸を叩いてまさに自信たっぷりの笑顔だ。そして、東京海上が組んでいた両手を握ると、熱い視線で彼の顔を見た。
「それに……さっきも言ったけど、君は本当にかっこいいから!たとえ人に少しくらい弱みを見せて、カッコ悪く思われたって……君ならすぐにその印象を覆せるくらいの魅力がある!」
 ニコニコと語るその姿は、各務とは正反対である。だが、かつて東京海上が、彼から感じた温かみに決して劣らないものを、目の前の平生からも確かに感じられた。
 
 東京海上は握られていた両手をあらためて握り返した。少し、遠慮がちに笑って、平生の目を見る。
「平生……あ、ありがとう。その、私の相談に……ここまで真面目に答えてくれて」
「こっちこそだ!ありがとうなぁ!こんな大事な相談してくれてさ……俺は頼られるのが好きだから、嬉しいよ」
 輝かんばかりの平生の笑顔に、自分もいつか、このくらいの輝きが持てるようになれたらいいなと、東京海上はぼんやり思った。

 ゴーン……という鐘の音が、再び部屋の中で反響した。
 一時の鐘の音だ!二人はびっくりして思わず手を離す。
「おお!もう昼休憩も終わりか……なんか、随分長話してたみたいだな」
 平生は、サンドイッチの入っていたバスケットの蓋を閉めて、手際よく風呂敷で包んだ。東京海上は、自分がやるべきだったのに、と申し訳なさそうにそれを受け取った。
「すまない……君に片付けさせてしまって」
「遠慮する必要ないって!こういう時は、謝るんじゃなくて、ありがとう、でいいよ!」
 東京海上は頭を掻いた……こうやって、人の優しさに遠慮してしまうのも、まだまだ自分が人を頼れていない証なのかもしれない。
「そうだ!今日の夜、暇か?昼飯のお返しに、夕飯は俺がどっか連れてってやるよ!何が食いたい?」
「えぇッ⁉︎それは……」
 咄嗟に口から出かけた、遠慮の言葉をなんとか飲み込んで、東京海上は大きくうなづいた。
「ありがとう!そうだね……何を食べようかな……」
「ステーキ食べいくか?それともキドニーパイ?おまかせでもいいぜ。各務から教えてもらった店に行こう」
 楽しそうに語る平生に、東京海上の心も、今からワクワクしてくるような気持ちになる。
 そこでふと、いつも夕食を共にする相方の顔を思い出した。
「あ……平生!その……良かったら、物産も誘っていいかな……」
 上目遣いで、少し遠慮がちに語る年下を見て、平生は苦笑した。
「ははは……まぁいいよ!頼ってくれって言ったのは俺だからなぁ。甘えてくれて嬉しい限りだ」
「すま……ううん、ありがとう。実はその、昨日の夜、彼がお腹いっぱい肉が食べたいって言っていたから、食べさせてあげたくて、それに……」
 そこで、東京海上は晴れやかな笑顔で平生を見た。
 
「ちゃんと……君と仲良くなれたってこと!彼に教えたくって!」

後書き
 短編のはずなのに……こんなに分厚くなっちゃって……。元々漫画用に考えていたプロットを改造したら4万字に膨らんだ……元のプロットでは東京海上と三井物産と各務鎌吉しか出ない予定だったのに😢そして、タイトルが思いつかない。辛いよ。
 これを機に東京海上八十年史を読んだんですけど、火災保険と海上保険の歴史、要するに合併した会社のことを同時並列に書いているため非常に話の展開がわかりにくいですわよ!でも六十年史は資料集だしなぁ……。オタクにとっては帯に短し、襷に長しといったところか。
 あと東京海上の生まれ年は第一銀行が保険業の許可を政府に取った明治10年にしました。先生の元にいた時代ということでね。三井銀行は三井御用所(と為替座三井組)が前身です。ただし為替座三井組の管理区分は御用所じゃなくて大元方?しかも為替座三井組の初支店は三井両替店大阪支店の内部だ。なので厳密には……別人……❓🤔本を読んでも上手く理解できない。もう幕末・明治維新期の三井組の形態が……頭に入らない……。
 でもずっと話したかった三井兄弟の来歴の話ができてスッキリしました。三井国産方から三井物産への人材と経営方針の性格の変化、兄貴の三井銀行の二十年後の姿そっくりで大好きです。
 
 金融業や石炭鉄鋼業で良い本、論文があったら、サイト上部のWaveBoxのリンクから教えてください。
 私が最近読んでオススメしたいくらい良かった本は石井寛治先生の『日本の産業革命』です。内容が一般向けなので似た内容を取り扱った『帝国主義日本の対外侵略』(こちらは学術本)よりも分かりやすいことと、後者は政治・軍事に関する話題が多いのに対して、前者は財界中心で様々な企業の名前が出てくるのも財界オタクに嬉しいポイント。横浜正金と物産の関係(海外支店進出における両輪の関係)をこの本で初めて知り、取り入れちゃったよね。
 ちなみに論文では粕谷誠先生の「創業期三井物産の営業活動──ロンドン支店を中心に──」です。取り扱う商品の変遷が面白かった。Oops!大変だ……小学生並みの感想しか出てこない!
 二つとも今回の小説の参考文献であり、特に粕谷先生の論文はネット上ですぐに閲覧できるため、リンクを貼っておきました。皆さんにもお時間あればぜひ読んで下さい。

参考文献