翌朝は、青々とした空がロンドンの忙しない街角を照らし、道端の馬糞ですらも輝いて見えるような珍しい快晴であった。街路を走るバスからは今日も元気に紳士達が飛び降りて駆けていく。磨かれた鉄製の靴底からは乾いた妙音が響きあう。
三井物産の支店の傍、東京海上ロンドン支店長、平生釟三郎は、今日も契約の調査書を睨みつけるようにして読み込んでいた。
平生は、明治27年の夏、三十代の初めに東京海上へ入社した。いわば中途採用だった。しかし、それは保険員としての技能を買われたからではなかった。それどころか、サラリーマン、つまりは商売人ですらなかった。彼は元々教育者で、神戸の商業学校で校長をしていた身であった。
苦学生であった平生は、自らの苦悩から教育者となることを夢見た。
借金を抱えた武家出身の母と、農家出身であったが婿入りによってで士族籍を手にした父との間で生まれた釟三郎の生家、田中家は、代々の家宝であった鎧一式でさえも借金の担保に奪われるほど苦しかった。父親は傘の修復、提灯の張り替えなど内職によって家計を支え、武士というよりも、さながら下流の町人であった。父や祖父の期待を受けて優秀な成績を収めた平生はなんとか上京先の学校、東京外国語大学の入学試験で特待生として奨学金を得るが、政府の命によって平生が卒業する前に廃校にされてしまう。奨学金をなくしてしまった彼は、転校の資金を要して、一人娘しか居らず後継ぎを得るために優秀な人材を探していた、平生家に婿入りしたのだった。
そうした数々の苦労を経験した彼は、なんとか転校先の東京商業学校を卒業した。一時その外国語能力を買われて朝鮮の海関として輸入品のチェックなどを行なっていたこともあった。しかし、彼の夢はやはり教育者にあり、その後についた神戸商業学校での校長生活では、大きな満足を得ていた。
そんな彼が東京海上にやってきたのは、彼の意思からではなく、彼の恩師の頼みがあったからだ。東京商業学校の矢野二郎、無謀な問題児の集まっていた東京外国語学校が政府の命によって廃校となった時、その生徒をなんとか助けようとした人物であり、平生もまたその働きによって東京商業学校へ転校した生徒の一人だった。神戸商業学校校長への赴任も彼の紹介あってのものであり、平生にとってはまさしく頭の上がらない存在なのである。
明治27年、東京海上の経営陣は必死になって人材を探していた。ロンドン支店の不調の調査のために、会社の懐刀の各務鎌吉を派遣するにあたって、代わりに会社を切り盛りする人間を探していたのだ。当時会社には二十数人ほどの社員がいたものの、経営陣にとって信任に能う人間は居なかったらしい。東京海上専務取締役の益田克徳の兄、益田孝は商業学校の校長として経理に明るい人物をよく知るであろう矢野二郎に斡旋を頼んだ。そうして白羽の矢が立ったのが、平生だったというわけである。矢野は東京海上が日本の貿易の威信に関わる問題だとして、渋る平生を説得した。
校長としての職務から離れるのは惜しい。だが矢野から懇切に説得されては断りがたい。平生は東京海上への入社を遂に承諾した。
しかし、いくら商業学校出身とはいえ教師からいきなり保険会社に入っても、すぐに適応できる訳では無い。保険料の利率や契約可能船舶の条件など、知らなくてはいけないことは山積みであった。東京商業学校時代からの友人であった各務は、平生の勉強のためにと山積みの資料やメモ書きを置いて言ってくれたが、日々の労働の傍らそれを飲み込むというのは大変なことである。
そして、ロンドン支店に赴いた各務のために東京海上へ入社した平生は、明治30年の年の暮れ、今度はロンドン支店のことを報告するため東京本店へ帰国した各務の代わりに、ロンドン支店へ転勤してきていた。
ロンドンにおける平生の仕事は、代理店からの契約報告の調査と日本人商人への営業だ。
契約の調査というのは、契約した船舶の種類や状態を精査しリスクが契約内容に見合っているか確認するものである。例えば、汽船と帆船では、後者の方がリスクが大きく、その航路や運行年数などを見て、時には契約を断る必要もある。
日本人商人への営業は、文字通り、ロンドンに代理店を置く日本人の会社への契約の勧誘である。ロンドンから日本へは生糸や美術品などの商品が輸入されてくるが、その荷物への契約を勧誘するのだ。もっとも、これはあまり上手くいっていなかった……多くの会社は、東京海上の経営難のことをよく承知しているのだから、無理もない。
そして今日も平生は保険の報告書を精査している。
窓際におかれ、白い日光の差すデスクの上には、前任の各務が大量のメモと共に残した資料が山積みだ。各務が2年間ロンドンで昼夜を徹して分析してきた船舶や荷物、航路ごとのリスクについてのメモ書きは、平生にとって大きな助けになっていた。
「……」
その横の机に座り、契約書の書類の正誤を確認する東京海上は、ちらりと平生の方を伺いみた。
「……」
髭を生やして厳然たる顔をすることの多かった各務とは異なり、扁平で垂れ目がち、メガネをかけた平生の丸顔は、一種の愛敬があった。
東京海上は心持ちソワソワとする。もうすぐ昼間だ。声をかけたいが、平生は一向に顔を上げる様子が無い……。パサリという音を聞いて東京海上が一瞥すると、平生は確認のサインを書いてすぐに新しい書類に目を通し始めた。
うむむ、と東京海上は頭をめぐらせる。いや、今のうちになんて声をかけるか練習するべきなのか……。昨日の夜、ベッドで散々なんと言うべきか考えてきたものの、いざ相手を目の前にすると、口が上手く動かない。
「……」
口を開きかけるが、やはり声をかけられない……。
集中しているところに水を差すのは、気まずいのだ。東京海上の手に汗が浮かんだ。
物産の社員達は、昼食を取りに、あるいは営業に出かけて事務所の中は静謐だった。書類の掠れる音も、僅かに開かれた窓から漏れ出てくる街路の喧騒にかき消されていた。
ゴーンという音が響く。
平生がハッとしたように顔を上げた。東京海上もつられてそちらを見る。
それは正午を告げる鐘の音であった。通りの良い重い音は反響し、辺り一面に響いてゆく。平生は椅子を下げて身体を伸ばした。深呼吸をして、ため息を着くと、東京海上に声をかける。
「待っててくれたのか?悪いな。なんだか随分のめり込んでたみたいだ」
苦笑するように頭を搔く平生に、東京海上は応えようとするも、緊張から口を開きかけて止まってしまう。
「どうした?問題でもあったか?」
心配そうに伺う平生に、東京海上は自分を奮い立たせるようと、思い切り首を振った。
そして、自分のデスクの足元から、風呂敷を引っ張り出す。
「平生!」
「お、おぉ!」
緊張を打ち消すために、勢い余ってつい大声がとび出てしまう。平生が驚きながらも返事をすると、東京海上は目を平生から逸らしながらその風呂敷を解く。
「その……今日のランチ、予定、ある?」
平生は面食らいつつも首を振る。
「い、いや、特に無いけども。君も暇なら、一緒に来るか?」
苦笑する平生の目の前に、東京海上は風呂敷から取り出したバスケットを突き出した。
「なら、私がサンドイッチを持ってきたから、2人で食べよう」
顔を赤くさせながら、なんとか、東京海上はその言葉を言い切った。
平生や物産など、多くの社員は昼食時、街のレストランやパブに出て行くのが常であった。一方で、東京海上は昼飯は下宿先の女中に作ってもらったサンドイッチを食べるのが習慣だった。人混みを好まない東京海上にとっては、混雑する店内に分け入って注文するというのが苦手で、昼間の事務所のような人気の無い場所で食事することを好んでいたのだ。
「おぉ……そりゃありがたいが、珍しいな……」
平生はますます困惑の色でバスケットを受け取った。
「その、ど、どこで食べようか」
緊張で目を泳がせながらも、東京海上はなんとか平生に話しかける。
「うん?そうだな、デスクの上だと……書類になにか落ちたら嫌だしなぁ、向こうの応接室の方に行くか?」
平生はバスケットを抱えて立ち上がる。東京海上はうなづいて椅子を引いた。
いくつかのシェードがぶら下がった店内の白熱電球も、窓から差す晴天の光には及ばない。
鉄の靴底で木の階段を踏みしめると、ギシギシと音をたてて軋む。煉瓦と木組みの暗い店内に、窓辺から強烈な白い光が落ちていた。ランチの上で談義する人々の合間を縫って進むと、目当ての青年が窓辺の席にふんぞり返って新聞を読んでいるのが見えた。
「おい!今日の目玉のニュースは!」
座っていた青年はびっくりしてこちらを見た。答えを待つ間も無く、声をかけた男──三井物産は、その男の前の椅子の背をとって座った。
新聞紙を下げると、男は物産に苦笑する。
「悪いが、今日は面白い話を持ち合わせてないよ」
「なんだ?チップが欲しいか?チップが……」
物産はおどけて手を広げると足を組んで、胸からタバコの箱を取り出す。1本取りだして男に差し出すと、青年はため息をついて物産を見た。
「分かった分かった。要するに俺の新聞が欲しいんだな」
「早くよこしな!こっちは時間がねぇんだ」
物産は出していたタバコを引っこめて自分の口にくわえた。マッチ箱を擦って火をつけ、注意深く口元の煙草の先にその火を移す。
青年は首を振って、信じられないと肩を竦めた。
「はぁ、お前よりも偉ぶる奴は天下にいない!」
観念したように男は物産に新聞を渡した。物産はそれを受け取ると、株式銘柄の変動表を開いて右から左へ視線を動かして読み込み始める。英字では無く日本語だ。物産の下宿にも英字の新聞は二、三ほどあったが、日本語の新聞は無いので、ここ最近はずっと眼の前の男が日本から送らせている新聞を借りて読んでいた。
口元のタバコを引き抜いて息をつく。白い煙も周りの煙草から出てきた雲の大群に加わり、店内に充満する灰色の空気のひとつになる。
「日本郵船と大阪商船の海外航路闘争は未だ継続……いやはや、図太いってのは商売人一番の武器だよ。お前さんの愛する紡績業は概ね順調、ありがたい限りかな?お前のとこの支店長が中国の紡績工場を買いたがってるらしい。上手くいくかは知らんがね」
「上海の山本か……あいつはなぁ……どうだか。大風呂敷か、乾坤一擲か、分からんな」
物産は顎を撫でる。三井物産上海支店の名物支店長、山本条太郎は、直情径行にして行動力の化身であり、幾度も手を焼かされてきた相手だ。
青年の世間話は続く。
「そんな訳で、紡績と船舶の株はどこも上がりっぱなし!だが……あぁ、東京海上の株はひどい有り様だよ」
首を振りながら残念そうに青年はため息をついた。
「日清で設けた相場師の連中は落ち目の東京海上の株を買ってるのもいるらしいが……放っておくと株主総会で何を言い出すか。感心しない連中だからな」
「そんなに嘆いてるんなら、お前も買ってやれ。日銀のやつに金出させろよ、半官半民の兄貴分だろ?横浜正金!」
「何が兄貴分だよ。日銀のやつが俺の言う事聞いた試しあるか!?」
「十分聞いてるだろ……なんたって生まれて半年で落ち目の兄貴を救った偉い弟じゃねぇか……」
物産がニヤリと向かいの青年を見上げた。
「はぁ……お前は本当に嫌なやつだ物産!あの時は俺だって生まれて三年経つかくらいだっただろうが!」
青年は──横浜正金銀行は呆れたように首を振る。
新聞を取られ、手持ち無沙汰の彼は自身の目の前のランチに手をつけはじめた。マッシュポテトとよく焼けた厚切りのベーコンを口に突っ込む。
横浜正金銀行は、明治13年2月に設立された特殊銀行だ。預金と貸付を業務の中心とする市中銀行とは異なり、外国為替、つまりは通貨の交換を行うのが彼の任務である。
両替を担ってきた外国商人ら──幕末末期以降から、両替を担っていたのはほとんどアングロ=インド系列や上海香港、あるいはフランスなどの欧人による外国銀行だった──は、国内外の貨幣を交換する外国為替によって、日本の貿易に強い影響力を持った。貿易の基本は外国為替、国内外の通貨の交換にある。これが外国銀行の手にあるということは、日本人商人による輸出入の大部分を外国に依存することになる。当然、それは日本にとって不利な状態であり、これを打開するために作られたのが、日本人の手によって外国為替を行うために作られた横浜正金銀行なのだ。
横浜の商人らの運動と政府、大蔵省の後押しによって、民間資本中心に作られた横浜正金銀行は、政府による資金援助をバックに、外国銀行らよりも有利な取引レートを提示することで急速にシェアを伸ばした。幸運にも、彼が生まれた明治13年、西暦1880年以降、日本にて両替を担っていた外国銀行らは、インドやインド洋植民地における投資の失敗、放漫な貸付体制、1880年代における世界的不況、清における借款競争など複数の要因によって大部分が失墜し、横浜支店を畳んで日本から撤退していった時期と重なっていた。これによって横浜正金は日本人商人だけでなく、外国人商人からも利用されるほどの規模に成長したのだ。
そして、この幸運児、横浜正金と三井物産はまさしく車の両輪ともいうべき関係にあった盟友だった。横浜正金の支店あるところすなわち物産あり、輸出入を担う物産にとって為替によって海外紙幣と日本紙幣の交換を行う横浜正金はなくてはならぬ存在であり、横浜正金にとっても、物産からの手数料は収入の大きなウェイトを占めるなくてはならぬ商売相手だ。
政府、そして日銀という強力な後ろ盾を持つ横浜正金は、他人に対して遠慮するところがない。年上の物産にも敬語を使わず気負いなく接するが、堅苦しいことを好まない物産は、むしろ横浜正金のそういう粗野なところを好んでいた。加えて、お互い楽天家な冒険好きであったので、馬が合い、五歳以上の年齢差など全く感じないような間柄で接している。もっとも、横浜正金の冒険好きな性格は、明治16年の新年早々、松方正義蔵相に、拡大主義的経営によって経営難に陥ったのを粉飾したことがばれて、大激怒の説教を食らい経営再建をされてからはすっかり形を潜めていたが。そして、明治15年の秋に生まれた日銀は、この経営難の彼のためにいくつもの経営改革案を出して検討、実行し、見事救ってみせたのだ。
「とにかく、俺は東京海上の不調が早く治るのを祈るばかりだ……最近あんまり顔見てないけど、元気?」
口の中のベーコンの脂身を落とすように、ソーダ水を喉に流す。
東京海上もまた物産と同じく、横浜正金の重要な商売相手にして友人であった。そして、その東京海上の経営難は、横浜正金も新聞上でよく目にしている。
物産は新聞に目を落としたまま、こともなげに答える。
「元気もなにも、有りあまりだ。昨日夕飯を巡って口喧嘩したばっかりだぜ」
「相変わらずだな!まぁ本人が平気そうなら結構だが……」
ビールジョッキをドカッと置くと、横浜正金は呆れるように言った。フォークで山盛りにすくい上げたマッシュポテトを口に頬張る。
物産は昨日の夜の会話を思い出して、首をふって話す。
「本当にあいつの生真面目すぎるとこは……信じられねぇ!夕飯が少ないって文句たれたら、囚人でもないのに自分の飯にケチつけんのは不幸の始まりだとか説教しやがった……」
「最高だな!それでこそ第一先生の息子だ……」
一笑すると大げさに頷く横浜正金に、物産は忌々しげに言葉を継いだ。
「口惜しいが、少なくとも今年度の俺は囚人同然だ……が、来年までには金貯めて、絶対に今の下宿からは飛び出す!」
その言葉に、横浜正金はしばし訝しむように物産の顔を伺ったが、すぐに合点して自分の椅子の背もたれに沈んだ。
「囚人って……物産!お前また銀行の兄さんに仕送り切り詰められたのか!?」
物産は一瞬、横浜正金へと目線を上げたが、新聞を折り畳むと、空のジョッキを運んでいた店員を呼んで自分の注文を伝えた。
横浜正金も空になったランチプレートから身を起こした。コートからタバコを取り出すと、物産の出したマッチから1本頂戴して火をつける。
タバコに口をつけ、煙を吐き出すと物産の方へと身を乗り出して小声で聞いた。
「思惑の失敗か?俺の金も要り用になるのか?」
思惑──投機、先物買いの失敗は名だたる物産支店長たちの悪しき名物であった。
心配そうな横浜正金に物産は首を振って答える。
「そういうことじゃない……切り詰めたがってるのは兄貴じゃなくて支店長の渡辺だ。船舶部門が落ち目で頭抱えてんだよ」
支店長の渡辺──渡辺専次郎は、岩原謙三から代替わりした新しいロンドン支店長だ。
「おぉ、それなら安心……ってまぁ良い話じゃあないが。船舶は……そろそろ買い替え?」
「償却もそうだが保険料もだ!うちの花形が……嘆かわしい」
「ふぅん……だが、そんなに問題か?紡機の手数料で相当儲けてるんだろう」
物産は苦笑し、タバコを一息吸って吐いた。
「上半期の損益明細表に追われてんだよ……うちの給料は出来高だ。紡機の儲けはでかいが日清の頃と比べたら落ちてきてる。昔の花形だった政府米の取り扱いが無くなって船舶も落ち目、新しい商品を探して英国石炭の仕入れもしてるが、渡辺のやつ、色々気にしてんだ。何せ、向かいの上海支店はボンベイ出張所を得た紡績産業で波に乗ってるからな……」
明治二十年代の紡績工場ブームは三井物産に多くの利益をもたらしたが、それは紡機の輸入を取り扱ったロンドン支店だけではない。製品作りには機械の他に原料の仕入れ先と売り先も要り用なのだ。そして、それを担っていたのが、中国綿花を取扱うと同時に製品の綿布の輸出入を行う上海支店と、明治26年に設立されたインド綿花の仕入れを担うボンベイ出張所であった。
そして、三井物産における評価は、こうした各地の支店同士の成績競争によって決まる。物産の支店長はとにかく他の会社と比べて権限を持つ範囲が広いというのが特徴であったが、それだけ多くの責任と期待が伴っていることもまた事実だった。支店の出来高は給料にも直接響いてくる。日清戦争前後でようやく躍進してきたロンドン支店としては、ここで勢いを失って再び上海支店に大きな差をつけられたくないという切実な願いがあった。
「なるほど」
「支出一番のネックはいつでもどこでも人件費だ!俺は少しでも自分の支店に貢献するために、倹約の最中なんだよ……おかげで引越し飯も満足に選べねぇ」
思わず、乗り出していた身を引っこめて、同情の目で物産を見る。
「はぁ、ロンドン支店の悲願、打倒上海支店のための慎ましやかな献身ってわけか」
物産は苦笑してタバコをくわえた。
「最近俺の新聞を奪ってるのも、経費削減策?」
横浜正金が困ったように両手を広げると、物産はタバコを離して答える。
「良いだろ?読んだって字が消えたりする訳じゃあない」
「だとしても態度がある!もっと下手に出ろ!兄さんに告げ口してやってもいいんだぜ」
「なんだよ、九跪三叩頭でもして欲しいか?ここで?変態だな……」
物産は大袈裟に身を引いて眉根を寄せる。横浜正金は呆れたように物産を睨みつけた。物産はただ肩をすくめるだけで何処吹く風の面持ちだ。
椅子に座り直し、足を組んで横浜正金はタバコを吸った。
「はぁ……お前の兄さんが羨ましいよ。その減らず口を黙らせる方法を知ってるんだからな」
「俺を黙らせたいなら、簡単な話だ。お前が三井家に闇討ちをかけて俺の株券を盗んでくりゃいい」
「いいね。上野あたりでばらまいてきてやる。俺が当世の鼠小僧だ」
明治年代の上野は、幕末維新の動乱で住人であった士族たちが居なくなった結果、その一角には大量の浮浪者が集まる長屋のスラムが形成されていた。
物産は横浜正金の計画を鼻で笑う。額にはにわかに青筋が浮かんでいた。
「それで倒産したら火達磨になってでもお前に抱きついて心中する……」
「そりゃ駄目だ。俺の顔が焼けるのは困る。俺は地獄に行ったら閻魔を垂らしこんで三途の川で商売をするつもりなんだよ」
「なんだそりゃ。屋形船でも売んのか?」
「残念外れだ!俺等二人で東京海上のやつを引きずってきて、三途の川で保険屋をやるんだよ。俺が社長で、東京海上が経理事務、お前が営業担当」
ニヤリと笑う横浜正金に、物産は苦虫を噛み潰したような顔で首をひねった。
「冗談きついぜ……地獄に行ってまで銀行家のケツにひかれるのは御免だ」
横浜正金がなおも言葉を継ごうとすると、横から現れた店員が物産の方にランチを置いて行った。
次いでソーダ水のジョッキを運んできた店員に、物産が手をあげてチップを渡す。
横浜正金は物産が手を離した隙に新聞を取り上げて三面記事を読み始めた。
物産が口を尖らせるも、横浜正金は手を振った。
「もういいだろ?まだ読みたいなら……ご飯を食べてからにしなさいよッ!」
「調子乗んな!」
年下の露骨な子供扱いに、物産は顔を引き攣らせた……が、とはいえ昼食を取らねばならぬのは事実である。
皿の上のマッシュポテトを吸い込むようにがっついた。塩胡椒のシンプルな味わいは、添えつけの見るからに照り輝くベーコンの油を受け止めてよく調和する。
「そうだ!物産、さっきの東京海上の話に戻るが……お前にはアイツの契約数が見れるんだったな」
「はぁ?」
横浜正金が突然新聞から顔を上げて、物産を見る。
「お前、東京海上の総代理店なら手数料もらってるんだろう。じゃあ損益明細表には当然手数料も勘定するだろ」
「そりゃ数は見れるけど……」
困惑する物産に、横浜正金が真面目な顔で話す。
「一昨年アイツの経営陣にテコ入れが入ったのは効いてきてるのか?」
「……」
物産はいきなり態度の変わった横浜正金に驚いた。
横浜正金は読んでいた新聞の一点を指さして物産に見せる。そこには、ロンドンから帰ってきた各務が東京海上の新しい経営陣にイギリスでの様子を報告した件についての小さな記事が出ていた。記事に添えられた記者の言葉には、東京海上のロンドン支店の継続を危ぶむ様子が表れている。
横浜正金は身を乗り出して物産に詰め寄った。
「物産……もうこのロンドンに二十年近く居て……日本からやってきて出戻っていく奴らを今までたくさん見てきただろ?……東京海上は俺達の友人だ。俺は……また友人が帰るのを見るのは、純粋に寂しいし……心配だ」
東京海上は明治12年の設立で、明治13年設立の横浜正金にとっては非常に近い同輩である。それに、ロンドンに残っている数少ない日本人商人であり、物産とともに何度も食事を共にしてきた友人だった。自分と同じように政府の援助を受けて設立された会社として、同胞意識も強い。
眉根を寄せて拳を握り、横浜正金は下唇を噛んだ。
「東京海上の支店長が交代したのは、あいつのロンドン支店の方針を決めるために支店長が呼ばれたからだと俺は踏んでるんだよ……なぁ、物産、お前はどう思ってるんだ。東京海上のロンドン支店は、上手く言ってるのか」
物産はしばし思案する。しかし、変に取り繕うのはそれこそ無駄な心配を呼ぶだろう。物産はきっぱりと答えた。
「俺が分かるのは契約数だけだ。保険金の支払いでどれだけ支出があるのかまでは知らん。だが、その契約数も、順調では無い」
心配そうな横浜正金に対して、物産は平静な顔で言葉を継ぐ。
「日清の時から伸び悩んでいるのはどこの海上保険も同じだ。東京海上に限った話じゃない」
横浜正金はそれでも残念そうに首を振った。
「生まれてすぐ日清があった他の海上保険会社と違って、東京海上は日清までに積み上げてきた負債がある分、よっぽど悲惨だ。それに他の会社はロンドン支店なんて持ってないんだ。東京海上も、いつ切るか……」
「どうだか……少なくとも、親父の渋沢はここを畳むのを嫌がるだろ。仮にも日本の保険会社で唯一、ロンドンに支店を持っているんだ。世間的に体面が悪い」
「赤字なのに、体面のために無理するなんて……馬鹿だと笑われる」
「あぁ、お前並みの馬鹿だな……」
手を降って茶化す物産に、横浜正金は片頬を釣り上げて、再び拳を握りしめた……松方デフレ期、赤字を粉飾して配当を行っていた横浜正金には、ぐうの音もでない。
しかし、すぐに真面目な顔で横浜正金を見返した。
「落ち着け。少なくとも契約数の伸び悩みは焦るような問題じゃない。成績の伸び悩みも、整理のためにいままで放漫だったロンドン支店の契約をかなり抑えてるからだ。それが終われば、また伸び始める」
物産は平気そうに答える。彼自身、長年経営難にあえいできたのだ。多少の危機くらいでは今更動じない。
「尺取り虫の縮むのは伸びんがため、か……なんとか伸びるまで耐えてほしいが……」
横浜正金はいまだ安心できていない顔つきだが、首を振って身を引いた。物産もソーダ水をあおって、プレート上のマッシュポテトをスプーンで口に運んだ。
「でも……意外だな……」
独り言を言うように呟く横浜正金に、物産が面倒くさそうに顔を上げる。まだ東京海上の経営難への懸念が捨てきれないのだろうか。
「なんだよ……他人がアイツに余計な心配したって、どうにもならないだろ?」
「いや……物産、お前はあんまり人の経営に肩入れするやつじゃないと思ってたけど、落ち目の東京海上のこと、そんなに真面目に擁護するのが意外でさ……」
「……」
いきなり角度の変わった言葉に、物産は頭を抱え、新聞を眺める横浜正金を見た。
「お前の親父さんの弟だって、経営外されちまったんだろ?代わりに来たの、第一の支配人の兄さんじゃん。血縁でも無いのにまだ肩持つのか?」
親父さんの弟──物産の親父、益田孝の弟、益田克徳のことだ。彼は今回の経営難を受けて、数年前に東京海上から引責辞任していた。
その物言いに、物産が思わず横浜正金を睨んだ。
「舐めんな……この俺が血縁如きで一々風見鶏になるわけねぇだろ……東京海上のことを褒めたのは、アイツのことを横で見てきた俺の真っ当な評価だ。俺はアイツの経営が良くなると信じてる!」
熱を込めて語る物産に、横浜正金が驚いて新聞紙から顔を上げる。
「おいおい、流石に……そんな本気で言ってるのかよ?いや俺だって、そりゃアイツの経営が良くなると信じたいけど……」
人付き合いはいいが、他人の興亡にはドライでそっけないのが普段の物産なのだ。その彼が経営難で先行き不安の噂に絶えない東京海上のことをここまで言うのは、非常に意外だった。
「お前が唯一兄さんに似てるところは、他人の経営に無関心なところだけだと──」
いつも通りの冗談を言いかけて、横浜正金は一瞬、固まる。向かいの物産の眉根が酷く険しくなっていた。
「Oops!この手の話は苦手なんだったな……」
手を振って申し訳無さそうに肩をすくめる年下に、年上は顔を引き攣らせて苦笑した。
自分が兄に似てるだと?俺は兄貴とは、三井銀行とは違う──それは三井物産の矜持であり、また同時に最も大きなコンプレックスなのだ。
目の前の気楽そうな、家族の内紛など全く無縁そうな横浜正金に、門外漢の年下如きが知った口を聞くなよとばかり、激昂してやろうかとも思ったが、流石に昼間のパブで暴れるのは豪胆家の物産でも憚られる……。
兄のような、箱入りのおぼっちゃまとは、高慢で理想家気取りなその性格とは、大元方に寵愛され泥に汚れずに済む場所にいる彼とは、自分は違う。自分が三井物産となった後、いつの間にか抱き始めたこの複雑な反抗心は、年を経るにつれて屈折しながらも肥大化し続けていた。
三井物産は──彼の身体は三井国産方だが、心はどこまでも先収会社であった。
三井国産方は明治六年、為替座三井組の府県方に付属する形で生まれた、いわば三井家直系の息子だ。各府県の米殻を取り扱うのが彼の誕生理由であり、昔はいつも忙しい兄、三井御用所の後ろを大人しく健気についていったものだった。
しかし、下野していた元政府高官の井上馨と共に、大阪の岡田組によって、政府御用達商店として立ち上げられた先収会社が、明治八年に組長の岡田平蔵の死と井上馨の復権と共に解散の危機に立つと、井上はこの組織を三井組に引き継がせようとした。そして、それを受け取った三井組は、流通を担っていた三井国産方にこの先収会社を吸収させ他のだ。陸軍の被服、北九州の石炭、政府米の取扱、政府から数多くの独占的な利権を受け取っていた先収会社は、当時多額の借金に負われ、より多くの担保を必要としていた三井組にとっては喉から手が出るほど欲しい利権であったのだ。三井組は、先収会社のリーダーであった益田に指揮を全任し、出資金も責任も全て三井家の人間が負うという破格の待遇で迎えられた。
だが、この待遇によって、三井国産方の人格はすっかり”先収会社”になってしまったのだ。
益田は三井組の旧弊にとらわれる姿をひどく嫌った。三井組の、欧米を知らない、牙のない狗のような活気の無い人材も益田を苛立たせていた。彼は先収会社の人間や欧米への留学や滞在経験のある人材を次々と引き込み、重用し、三井組時代のルールをどんどんと改定していった。三井物産はすっかり益田の王国になり、それはつまり、かつての”先収会社”の姿にそっくりであった。物産の幹部の多くは先収会社や転職のものが多く、三井”組”に対する愛着は殆どない。彼らにとって仕事の目標とは、三井”物産”への奉仕を通じた己の野心の達成であり、それは物産の精神に大きな影響を与えた。溢れ出る闘争心に突き動かされる大風呂敷で無鉄砲な今の物産の性格は、かつての大人しかった国産方の姿など微塵もとどめていない。
三井御用所──明治7年に三井バンクを名乗り、明治9年に晴れて三井”銀行”として政府に認められた、三井国産方がいつもその後ろをついて行っていたはずの兄との関係も、いまや冷え切ってしまっていた。そしてそれは、三井銀行を寵愛する、父親にして三井財閥総帥の三井大元方との関係も同様であった。
益田の経営方法、拡大主義を好むやり方は、物産の経営に悲鳴をあげさせていたのだ。渋沢とともに作った軽工業事業は多くが低迷し、西欧への物産支店の進出も惨劇であった。ロンドンやパリ、リヨンなど西欧諸国につくられた支店の多くは巨額の損失の末に撤退し、生き残っていたのはロンドン支店一つだ。また明治十年代を通じた米殻の大きな価格変動も、米殻の取扱が収支の中で最も大きなウェイトを占めていた物産に大きな打撃を与えていた。多くの危機に見舞われた物産は、官営三池炭鉱の生み出す膨大で良質な石炭によってなんとか支えられていたが、不安定な経営は益田に対する不信感を募らせていた。実際に、益田は一時期三井鉱山──官営三池炭鉱の払い下げを獲得したことによってできた会社へと左遷されたこともあった。とはいえ、物産の社員は心底益田の部下であり、彼もすぐに復権してきたが、三井組、三井財閥における物産の立場の微妙な温度は誰しも感じ取っている。
もっとも、明治24年に三井銀行の指導者としてやってきた中上川彦次郎の存在によって、三井銀行自身も大きく性格を変貌させ、三井財閥内の関係もかなり変動しつつあるのだが……。
物産の、他人の興亡に淡白なところのある性格の由来は、彼自身が数多の苦労を重ねてきた中で、他人に残酷でなければ上にはいけないのだということを体感してきたからだった。
だが、しかしだ。他人の面倒を見なかったのは昔の三井銀行であって、中上川彦次郎を迎えてからの三井銀行が、鐘ヶ淵紡績をはじめ多くの工業系会社の面倒を見つつあることは物産もよく知っているのだ。物産は、中上川の高慢な性格は気に食わないが、彼の経営方針はどちらかというと好ましく思っていた。
兄の変化を思うと、横浜正金の兄に対する呑気な言葉は、輪をかけて、よそ者が知った口でと怒りたくなるところだったが、横浜正金の日本国内の拠点は横浜で、日本橋にいる三井銀行など滅多に会わない。最近の彼の変化を知らないために、昔の兄のことを引き合いに出して言ってきたのだろうことも理解していた。
それに、今の兄の変化は、ある意味で今の東京海上とも重なるところがある。自分が東京海上のことを信頼している理由は、その変化を目の当たりにしたという点もあるのだ。
物産は静かに怒りを抑えて、目の前の年下に自分の意見を言い聞かせる。
「兄貴とは全然違うって?嬉しい言葉だね……だがその兄貴だって変わってきてんだよ」
横浜正金が新聞から顔を上げて物産を見る。
「兄貴が他人の面倒見なかったのは、何よりアイツ自身が誰よりも経営難に陥ってたからだ……でも中上川の奴が来てから変わった。負債を整理して鐘ヶ淵紡績やら王子製紙やらいろんな会社の面倒見るようになった。昔の箱入り息子だった頃から、兄貴は本当に変わった……」
「……え?えぇッ!?あの三井銀行が?人の面倒を?それは……意外だな……」
思わず、驚いたように口をポカンと開ける。
常に他人に一線を引いて接する三井銀行が、他人のために世話を焼く姿など、横浜正金には全く想像できなかった。それも、銀行ではなく他業種の工業系に……。工業はなんでも漕ぎ出すまでに多くの資金と時間を要する業種だ。昔の三井銀行なら絶対に手を出したがらなかっただろう。
「Ah……そうなのか、なんか……すまん」
困惑とバツの悪さから、塩らしくする横浜正金に物産は笑った。
「何いきなりしおれてんだ!怒鳴ったわけでも無いのに」
「いや……なんか……お前がわざわざあの兄さんの肩持つのが……怖いっていうか……わるい、なんか、知ったふうな口聞いて」
物産は額を打った。改めてそう言われると、何となく気に食わない気分が湧いてくる……。
「ていうか、今日のお前どうした!?さっきまで随分偉そうな態度だった癖に!めちゃくちゃ人の肩持つじゃん……」
変なものでも食ったかと言わんばかり、訝しげに眉根を寄せ始めた横浜正金に、項垂れてため息をつく。
「……俺だって、多少はデカくなったんだよ……良いだろ!他人のこと褒めて悪いってんだ!?」
「うわッ嘘だろ!?天下の物産ちゃんが……Wow……こんな大人になるとか……」
冷やかしているのか感嘆しているのか分からない物言いだ。
物産は開いた口をどう締めればいいか、苦悩して頭を掻いた。
「はぁ……まぁとにかく、俺が言いたいのは、だ!横浜正金、これ以上無駄に東京海上のことを心配するな」
頭を掻いている横浜正金に、物産は身を乗り出して、まっすぐに見つめた。
「箱入り息子で落ち目の重体だった兄貴だって生まれ変わったんだ。それなら、今まで箱入り息子で苦労知らずだった東京海上だって、きっと建て直せる」
自分が東京海上のことを信頼しているのは、他人の目には、ただの経営者同士のつながりだろうと思われていることを、物産もよく自覚していた。確かに、発足した当時の頃はそうだった。しかし、今は違う。
「……そうだといいけど。お前の兄貴は腐っても金があるから助かったが……東京海上にそんな体力があるのか?」
横浜正金も、彼の立場のことはある程度知っている。三菱にも第一にも頼り難い立場では、資金を得るのも一筋縄ではいかないだろう。
「あぁ、横浜正金、お前は腐っても銀行だ。資金のことを気にしたがるのは分かる。だがな、事業の成否は資金よりも、人材にかかってると俺は思う」
物産や三井銀行だって、発足当時から素晴らしい人材に溢れていたわけでは無い。東京海上も、発足から十数年を経て、ようやく素晴らしい人材が集まり始めてきたのだ。そして、人が会社に金を貸すのは、会社を信頼すると言うよりも、その人材を信用するからなのだと言うことも、物産は知っていた。
「良い人材があれば、人はその会社に金を貸したくなる。アイツのところに集まってる人材を見るに、まさしく金の心配は要らないメンツだろ」
「……言っちゃ悪いが、渋沢さんが居るからって、そんなに後ろ盾になってくれるわけじゃ無い。あの人はいろんなものに手を出しすぎだ。軽工業の系列を見ろ!赤字の事業がいくらあるか……」
「分かっちゃいねぇな!本店の整理の後のアイツの経営陣を見てみろ!三菱の懐刀の荘田平五郎と、うちの兄貴の落ち目を叩き直してる最中の中上川彦次郎だ!劇薬みたいな経営者の集まりだぜ……それにあいつの人材は経営陣だけじゃない」
そこまで言って、物産はソーダ水を一息に飲むと、言葉を続ける。
「社員だって活きの良いのがいる!この前までいた各務はこの俺が欲しくなるくらいのやつだ!それに新しく来た平生ってやつも、なかなか骨がある。徹夜でぶっ通し勉強し続けて、オマケに英国の保険員の奴らとも胸張って弁論ができる奴らなんだ」
精悍な顔に自信に満ちた声、物産は胸を張って答えた。
「アイツらなら東京海上を建て直せるどころか、この英国の海上保険会社とも戦えるようになる!」