短編集(近代財界擬人化)

満月も沈みゆき……

 
 明治十七年の安田銀行と三井銀行、満月の夜、両国橋の上で出会う。
  


 暗い天蓋ものともせず、赤い提灯は鮮やかに軒先を彩り、電灯の強烈な白い輝きが街路を照らしている。景気の良い大きな満月が空に浮かんでいた。人々はそれを見て、月見酒だなんだと料亭に繰り込んでいく。
 喧騒の街路に、いくつもの人力車が往来していった。向こうでガタガタと車輪のなる音が聞こえる。振り返ると豪勢な作りの馬車が駆けていった。沿道の人々から驚く声が聞こえる。街中で移動用の乗り物といえば大概は人力車であり、馬車に乗れるものなどほんの一握りだ。華族の中でも公爵格くらいなものだろう。あるいは、元勲程の大物の政治家だろうか。
 それを眺めていた安田銀行は嘆息して頭を掻いた。一瞬でも羨ましいと思った自分を心のなかで小突く。こんな心持ちでは駄目だ。主人の安田善次郎であったら、今に追いついてやると胸を反り返していたものを!

 安田銀行は、元治元年に創業した安田屋を前身とする、維新期の新興会社の一人である。元々は銭両替の傍らで食品の小売をする、末端の兼業両替商であったが、彼の主人の安田善次郎の「精力的奪斗」とも言うべき働きぶりで、いまはすっかり東京有数の銀行会社になっていた。規模や店舗網においては到底三井や第一に劣るが、主人の善次郎は明治十五年に設立された日本銀行において、民間代表常勤理事としてそのシステムの確立に大きく関わった。彼はもはや押しも押されぬ金融界の雄の一人であり、その名声は関西にも届き始めている。
 非常に勤勉な野心家で、負けず嫌いの善次郎は、安田銀行にとってこの世の誰よりも偉大な親父だ。他人に気後れをしてしまう度に、もっと気をはらなくてはいけないと痛感する。愛嬌豊かで人当たりの良い性格は親譲りだが、激しい内面の気性までは到底親父に追いつけそうにない。
 
 安田が腕を組みながら歩いていると、あちこちから魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。安田は首を捻った。社交的な安田は夕食を取る時も大抵店員や同業の両替商と飲みに行く事が多い。だが今日は親父も自分も暇だから、一緒に外食しようと約束していたものを、夕方になっていきなり手紙が届き、松方邸──善次郎を日本銀行に呼び入れた大蔵大臣の松方正義に呼び出されて、そちらに飛んでいってしまったのだ。間違いなく、日本銀行か金融政策の相談だ。これはもはや今日中に帰ってこれるかも怪しい……そういう訳で、安田は一人、今日の分の飯はどうしようかと辺りを歩いていたのだった。普段は店で賄を食べるものだが、今日は外食があると断ってしまった……もはや自分の分は無いだろう。
 折角の機会をつぶされた腹いせに、今日は豪勢に牛鍋か、あるいはうなぎにしようか。いや、ただでさえ紙幣償却のデフレて金融逼迫に陥っている昨今、贅沢をするのは憚られる。安田銀行とて全く無事ではなく、できたばかりの日本銀行から二万円ほどの借金をして支店の資金不足を補ったほどだ。それに善次郎はいつも平素の倹約を口うるさく主張している……しかし、今日はその善次郎と食事するはずだった日で、平素では無いし……。
 
 唸りながら安田が歩いていると、いつの間にか日本橋の中心を通り過ぎて両国橋まで来ていた。あなや、ここまで来たら久しぶりに浅草まで足を伸ばして、旨いものを食べようじゃないか……自分の中で腹の虫が頭をもたげてきた。安田は立ち止まって俯き、もう一度深く思案しようと深呼吸する。首を捻って苦し紛れに両国橋を見上げる。
 しばらく橋を見つめていた安田だったが、橋の上のある人影に気がついて、目を細めた。
「三井銀行……?」
 橋の直ぐ側の強烈な電灯の光で、その横顔に影が入りよく見えないが、その背丈と衣服は自分の知る三井銀行に似通っていた。
 安田はつい気になって、橋のほうに近づいていく。その人影はじっと橋の上に立ち尽くし、川の水面を見つめているようだった。幸い周りの人の往来も多く、近づく足音も気づかれそうに無い……。
 
 やがて橋の欄干の装飾まで見えるばかりの所まで来て、あぁやはり、三井銀行だったと確信した。
 三井銀行は、慶応2年に創設された三井御用所を前身としている。幕末維新期、経営不振に陥った三井呉服店や三井両替店を尻目に、彼は御役目である公金取扱で前者二人を支える程の利益をあげた。三井組の総大将たる三井大元方から、三井組最後の命綱として寵愛されてきた彼は、三井両替店を吸収して三井銀行となり、いまや齢十七、八程にして、政府一番の御用商人たる三井組の筆頭格なのである。
 
 大人びた少年の精悍な顔は静かな面持ちで、腕を組みながら川面に映る満月を眺めている。近世商人らしい素朴な色合いながらも、しっかりとした生地の衣服は皺も少なく美しい折り目をつけていた。鬢付け油で緩やかに撫でつけられた艶めく黒髪が、川上からの静かな風に吹かれてやさしく揺れた。
 風とともに、かすかに甘い、花のような香りが漂った。香水か鬢付け油だろうか?自分には香道の嗜みは全く無いが、三井組ならそういう趣味の一つや二つ、当然持ち合わせているのだろう……と、思うやいなや、安田は首を振った。また、卑屈になっている!善次郎も茶道や囲碁に手を出して、一流の名士に引けを取らぬよう、多趣味であろうと努力しているのである。自分もこういうものに理解を示せる男にならねばいけないのだ。
 
 安田はしばらく三井を眺めて思案した。別に声を掛ける用事が有るわけでもない。両替商時代から取引相手として三井の元を訪れることはあったが、相手は手代か三井両替店ばかりで、三井銀行の姿は殆ど見たことがない。新旧公債払い戻し抽選会で同席した時も、彼とは挨拶だけでほとんど会話しなかった。彼の主人の一人である三野村利助は、善次郎と同じく日本銀行の理事に列席していたが、あまり日本銀行の経営に熱心というわけでも無かったから、経営方針や関連法の設計に熱中していた善次郎とはあまり馬があわなかったのか、親しくなった話は聞かない。
 だが、彼の弟の三井物産とは明治十二年の頃から融資するようになり、主人同士茶道の趣味が通じて結構親しくやっている。
 全く無関係という仲でもないし、どうせ今夜は暇なのだ。駄目で元々、夕飯に誘ってみようか。しかし第一声には何と言うべきかな……。

 しばし考えたが、面倒くさくなった安田は威勢よく咳払いをした。
 三井が驚いたように顔を上げて振り向く。安田は頭を掻いて笑いかけた。
「いやぁ、こんばんわ!」
 呆然としてこちらを見ている三井に、安田は慌てて言葉を継いだ。
「えぇっと……わ、私のこと分かりますか?もしかして、知らない人に声かけられたとか思ってます?」
 三井は我に返ったように、あぁ、と合点の声を上げた。顔を引きつらせる安田に、手を振って微笑む。
「はは、流石に……日銀に深く関わられた”御仁”の店だ。東京のものなら安田君の顔くらい知っていて当然だね」
 安田はそれを聞いて胸をなでおろし、気を取り直して三井の横に並んだ。
「橋の上で月見ですか。それとも誰かと待ち合わせでも?」
「いやはや……お恥ずかしいな」
 三井は苦笑して再び肩をすくめた。橋の欄干に両手をついて満月を眺める。
「今晩は用事も無くて暇なんだ。だから息抜きにこの満月で詩歌でもしようと思って、つい眺めてしまっていたよ」
 うぅんと安田は舌を巻いた。理由は「詩歌」!流石は一流名士である。自分の想像を飛び抜けていた……。
「はぁ、これは……流石ですね!よもや趣味の真っ最中だったとは。お声がけで邪魔してしまって申し訳ありません」
 安田の言葉に三井は黙って首を振った。気にするなということだろうか。
 三井は安田を見上げるように振り返った。安田は三井よりも四歳程上だ。もはや青年たる風貌の安田と、いまだ少年の三井では背丈も幾らか離れている。加えて安田は体格の良い男であったから、やや痩身の三井と比べるとかなり大きく見えた。
 
 しかしそんな年齢や体格差など全く気にしていない様子で、三井は安田に微笑みかける。
「安田君は、詩歌、しないのかい」
 もったいぶった聞き方だが、堂々としたその態度が様になっている。安田は困ったように首を掻いた。
「いえ……残念ながら、自分が好きなのは、歌は歌でも、謡曲の方ですから」
 主人の善次郎は奉公時代から謡曲の名手で、昔からいつも店員や家族に謡曲をするよう強く勧めていた。彼にとっては第一の趣味であり、安田銀行にとっても最も思い入れのある趣味だ。
「吟誦は?」
「いやぁ、漢詩を読むのは嫌いじゃありませんが、やはり自分で作るよりも、書く方が好きですよ」
 書道もまた、善次郎譲りの特技である。善次郎は子供時代から能書家なのだ。いつでも手が空けば何かを書くことはもはや彼の習性であり、帳簿でも趣味の記録でも、彼は常に自分の手で詳細に記録する癖があった。
 三井は眉根を下げて嘆息する。
「あぁ、それはもったいない!それじゃあ君は、字は書けるし謡もするのに、それら二つを結びつける詩歌ができないだなんて!非常にもったいないよ」
 首を振りながら欄干から身を起こすと、顎に手をおいて唸りはじめた。眼前の川を見つめながら静かに問いかける。
「そういえば、安田君も今晩は暇なのかな。わざわざ私に声をかけるだなんて」
「えぇ、そのとおりですよ。実は──」
 安田は夕飯の誘いを切り出そうとしたが、それよりも早くに、三井が嬉しそうに安田の顔を見て、川面の満月に手を向ける。
「それなら、ちょっとあの月で詩歌してみないか。ものは試しだよ!」
 安田は驚いて言葉に詰まらせてしまった。
「はは……そう、気構えないでくれ!歌を作るのに完璧である必要は無い。美術は表現をするのが一番であって、技巧など二の次だ」
 楽しそうに話す三井に安田は困惑の顔で立ち尽くす他無い。
 安田にとって三井組と言えば厳格な官僚主義的家風の牙城であって、その棟梁格の三井銀行が一介の商人の自分相手にこうも明るく応じてくれるのは意外に思えた。
「い、いやぁ、そうは言いましても……何から手をつければいいか……」
 しかし、こんな唐突な無茶ぶりに応えろというのは中々酷だ……と思ったのを飲み込み、安田は胸を叩いて己を奮い立たせる。
 いや、これが親父なら、きっとすぐにでも捻り出して見せるはずだ!
 安田は腕を組んで動揺する頭を回転させようと唸る。三井は乗り気になってくれた安田を見て嬉しそうに頷くと、懇切丁寧に詩歌の手順を語り始めた。
「最初から三十一文字をなぞるべきでは無い。まずは自分の中で何を最も表現したいかを選ぶんだ。強調するものを考えたら次にそれをどんな言葉にするかを考えるのだが──」
 安田はその説明を聞きながらなんとか理解しようと相槌を打つ。しかし満月で何を表現したいかと言われても……“月並みの”表現くらいしかできないような……。
 三井はそんな安田の内面を知ってか知らずか、詩歌の熱弁を続ける。
 「言葉を選ぶ時に、出来を気にする必要は無い!いや、詩歌において、芸術において、最も大切なことは自分だけの思考や経験を表現することにある。本来、表現の巧拙というものは上辺だけの事象に過ぎないんだ。出来や技術を気にするなんてことは、芸術の本質では無い!そういうものは芸術を“他人に売る”者がすることであって、我々個人の芸術というものはもっと純粋に──」
 熱を込めて手振り身振り弁舌を振るう三井を見て、安田は驚きを深くした。三井銀行は、ここまで饒舌だったのかとも、ここまで物事に熱くなれる男だったのかとも、思った。日本一の規模を誇る銀行でありながら、自分や第一銀行のように他の国立銀行の世話をせず、民間の預金も滅多に受け付けず、冷徹で高慢な男ようにも思えた三井銀行の、人間味のこもった一面を初めて見ている……。

 安田が茫然としているうちに、三井の演説も終わったらしい、調子を整えるように咳払いをすると、腕を組んで安田を見た。
「それで、どうかな、何か表現したいものくらいは浮かんだかね」
「うん、そうですね……」
 さっき三井銀行は、詩歌において大切なことは自分だけの思考や経験だとか言っていた……であれば、自分の表現するべきものは……。
 安田は急に自分の頭で機転が回り始めたのを感じ取った。一度頭が冴え始めると一気に和歌の姿が見えてくる。
 安田は川面を眺めていたが、しばらくして三井の方を振り返った。その顔は父親譲りの自信に満ちている。
「徒然に、行く道もまた月知る辺、さるまじき人の面照らしたる……うん、どうでしょうか」
「おぉ……!」
 三井は感嘆の声を上げると、満面の笑みで大きく頷いてうなった。
「実に素晴らしいじゃないか!驚いたね。流石は安田君だ。とても初めてとは思えないよ!」
 褒められるのは嬉しいが、そうも真っ直ぐに来られると、安田としてもくすぐったく思えてくる。頭を掻いてはにかんだ。
「あ、ありがとうございます。そんなにお気に召して貰えたとは」
「月知る辺というのが実に良い。君の言う通り、人の出会いというのは、御仏の導きのように偶然だね。それに……君の歌には“満”月という言葉は無いが、面照らすという言い方によって光が強調されているから、それを補っているのかな。こういう表現、私は好きだ」
 その上、真面目に論評までしはじめた……安田の気恥しさも極まってくる。
「そ、そんなに言ってくれますか。和歌といえば季語でしょう、自分は全くそういうものが分からず入れ忘れてしまったんですが──」
「ははは!言ったじゃないか。別にそんな技巧の事なんて気にする必要は無いんだよ。大切なのは表現することにあるのだから。君が言った歌のように──人が出会うのは偶然なんだ。季節なんてそんなもの関係ないだろう?」
 安田の心配に三井は一笑して答える。今度は安田が感嘆した。こうも堂々と振る舞われると、一体どちらが歳上なのか分からなくなってしまう。
「はぁ、三井さんは本当に、随分詩歌がお好きなんですね……」
「うん、詩歌は良い、実に良い趣味だよ。道具や場所を必要としないし、まとまった時間も必要としない。“徒然なる”時に何時でもできるのが素晴らしいんだ」
「それも、やっぱりお家の影響なんですか?」
 その言葉を言うやいなや、三井の顔が途端に一瞬険しくなったような気がした。だが、直ぐに平素の涼やかな顔に戻って答える。
「うん。まぁ、そうだね。もっとも私の家系は、大概茶道の方が好きなんだがね」
「あぁ茶道ですか!それは憧れる……私の主人の善次郎も茶道に凝り始めたばかりですから、色々と教わりたいものです!」
「はは……残念ながら、私はあまり興味が無いからね。弟の物産に任せっぱなしだよ……」
 三井は目を輝かせる安田から目線をそらし、再び欄干に手をついて川面の月を眺めた。
 いきなり、塩らしくなったように静まる三井に安田は面食らった。何か彼に水を差すようなことを言ってしまったのだろうか。しかし、一体何が……。安田は困惑して二の句が継げず黙ってしまう。三井も黙って視線を遠くに落としたままだ。
 
 橋の上には多くの人々が往来していた。夕食の在処を求めて人々は賑やかに会話しながら去っていく。しかし、二人の耳にはごうごうと川の流れる音が強く耳に残った。隅田川の黒い水面は波間に電灯の強烈な光を白片のようにを漂わせている。
 白く、気持ちのいいくらい晴れやかな満月が、静かに揺れていた。

 ぼんやりと2人で川面を眺めていた時、三井銀行がふと口を開いた。
「安田君は……満月が好きかな」
 安田は驚いたように三井を振り返ったが、彼の目線は変わらず下を向いている。
「はぁ、そうですねぇ。それはこんなに景気の良いものなんですからね。あやかりたい位ですよ」
「そうか……うん……」
 沈鬱な返事は、まるで不景気だ。
「三井さんは、好きじゃありませんか」
 わずかに目線をこちらにやる。三井は口を開いて何かを言おうとしたようだったが、嘆息して首を振った。
「私は……」
 三井は夜空を見つめた。
 涼やかな川の上を、山風が駆け下りてくる。
「私も、あぁ好きだとも、好きだが……見ていると、なんだか辛くなる」
「辛くなる?」
 その問いかけに、三井は安田をしばし見つめた。
「……山は頂上まで昇ったら、下らなくてはいけない。満月も同じく。彼も明日からは欠けていく。それが惨めで堪らない……そう思うよ」
「はぁ……」
 安田はなんと答えるべきかわからず、生返事をする。これが店員相手なら、随分神経質な考え方だと、一笑したくなってしまうところだが、相手が三井銀行だから如何ともしがたい。
「少なくとも私なら耐えられない!」
 三井が強く念を込めるように言い放った。安田は思わず三井の顔をまじまじと見る。
 父親譲りの精悍な顔の眉間がわずかに力み、睨みつけるように満月を見ていた。それはまさしく厳格な三井組の男によく似合う凄みがあったが、その影には哀愁の方が勝っていた。
「私が満月なら、このまま……せめて流星群か彗星になって有終を得たい。遅々として衰退を座して待つほど苦痛を感じることはない」
 沈黙が、二人の間に降りている。
「破滅は一瞬である方が、ずっと楽で美しい……」
 安田は苦虫を噛み潰したような顔で、黙ったまま首を捻った。
 正直言って、辟易するような考え方だと思った。どうしてそんなにも破滅的に考えるのか?確かに今の時勢は不景気だ。松方財政の影響で、多くの銀行が政府の為替方の役目を没収され、苦境に陥ったものの、三井銀行は府県の為替方をも担っているだろう。そこまで破滅的状況ではないと思うのだが……。
 
「岩崎は」
 不意に意外な人物の名が三井の口から漏れた。
「哀れだ」
 見ると、三井の視線の先には、赤い提灯を下げた屋形舟が浮かんでいた。川の水音の向こうから歌声が聞こえてくる。
「彼の体調は芳しくないらしい。しかし、もしここで彼が亡くなったら、三菱商会は本当の落ち目だね……」
「それは……」
「同情するよ……商売敵であっても、哀れなものは、耐え難い」
 あぁ、と安田は腑に落ちた。要するに……今日の彼の沈痛ぶりは、岩崎に、というよりも三菱商会に同情しているのだ。

 三菱商会は土佐藩の商会を乗っ取った岩崎弥太郎によって率いられてきた。土佐藩の地下浪人だった岩崎は、その才と精力的野心によって後藤象二郎に取り入り、経済の要地たる大阪にあった土佐藩の藩営商会に赴任した。明治維新によって藩営商会が禁止されると、その商会は私企業に移行し、九十九商会を名乗る。しかし廃藩置県によって藩から自由の身になった岩崎は、その商会の手綱を握りしめ、航路や藩船を自らの手中に納めて敏腕をふるいはじめたのだ。明治六年から三菱商会と改名し、正真正銘、岩崎の独裁商売へと移行すると、西南戦争で大蔵大臣であった大隈重信らから巨額の援助を得て飛躍的に成長したのを皮切りに、彼は日本一の海運会社に成り上がった。その姿は新興商人の筆頭格で、当代一の昇り鯉であった。
 しかし、急激な膨張は荒波を生む。莫大な数の船と多くの航路を握る三菱商会は中小の船会社を圧迫し、特に土佐藩の船商人らは激しく三菱を憎悪した。他の商人も西南戦争で勝馬に乗り、たった一人巨大な船会社に成長して市場を破壊する彼を快くは思わない。その上三菱商会にとって運が悪かったのは、取り入った相手が大隈であったことだった。明治十四年、伊藤博文ら長州閥との政治思想の対立を決定的にした大隈は政府から追放され、それは三菱にとって政治的、資金的後ろ盾を失くしたことを意味した。伊藤の盟友の井上馨が率いる三井組や渋沢栄一といった政商らは、半官半民会社である共同運輸を立ち上げ、それまで三菱が得てきたはずの政治的、資金的援助を受けて三菱の航路に食い込んだ。彼らの競争は泥沼の運賃競争にもつれ込み、お互いに巨額の損失を上げながら、どちらが先に死ぬかを待っている情況にあった。だが、政府の後ろ盾を持つ共同運輸に勝てる見込みなどあるだろうか?かつて中小の船会社の受けてきた不条理な苦しみを、今度は三菱商会自身が味わっている……。

 一方で、三井もまた苦境に立っていた。
 幕末期、三井の商売は数々の災害や乱による火災被害、新興商人たちの勃興、そして何より幕府の財政難のしわ寄せによって、窮地に追い込まれた。幕府の公金の取り扱いはかつての三井組にとっては素晴らしき福音であったが、幕府が落ち目になれば、それはいつ返却を迫られるのかわからない巨大な負債となったのだ。三井家筆頭格の三男にして家長の三井大元方は、これになんとか対処するため、取引先であった両替店の店主をしていたある男に協力を頼んだ。見事に幕府の公金取り扱い問題に働きを成した男は、三井家別宅の養子として「三野村利左衛門」を名乗り、幕府や新政府の公金を取り扱う三井御用所を支えた。彼こそは、三井御用所──三井銀行にとって、最も敬愛する師父であった。ずっと大元方や二人の伯父達に抑圧されてきた三井御用所にとって、三井の”余所者”でありながら大鉈を振るう三野村は、いつだって強い憧れと安心を覚えた。彼についていきさえすれば、きっと何でも、うまくいくと思っていた。
 しかし、その三野村も、三井御用所が三井銀行となった矢先に、病死してしまった。悲しみにも形容できない絶望が三井銀行の胸を打った。そして、彼の伯父たちや三井家の同苗はここぞとばかりに、三野村に奪われた自身の権利を奪い返そうと息巻き、虎視眈々と狙っている。それは沈みゆく船の中で、誰もが船首に登ろうと、もがいている様に似ていた。

 三野村利左衛門の偉大さはまさしく、三井における岩崎弥太郎だっただろう。利左衛門の養子の三野村利助も、右腕の西邑虎四郎も、安田から見れば先代と比するに月とスッポンの差があった。主人の善次郎が三井組を”頼りない”と思っている節が有るのは、そういった人材の欠如にあるであろうことは、安田銀行もそれとなく理解していた。もはや先代がの持っていた苛烈さや大胆さは失われ、三井組の姿は迷走し旧型の商人の姿に立ち戻りつつある──そしてその道が、小野組や島田組や、墜落していった本両替らと同じ場所に行き着くことは想像に容易い……。
 
 安田は三井から目をそらし、地面に視線を落とした。彼は停滞や挫折というものを経験したこともないので、三井の沈痛ぶりはよくわからない。いや、痛ましい問題であることは理解できるが、他人の問題に、それも商売敵の落ち目にあって、そこまで悲痛な反応をしているということが、少しばかり理解しがたかった。
 なんと応えるべきか迷いあぐねて、嘆息する。
 沈鬱な話ばかりをしてもしょうがない。
「三井銀行さんは、三菱商会と話たことがおありですか」
「いや……彼の主人を見たことはあるがね。私は彼に貸付をしていないから、よく知らない……」
「そうでしたか。それでは、私のほうが三菱商会について詳しそうですね。奇遇にも、貴方の弟さんの三井物産と取引を初めた明治十二年の正月、彼と商売をするようになった」
 三井は驚いたように顔を上げた。
「それは……初めて聞いた話だ。いや、彼もどこかの金融機関に繋がりを持っているだろうと思っていたが……君だったとは」
「無論、私一人ということではないでしょうがね。結構親しくやっているつもりですよ。彼のために不動産を用意したこともありました」
「……皮肉というべきかな。共同運輸の益田率いる三井物産にも貸付をしている君が、三菱にもね……金貸しらしい話だが」
 それは確かにそのとおりだ。安田は苦笑する。
「超然主義というやつです。私は金を貸すにたる経営をしている会社に貸付をする……」
 三井は安田の顔を伺うように首をかしげた。訝しむような目で見つめる。
「金を貸すにたる?今の三菱商会は、君にとって──」
 安田は一笑した。
「いやぁ、本当に。本当に参った話ですよ。しかし今彼を見捨てるのは男としての名折れだ。落ち目とはいえ、彼はきちんと契約を守っていますからね。なんとかなるのを祈る他ありません」
 三井は少し考えていたが、やがて微笑みながら頷いた。
「うん……そうか。君も中々、肝の座った男だ」
 しばしの沈黙のうち、三井は少し気恥ずかしそうに、安田に質問した。
「……三菱商会は、君から見てどういう男なのかな。私は……なんというか、物産の毒舌でしか、彼のことを知らないから」
「ははは!まぁ、物産君は……気性の激しい子ですからね!毒づいていそうです」
 安田は天下の三井組育ちとは思えないほど、ぶっきらぼうで無鉄砲な物産のことを思い出して苦笑する。
 彼の奉公人はとにかく気性が荒い。喧嘩をすれば相手が上司でも拳を飛ばし、三菱商会が有利であった上海市場に殴り込み、とにかく恐れ知らずで前向きなのだ。しかし、豪胆さで言えば、三菱商事はさらに上を行く。
「三菱商事は第一に、とんでもなく明るいと言いますか、もはや脳天気に思えるくらい豪胆な挑戦家ですよ。彼の主人の岩崎がひどく気難しい男であることはご存知でしょうが、反面彼は根から社交的です」
「そうか……ふふ、なんだか我が家の物産と似たりよったりだな。……貿易商は皆そういう風になるものなのかな」
 三井は微笑んで宙を見る。その顔は無茶な弟を見守る年上のようで、少年の彼も、確かに一人の年長者であると感じさせた。
「無論、私は岩崎のことも好きです。彼の野心もあの行動力も、私の主人にそっくりだ。そういう意味では……貴方の言う通り、彼に同情します」
「……」
 神妙な顔でその言葉を聞くと、三井は再び満月に憐情たる目線を向けた。
 自分の主人を思い出す──それは三井銀行にとっても同じだった。三野村利左衛門は、岩崎や安田のような溢れる闘争心で突き進む非常な野心家ではなかったが、その勇気、果断さと統率力は決して引けをとらないものだった。
 だからこそ、そうした偉大な指導者を亡くす辛さに、同情せずにはいられない。人が築き上げたものを受け継ぐのもまた、人であって、それ以外のものに代わりは得られない。経営の規模に、その形式に、適する人間がいなくなれば、築かれた牙城もやがて倒壊しだす……。
 
 安田は、再び黙ってしまった三井を前に頭を掻いた。さて本当に、どうしたものか!
 彼の感傷に構う必要は無いのだろうが、放っておくのは忍びない。商売規模では到底及ばないが、それでも彼は、やはり年下なのだ。どうにか元気づけてやりたいという気持ちが湧いてくる。安田銀行は、どうも年下や目下の世話を焼きたがる一面を、これもまた、主人の善次郎から譲り受けていた。
 しかし自分もまだまだ若くて未熟だ。落ちこんでいる相手にそこまで気の利いた言葉がでてくる気もしない。
 ええい、ままよ!ものは試しだろう。安田は意を決して三井に話しかけた。
「三井さんはさっき……ご自身が満月だったら、とおっしゃっていましたが」
「……」
 俯く顔の目線だけがこちらに向けられる。
「私からすれば、月に重ねるだなんてもったいない話だ。私だったら月如きの地位では役不足ですよ」
 安田はわざとらしく肩を竦めた。そして自身げに胸を叩く。
「私は太陽を戴く男ですから!」
 屈託のないその自信気な笑顔は、人好きのする温かさに満ちていた。彼の目には、頭上の街頭の白い閃光にも劣らない輝きが宿り、それは確かに、まさしく太陽のようであった。
 安田は手を広げて、雄大に語りだす。謡曲で養われた、通りの良い、腹から一本に繰り出される明朗な声!
「商売人たるもの、見上げる先は一番上でなければ!それに、太陽こそはこの星空の中で最も輝かしい。私もああいう風になりたいものです……まぁ、私からすれば、三井銀行さんも充分太陽ですがね!」
 そう言うと、安田は頭を掻いて三井に笑いかけた。三井は思わず苦笑する。彼の主人の善次郎はとにかく不思議な愛敬の持ち主だと聞いていたが、息子の安田銀行の愛敬も尋常ではない。
「確かに、君には、太陽の方が似合う」
 三井にとっては、羨ましくなるほど明るい男だ。きっと彼にとっては、自身の生業たる銀行業も楽しくて、あるいは好きでたまらないのではないか。だからこそ、そこまで自分に自信が持てるのだ。
「地方の国立銀行が君に泣きつきたくなるのもよく分かるよ。君を見てると……気分が良くなる。例えるに新緑の太陽というところだね」
 三井が川面に目線をやると、屋形船の数はさらに増えていた。赤や白の提灯が星々のように川面に反射し、賑やかな宴が川中に広がっていた。世は不景気だが、結局の人々の憂さ晴らしが減るわけではない。鮮やかな景色に感嘆する。
 安田は咳払いをした。
「そういえば!三井さんは今晩暇なんでしょう。どうでしょう、一緒にどこか食べに行きませんか。折角ですから浅草にでも」
 その誘いに三井は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んで頷いた。
「はは、驚いたな……あぁ、構わない。私は一緒に食べる友人もいないからね……ありがたいよ」
「そうですか?第一君辺りはご友人じゃありませんか」
 その名前に、三井は返答しあぐねて、思わず苦笑した。

 第一国立銀行は、かつて、三野村利左衛門が三井組単独で銀行を設立しようとしたものを、政府の強い圧力を受け、小野組と共同出資の形で明治五年に作られた日本初の銀行である。とはいえ、初めてできたばかりの銀行を利用する客は、政府と出資した三井・小野組ばかりであった。小野組が明治七年に破綻すると、三井組はかねてよりねらっていた第一の三井組への吸収を画策するが、政府側からの監督役として君臨していた渋沢によってむしろ追い出される形となり、以降三井は第一に金を貸して入るが口は出せないという非常に緊迫した関係が続いている。だが、これは第一や渋沢達にとっての方が深刻な問題であった。もし、筆頭株主の三井組が第一のことを諦めてその出資金を引き上げはじめたら、第一の経営は一気に苦しくなるのだから。
 もっとも、これによって三井組と第一銀行が冷え切った仲の二組かというと、それもまた絶妙である……上海への資本進出は第一と三井物産が共同で行ったし、政府からの資金要請も第一と三井の両行が足並みを揃えることは多々あった。ようするに……お互い気に食わないが、時勢のために同舟しており、そしてなお、お互いを警戒して真に仲を縮めることはできない二人なのだ。
 一方で、社交家の安田は第一と取引はしていないものの、彼に一種の親しみを持っていた。第一の師父である渋沢が設けた紙幣局における簿記伝習所で、安田も善次郎とともに「銀行家としては」先輩の彼に西洋式の複式簿記を教わったのだ。安田は第一の、若くして自信家で、非常な勉強家であるところが、善次郎に似ていて好きだった。だが、シニカルな現実主義者の善次郎と違って、理論に傾倒する学者肌なところと、儒教に強い影響を受けた渋沢譲りの夢想家ともいうべき理想主義ぶりは、商人として心配になる点ではあった。
 
「第一君はね……うん……何と言うべきかな。いわゆる劉備と孫権の仲と言ったところだから」
「それじゃあ曹操が岩崎ですか」
 その言葉に三井がいたずらっぽく笑う。
「うん?そこは”太陽を戴く”自分の名前を挙げなくて良いのか?安田君はやっぱり謙虚だね……」
 安田はしまったとばかり、額を打った。しかし、すぐに不敵に笑って居直る。
「曹操では滅ぼされてしまいますから、いけません」
 三井は肩を揺らして笑った。
「それもそうか!君は話が上手い……」
「父親譲りですよ。なにせ親父は幼年期からの振売ですから」
「良い父親だね」
 三井は真面目な顔で深く頷いた。安田はその反応に少し驚く。生まれてこの方天下の商人の一家に生きる三井にとっては、路端の振売商など、てっきり笑われるかと思っていたくらいだったのだが。
「善次郎社長が、君のことを深く愛しているのはよく分かるよ。あの働きぶりも、ただ単に野心があるだけではなくて、本当に商売をするのが好きだからなのだろう……素晴らしい父親だ。憧れるよ」
「……」
 穏やかで温かな言葉であったが、三井の顔はどこか寂しそうに見えた。
「私も、そういう気持ちで商売がしたい」
 そして、目線を落とし、力なく笑った。
 安田は感嘆する。三井は……。自分はずっと、彼のことを高慢な男だと思っていたが、案外もっと親しげで、誠実な男なのだと感じつつあった。
 人間は苦悩や挫折の度に成長するのだとすれば、彼が大人びて見えるのは、安田が思っているよりもずっと多くの苦労を経験しているからなのだろうか。
 
「三井さん……」
 安田には、彼の苦悩は分からない。
 三井の鳶色に透き通る目が安田の顔を見る。声をかけたばかりの時は、堂々としていて、どこか触れるのにも躊躇うような気高い印象をうけていたが、今ではすっかり、年相応の幼さもよく見えてきた。
「先ほど貴方は、自分が満月であれば破裂したいくらいだとおっしゃっていましたが」
 安田は三井に同情を感じつつあった。彼の細身の肩は到底、百貫通しの四文銭をたらふく詰めた雲齋地の財布を背負ってきたようには思えない。山積みの百両箱の重みに軋む大八車を曳いた事はあるだろうか?
 安田銀行にとってはどれも懐かしい話である。
 自分が元治元年に生まれて安田屋であったときから、善次郎と共に朝日が登るよりも早く起きて、その凄まじく重い大八車を押して歩いてきた。安田の頑丈な体もそうした労働によって培われてきたものだ。だが不思議なことに、自分も善次郎も大八車を曳くのは全く嫌でなかった。それは骨が折れるような重労働だったが、店について今日の成果をみるたびに、胸を張りたくなるくらいの達成感を感じて、それが明日のやる気になっていたのだ。
 商売をする喜び!そういうものが、三井にとっては欠如しているのかもしれない。あるいは、失くしてしまったのか。もっとも、もはやその事業が巨大で複雑になりすぎた三井銀行にとって、それを取り戻すのは難しいことだった。その上、彼が今まで最大の敬愛を寄せてきた指導者も、もういない。働きがいや、生きがいのような寄り辺の欠落が……今の三井銀行の心に、大きな空洞を、歪な構造を生み出していた。
 
「自分が思うに……」
 深呼吸をすると、涼やかな夜の空気が体をめぐる。息を吐くうちに、ゆっくりと心持ちが晴れていく。自分には、彼のことを理解することはできないかもしれない……だが、自分なりに、彼のことを応援したい気持ちだけは伝えてやりたかった。
「本当に、勿体ないですよ。破裂してしまっては、もう二度と現れることもできませんが、沈んで欠けたくらいなら、きっとまた登ってこれる。たとえ幾らの月日がかかるとしても、またもう一度満月になれる希望は残っています」
 三井は黙って安田を見つめていた。
 苦しそうに目を細め、その瞳が宙を泳ぐと、瞼を伏せた。嘆息して首をふる。安田は熱を込めて言葉を継いだ。
「貴方のお父上も、そうだったでしょう?幕末の時からずっと経営難で苦しんできた。それでもあの三野村翁が来てから見違えるように変わったでしょう。他の伝統的な御用商人たちが墜落してきた中で、貴方がた三井組が生き残ったのは偶然ではなく、彼と出会って──」
「だが三野村はもう死んだんだ!」
 悲痛な声が、絞り出すような声で三井は叫んだ。彼は欄干に肘を置き手で顔を覆った。安田は思わず三井の肩を掴んだ。
「貴方は生きてる!」
 三井が苦しそうに安田を見る。安田の瞳には、川面に映る白い輝きが反射していた。一瞬の沈黙に、お互いの鼓動がかすかに聞こえてくるような気分になる。
「生きていれば……いつかまた、新しい希望に出会えるかも」
「……」
「貴方が三野村翁に出会えたように」
 三井の顔がわずかに上がる。
「天下一の商人だ!きっとまた素晴らしい人間に出会える!」
 安田は三井の肩を握って、力強く訴えた。
 三井は一瞬下を向くと、首を振って力なく笑った。
「……ふふ、ふ、うん、うん……あぁ」
 なんとか体を起こし、前を向いて安田に答える。
「そうだと、いいが……」
 その声は、今にも泣きそうな程に歪んでいた。

 あちこちから上がる歌声や喧騒に、鮮やかなる提灯の行列、豪奢な車の往来は、不景気だろうと明るく楽しげに振る舞う人々の営みが四方に広がるように、この日本橋を覆っていた。
 三井銀行も、本当はその様子に加わりたかった。苦しいこの胸の内を、どこかに吐き出せる場所があるのであれば、どれほど良かっただろうか?だが結局のところ、彼はどこまでも孤独であった。天下の大銀行として、誰かに頼るということは、自分自身の矜持が許せない。そうでなくとも、他人に借りをつくるようなものは三井組の名折れだ。
 いや……それはあっているが、違う。ただでさえ既に官僚共に多大な債務を背負って、彼らの無理強いに耐えているのに、これ以上何かを抱えるのは、もう耐えきれなかったのだ。
 どこでも、そう家にですらも、安寧の場所は無かった。政府の無理強いと、三井大元方の莫大かつ性急な命がけの期待と、その大元方に抑圧されてきた呉服店や同苗たちの憎しみと……。
 だからこそ、三井銀行には詩歌で一人自らを慰めることしかできなかった。自分の苦悩もまた歌を彩る一部だと思いこみ現実から逃避する時、ずっと気分が楽になった。誰に読ませる訳でも無い歌の上では、この苦悩を好きなだけ吐き出せたし、言葉を考えている間だけは眼の前の苦悩をいくらか忘れることができた。
 しかし今、この眼の前の安田銀行に迫られて、自分の中の矛盾が、孤高でなくてはいけない、孤独で構わないという意識と、誰かに頼りたくてたまらないこの感情が、思い切りせめぎ合って、沸騰するように吹き出てしまっている……。

 安田の言う通りではあるのだ。満月だって、たとえ明日から欠けるとしても、長い日々の先に再びその輝きを取り戻す。それは三井も頭ではよく理解していた。
 だが未だ若くして多くの苦悩を抱える三井にとっては、その長い日々を耐えなくてはいけないというのが、ひどく、辛かった。

参考文献