年上として
八幡と二瀬の戸畑に対する話。キャラクター解釈に依った小説であまり史実の話は無い。でも、こういう温度感の話が好きなの🥺
「だあ〜ッ二瀬のわからず屋ッ!」
早朝の青い光が差し込む廊下に、子どもらしい高い叫び声が反響した。
八幡が長官舎の階段を上っていると、事務室から脱兎のごとく駆け出してきた戸畑と落ち合う。
「あぁ八幡──」
「私から逃げるために、八幡へ泣きつくんですか?玉座をもってなんとやらだ」
目を輝かせて八幡に寄ってきた戸畑に、二瀬の冷徹な声が突き刺さる。
見上げると、階段の縁から二瀬が顔を出していた。戸畑は口を尖らせて二瀬を睨む。何か言い返そうと口をモゴモゴさせたが、観念したらしい。涙目で八幡の方を振り返った。
「信じられません!今の聞きましたか?本当に、二瀬は僕に冷たいんです!」
階上の二瀬はその言葉に眉根をひそませたが、黙っている。
八幡は困惑しながらも優しく戸畑に話しかけた。
「……戸畑。二瀬と喧嘩したんですか?だとすれば、理由を教えてほしいですね」
東洋製鉄戸畑製鉄所──八幡のすぐ隣で建設されたその製鉄所は、経営難により建設からたった二年で八幡に経営が移管されていた。最も、移管されたのは経営だけであって、負債や資産は未だ東洋製鉄のものである。豪快すぎてどこか無鉄砲ともいえる父親、東洋製鉄譲りの性格をしている戸畑は、いわば八幡に居候の身になっても全く構う様子もなく、いつも元気に暴れまわっている。そしてそれを諌めるのが官営二瀬炭鉱であった。彼は官営八幡製鉄所の弟に当たり、筑豊の4炭鉱を統括し八幡で使用する石炭の大部分を担う、燃料供給源である。同じ八幡の年下の、先輩分として無鉄砲な戸畑を静止しようとするが、人の話が聞けたら無鉄砲な性格にはならない……つまり、大概において戸畑は二瀬の話を聞かないのだった。
戸畑は泣きつくように答えた。
「港に欲しい本があったから、お小遣いをくださいって言ったんです!そしたらこの人、いきなり駄目だって!」
八幡が二瀬に目線をやる。二瀬は少し呆れながらも自身の意見を表明した。
「戸畑、何度も言いますが、貴方はいい加減に、ご自身が買った大量の本を読んでから新しいものを買うべきだ」
珍しく少し強い口調で言い切った。八幡は頭を抱える。
彼の経営者よろしく、大風呂敷な性格の戸畑は、衝動買いの達人だ。彼の部屋の本棚には縦横無尽に本がつめこまれ、いつか破裂するのではないかとヒヤヒヤする見た目になっていることを、八幡も二瀬も知っている。しかしその本のうち、戸畑が真面目に最後まで読んだ本が、一体何冊あるのか怪しいこともまた、よく知っている。
「酷いですよ!本を読み終えるまで待っていたら売り切れちゃうのに!」
「全部読めとは言ってないでしょう?頼みますから、少しくらい例の本棚を消費してから、新しい本に手を出すべきだと言っているんです!」
再び二瀬へ言い返そうと意気込む戸畑を、八幡が手で静止する。
「あぁ、僕は正直……二瀬に賛成ですね。本を読んで、知識をつけてから新しい本を選んだほうがもっと良い本に出会えると思います」
言い聞かせるように話した言葉だが、戸畑にとっては余計なものだったらしい。うげーっとでも言うような声が漏れ出てくる顔をしている……。
「戸畑、貴方の主張の負けです。もう今日は読書をして過ごしなさい」
二瀬がキッパリと言い放つと、戸畑はおもいきり頬を膨らませて、階段を駆け下りていった。
これはおそらく……大人しく読書をするようなことは無いだろう……。八幡は少し心配そうにその背中を見送った。
噴霧器から白い霧が吹き出されると、彩り豊かな窓辺の植物たちが静かに揺れる。事務室の窓辺に並んだ草花は、白い磁器の花瓶に収まり八幡の机の後ろのチェストの上で鎮座していた。
園芸は江戸時代から続く、市民階級の趣味としてよく知られた一大産業だ。明治に入っては、大隈重信や山尾庸三など、朝野の名士の多くが邸宅にバラ園や温室を設けて草花を育てるようになった。そうして手塩にかけて育てた花々の中から自慢の一株を選び、折々の品評会に出品することが、人々の目標である。とはいえ政府高官や皇族までもが参加する大きな品評会は都市部でしか行われないので、八幡の位置する北九州では、有志が集まって品評会を開き、一般に開放しているのを時折見かけるくらいである。八幡の職員の中にも園芸を好む者がいるので、回覧板にこっそり品評会のチラシを紛れ込ませてくるのだ。二瀬は職権の乱用だとこぼしていたが、八幡としては人間仕事以外にも趣味のある方がずっと良いと思っているので、黙認していた。
自分も読書という趣味を持っているし、自分を育ててくれた和田長官も海辺で石を拾い集めるのが趣味で、仕事の合間にはよく、まだ子どもだった自分を連れ立ってくれた。園芸といえば家でやるのが一般的だ。家で趣味に打ち込み、家族と過ごす時間が増えるのは大いに結構なことである。
花瓶に並ぶ草花は、そうした園芸好きの職員が自分の庭から持ってきている。やはり工業であるから、事務や営業方とはいえ労働は長時間の戦場だ。目の保養は多少でも有る方が息抜きになると思って、八幡が花瓶を買ってきたのが数週間前のことだった。自分のポケットマネーで職員から古びた噴霧器と草花を買い下げて、いまや部屋の主のように窓辺の中央で鎮座している。
「不思議ですね、桜は皆白い花をつけるのに、バラは白や赤にも、橙色にもなるんですから……」
「人間の頭髪だって、ブロードにも黒にもなるでしょう」
八幡が窓辺で葉の具合を見ながら独りごつと、二瀬の冷静な声が挟まれた。二瀬はすでに仕事を初めていて、昨日の夜に届けられた稟議書を右から左へと次々にさばいている。八幡は振り返って苦笑した。
「それにしたって不思議でしょう。同じ生き物でも色が違う、これは深い問題です」
八幡の言葉に二瀬が視線だけをこちらに向ける。噴霧器を窓辺に残して、八幡は自分の事務机の椅子に座った。
「人間の髪の毛は長い年月が彩った。それには気候と深い関係が有るでしょう。一方で花の色が違いはたった数世紀で生まれた。そこには古今の人間の技術が関係している。同じ現象でも異なる側面を持っている……面白い対照だと思います」
二瀬は持っていた稟議書に判を押すと、左手にあった八幡のレターボックスにそれを置いた。
「最近は生物学の本に熱をあげているんですか」
「えぇ、そういうことです」
八幡はうなづいてレターボックスに溜まった書類を取り出した。まだ業務の開始時間ではないが、仕事を初めるのは早いほうが良い。その方が終わる時間も早く来るのだから。
もっとも、正式な仕事の時間ではないから、世間話を片手に働く。
「園芸に興味を持ってから、花の品種改良に関する本を幾らか……しかし最近読んでいるのはもっぱら衛生学寄りですよ。コレラ然り、ペスト然り、やはり欧州における病気と都市の話は中々壮大で面白いものですから」
「衛生ですか……細菌学や菌類は生物学の中でも昨今一番盛んな分野でしょう。医学的にも経済的にも、彼らは引っ張りだこです」
「えぇ、最近では食料方面でも菌類の活用が見込まれているようですから……二瀬は生物学の本を読んでいますか?」
書類から此方へ、八幡が目線を寄越した。書類をあらかた片付けた二瀬は、日誌を開きながら応えた。
「私はあまり生物学の本は……生き物という点では、魚類や茸の本なら山登りの友として見ることもありますが」
「魚類……あぁ!そういえば、貴方も昔は魚を取るのが好きでした。もっとも貴方は淡水派でしたね……」
微笑んで視線を落とす八幡に、二瀬が訝しむような視線を送った。
「私”も”?」
八幡はにこやかに顔を上げる。
「戸畑”も”魚好きでしょう?ただし彼は汽水から海水派ですがね」
二瀬はなんと相槌を打とうか、困ったように眉間を揉んだ。
八幡が二瀬のことを魚好きだと言っているのは、昔、遠賀川でよく川遊びをしていたからだ。子供の頃の二瀬は暇な時、いつでも川辺へ行って魚を取っていたのを知っているのだ。一方で、戸畑は釣りが好きだった。海岸沿いに位置する戸畑は八幡と同じく、開発が起こる前には漁業が盛んであった。戸畑も暇な時には釣り道具を持って海岸へ繰り出している……そして今日も、おそらく読書ではなく釣りをして過ごしているのだろう。
「この前戸畑が航海術に関する本を買っているのを見ましたよ。天文学にも興味があるのかも知れません。星図表を一緒に買っていっていたから」
「それは……まぁ、興味が広がるのは良いことですが。……星つながりで占星術にでも手を出されたら私の肝が冷えます」
「占星術は天文学の双子ですから、そのうち手を出すかも知れませんよ。それに古代、宮中の官僚は占星術を行って朝を過ごしたんですからね、決して頭から否定する話ではありません」
「それは東洋の占星術の話でしょう。西洋の占星術と言えば教会からも異端扱いで悪名高いものです。余り関心する話では……」
二瀬の反論に、八幡が楽しそうに笑う。
「ふふ、西洋の占星術が魔術の扱いと同一視されて悪名高いのは、もちろん神判以外の占いを嫌ったカトリック教会による禁止令もありますが、中世で流行した毒薬売りが少なからず占星術師を兼ねていた側面が強いでしょう。彼らの歴史には社会史も関わってくる……占星術を知ることには、西欧の歴史を知るうえで一定の価値があります」
参ったように肩を落として、二瀬は首を振った。
「はぁ、まぁ、包丁のようなものですか。知識は使い方次第ということですね……」
八幡は苦笑して身を起こした。
「二瀬、貴方は戸畑に身構えすぎている……子どもはなんでも挑戦するもので、失敗や迷走は当然の承知の上であり、その結果を受けて補導するのが僕たち年配の役目です。子どもの失敗や迷走をなんでも恐れて、それを取り上げるたり、忌避させたりするのはよくありません」
二瀬がバツの悪そうに目を泳がせた。ため息をついて八幡を見返す。
「……それは……えぇ、確かに貴方の考えが最も正しいのかもしれませんが、私には……」
「どうすればいいか分からない?それとも、彼と接するのが苦手ですか」
八幡の言葉に、二瀬が少し目を見開く。図星だったのか、気まずそうな顔で目をそらした。嘆息して言葉を継ぐ。
「そう、そうですね。どうにも……いえ、戸畑のことが苦手だということでは有りません。彼も仲間ですから。ただ……私にとってあんなに年の離れた後輩は初めてで……」
「官営鹿島は?」
長崎県に位置する鹿島鉱区は大正8年、八幡に買収された。戸畑は大正6年の生まれであるから、おおよそ2歳差である。
「鹿島はあまりに遠くて、普段顔を合わせないものですから。それに、戸畑と違ってそこまで自己主張をする性格でもありませんし」
ふぅん、と八幡が相槌を打つ。少し考え込んでから口を開いた。
「その言い方だと……戸畑が自己主張をする性格だから、貴方は手を焼いていると?」
「……えぇ、どうやって彼を説得すれば良いのか、自分には想像がつきません」
二瀬が正直に答えると、八幡は肩を揺らした。
「ははは、それは……まるで僕と真逆ですね」
その言葉に、困惑したような顔で八幡を見つめた。八幡はその顔に微笑む。
「想像がつかないなら、僕が昔どうやって貴方に接していたのかを思い出してみて下さい」
依然として二瀬は要領をつかめていない顔で、こちらを見ている。
「僕にとって初めての年下は貴方だったから。今の貴方の困惑は、きっとかつて僕が貴方に抱いた困惑と同じものですよ」
あぁ、と二瀬は口を開き、少しして顔を赤くしはじめた。
八幡が真逆だと言ったのは、自分の事だろう。子供の頃の二瀬は内向的であまり話さなかったから、八幡もどうやって距離を縮めればいいのか、手を焼いていた。
しかし、戸畑と違って、自分は好き勝手に……行動することもあったが、他人と対立するほど暴れるような事はなかった!……はずだ。彼と同じというのは、少し話が違う──二瀬は顔を赤くしながらも、八幡に反論した。
「お、お言葉ですが、私は戸畑のように無鉄砲では……」
八幡はまた肩を揺らして笑った。ゆっくり首を振って二瀬を見つめ返す。
「確かに性格は違ったかもしれません。でもね、どうやって接すればいいかわからないのは同じだったんですよ」
「……」
二瀬は口を開きかけて、つぐんだ。眉を寄せて、少しばかり口を尖らせる。いまだ納得していないと言いたげな顔だ。仕方がなさそうに首をひねって、持っていた日誌に朝の記録を書き込み始めた。
八幡も持っていた書類を置いて判を押した。早朝の人気のない事務室に、紙の擦れる音だけが反響する。
稟議書を片付けた八幡が印鑑を置くと、改めて二瀬に話しかけた。
「二瀬はもう少し戸畑に優しくしてあげて。あるいは、彼のことを信頼してやって下さい」
二瀬が顔を上げる。八幡の声には心がこもっていた。
もっと信頼するべきだ──無知で、身勝手な子供扱いをするのではなく。戸畑だって、幼い頃から色々我慢してきている。彼だって成長している最中で、分別をもっているのだ。二瀬にも、八幡の真意はよく理解できた。
二瀬は視線を下に落とした。確かにそれは理解できるし、自分も賛成したいが……。
「……信頼するべきだということは、分かります。でも、優しくするというのは、難しい問題です」
八幡が、その理由を聞きたそうにこちらを見ている。二瀬はその視線をまっすぐに見据え、自分の意見をはっきりと告げた。
「貴方が戸畑に優しくするのであれば、私は彼のために厳しく接するべきだと思っています。皆が皆年下に甘いようでは、まるで明の宦官だ。でも、それは正しい育て方ではないと思います」
「……」
すこし悲しそうに眉を寄せる年上に、二瀬は言葉を継ぐ。
「貴方は人のことを叱るのは苦手でしょう。周りの大人に叱られたことが滅多にないから、叱り方が分からないでしょう」
その言葉に、八幡は驚いたような顔をする。
子供の頃から物静かで大人に従順だった八幡は、他人に怒鳴られた記憶が無い。釜石も怒号を上げると言うより、激励するタイプだった。ミスも少なくなかったが、大抵心配されるか呆れられるかのどちらかだった。新聞ごしに批判されたことあるが、あれは……怒鳴られるとはまた違う感覚だ。
「だから、貴方の分まで私が戸畑のことを叱る。そして貴方が、私の分まで戸畑に優しくしてやって下さい」
そう言い切ると、二瀬は少し恥ずかしそうに顔をそらした。
八幡は困ったように微笑んで頭を掻く。
「はは……はぁ、いや、僕もまだまだ、駄目ですね」
そう言うと、八幡は立ち上がって窓辺に向かった。
「ごめんなさい。二瀬は……僕が言わなくても、色々考えてくれているというのを忘れていました。僕が貴方に信頼してと言ったのに、僕が貴方のことを信頼していなかった」
「べ、別に怒っているとか……そうつもりではありませんから、気にしないで下さい」
まだどこか気恥ずかしい心が抜けていないのか、二瀬は手元の資料に目を落としながら、手を振った。
戸畑は二瀬のことを冷徹で仕事一辺倒な年上だと思っているかもしれないが、彼にだってこういう可愛げがある……八幡は口角を緩ませて窓を押し上げた。涼しい風が緩やかに流れ込む。八幡は深呼吸をした。
「貴方の言う通りかもしれません。皆が皆、同じように子どもに接するよりも……色々な大人が居て、それぞれにいろんな距離や態度があって、そういう多様なあり方に囲まれながら育つほうが、勉強になるし、楽しいかな……」
遠い目で考え込むように、八幡は窓辺を見つめた。二瀬はそれを一瞥する。それこそ八幡は技師たちや炭鉱、釜石やら、色々な年上に揉まれて育ってきた。
「社会はお互いに長短相補うというものですよ。仕事でも教育でも、同じ性格や能力では、いつか詰まってしまうでしょう」
二瀬の言葉に、八幡が振り返ってうなづいた。
窓辺の草花は風に揺れ、色彩豊かな花弁が水滴を煌めかせた。
日が傾いて、電柱の長い影は海岸沿いに伸びていく。
ちいさなアジを咥えた猫が住宅街の階段を上っていった。どこかの家庭で夕食を共にする相手がいるのだろうか。波が静かに港の防波堤を打っている。今日の玄界灘は穏やかだ。すでに星空を伴い藍色がかりはじめた空には朱色に照らされた雲が伸びて、その下に広がる紺色の海には、大きな汽船がゆっくりと進んでいった。
「戸畑、今日は随分良い釣り日和でしたね……」
八幡が優しく話しかけると、桟橋に座っていた戸畑は肩を跳ね上げて振り返った。
「うわッ!あぁ、八幡ですか!」
戸畑は釣り針を手早く海から引き上げて回収すると、立ち上がって八幡の方を向いた。
「もうこんなに日が暮れてたんですね。八幡、迎えに来てくれたんですか?」
戸畑は少し目をそらした。なんとなく、嬉しそうと言うよりも、バツの悪そうな雰囲気である。今朝方二瀬に怒られたのに、こうやって釣りをしていたことに対して、多少の罪悪感があるのだろう。八幡はにこやかに話す。
「今日は早く仕事が終わったものですから、折角なら貴方と一緒にどこかへ食べに行こうと思って」
そう言いながら、二瀬の横のバケツを覗き込んだ。大小様々な魚が折り重なっている。どうやら今日の釣りは絶好調だったようだ。
「そうなんですか?それは嬉しいですけど……でも僕、今日はこんなに釣れたので、お刺身とかあら汁にして食べちゃおうと思ってたんですが……」
戸畑は頭を掻いた。八幡はバケツの取っ手を持って立ち上がった。
「じゃあ、長官舎に二瀬や高雄たちを呼んで、今日の夕飯は皆で料理しましょう」
戸畑は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに肩をすくめて心配そうに八幡を見つめた。八幡はその顔が何を伝えたいのか察して、苦笑する。
「あぁ、二瀬には……うーん、そうですね、一緒に言い訳するほかありませんね」
はぁーっと戸畑が肩を落としてため息をついた。しかし、意は決したようで、釣り道具を抱えると、すぐに桟橋を駆け降りていった。
八幡もその後を追う。
暗くなってきた街路を白い電球がまばらに照らしている。どこかで犬の鳴き声が聞こえた。焼き魚や味噌汁の良い匂いが家々の窓から香ってくる。
「はぁ……でもなんて言えばいいでしょうか!?あの要塞がそうそう簡単な言葉で許してくれるとは思えません」
戸畑は頭の後ろで手を組んで歩いている。かなり本気で考え込んでいるらしい。首を捻ってうなっている。
「本当に一日中釣りをしていたんですね……」
八幡の言葉に、戸畑は再びバツの悪そうな顔をした。
「え〜……だって……ど、どうしましょう八幡。なんていえば良いんでしょうか」
言い訳しようとした戸畑だが、全く思いつかずに言い訳相手の八幡に助けを求めはじめた。八幡を頭を搔き、しばし黙って思案する。
静かな夜に四方で虫の声が響いていた。
「うん……まぁ、過ぎた時は取り繕いようがありません」
八幡は戸畑の目を見る。
「でも、未来のことはなんとでも言えますし、それに、なんでも出来ます」
戸畑は八幡が何を言わんとしているのか、不思議そうな顔をしている。
「帰ってご飯を食べたら、今日は一緒に読書をしましょう?お昼の分は、夜に読むということで二瀬に納得して貰いましょう」
おお!と戸畑が目を輝やかせた。
「あ〜!八幡も約束してくれるなら、あの強情男も納得してくれます!ありがとう!」
明るい声色と共に足取りが軽くなった戸畑を見て、八幡は困ったような顔で笑った。相変わらず、戸畑は二瀬に対して……。
白い街灯の光が道路に反射し、戸畑の跳ねる姿が鮮やかな影で映し出されている。
「戸畑……」
先を行く年下に声をかけると、笑顔で振り返ってこちらを見る。
「うん?なんですか?」
八幡は真っ直ぐ戸畑の目を見つめる。
「戸畑にとって、二瀬は怖くて、僕は優しい年上ですか?」
「ええ?それはそうですよ」
あっけらかんと即答する。八幡は小さく嘆息すると、仕方がなさそうに微笑んだ。
「そうですか……でもね、僕のことを優しいと思うなら、その優しさは二瀬のおかげで、できているんですよ」
「?」
戸畑は困惑した顔で首を捻る。八幡は立ち止まっている年下に歩み寄った。
「分かりにくいかも知れませんが……二瀬も本当は貴方に優しくしたいし、良い家族でありたいと願っているんです」
戸畑は瞬きをしてこちらを見つめている。夜風が2人の頬を撫でた。雑木林を揺らして駆け抜け去っていく。
八幡は深呼吸して言葉を続けた。
「それでも貴方を叱るのは、人を諌めるのが年上の役目だからで……しかしこう言うと、僕は年下失格かもしれませんね……」
はぁ……と戸畑は未だ不思議そうな顔で八幡を見ていた。八幡は戸畑の頭を撫でた。
「そういえば、戸畑は最近航海術の本を買ってたでしょう。一緒に星座の勉強して、いつか星空観察に行きたいな」
「え〜!よく知ってますね!うんうん、どこかに山登りして、ついでにキャンピングしてみたいですよ」
戸畑は嬉しそうに大きくうなづいた。
「あぁ、それも良いですね!でも道具が……飯盒や手斧はありますが、どこかでテントを借りてこないと……」
キャンプをしたことは無いものの、子供の頃釜石と水辺で野外料理をしたことはある。筑豊炭田の家に泊まっていた時代の話だから、きっとあの家の蔵のどこかにあるだろう。錆びていなければいいが……。
「ええ?そんなの駐屯地か青年会から貰ってくればいいじゃないですか?ツテか何かで払い下げ品みたいに受け取れませんか?」
うーん、と八幡は首を捻った。まぁ、他人から受け取るのも良いが……これを口実に旅行へ行くのも、悪くない。
「どうせなら一緒に買い物に行きませんか?戸畑はまだデパートメントに行ったことがないでしょう」
「本当ですか!?行きたい!それは絶対行きたいです!」
戸畑は喜んで跳ね上がった。八幡も笑顔で戸畑の肩を叩き、歩き始める。
「えぇ。そのためにも、二人で一緒に星の勉強をしましょう。あ、戸畑はオリオン座って知っていますか?」
自分には、叱ることはできないが、人を導くことはできるはずだ。今までずっと多くの人に導かれて来たのだから。
賑やかな夜空の星々が一段と白く輝いた。
- 鉄道省編『キャムピングの仕方と其場所』(実業之日本社[ほか]、1926(大正15)年)
- オートキャンプ歴史博物館「明治のキャンプ」(http://museum.world.coocan.jp/japanese_booth/index.html)[2024/02/29閲覧]