『商売敵』(近代財界擬人化)

「……!」
 すると、中から出てきたのは、紙幣でも他人の手紙でもなく──何処かの製鉄所の前で二人の男性が写っている写真であった。
 八幡は顔を近づけて写真の男性の顔を見る。
 それは昼に八幡が会話していた三井鉱山と……もう1人は、多少老け込んで、顔に見覚えのない傷ができている。雰囲気も変わっていたが、自分は確かに、その力強い顔つきに見覚えが……。
「釜石先生……?」
 八幡は目を見開いて、その写真を見つめた。懐かしいその名前に、高雄も驚いたように顔を跳ね上げた。
 おそらく、この製鉄所は釜石の製鉄所なのだろう。それに、三井鉱山が写っているのを見るに、きっと買収に際してとった写真か何かだ。
 椅子に座っている三井鉱山が、日中の憎まれ口からは考えられないほど朗らかな、人好きのする笑顔をしているのに対して、後ろに立つ釜石の表情は固く引き締まっている。こちらを睨むような気迫の釜石の顔に、八幡の胸が締め付けられるような気がした。

 茫然として天井を仰ぎ見た八幡の手の中の写真を、戸畑と高雄の二人が覗き込んだ。
「えぇッ!うわッ!三池じゃないですか、これ!」
 戸畑は驚きのあまり尻餅を突きかけて床に手をついた。
 高雄も厳しい顔で写真を眺めていたが、しばらくすると嘆息して八幡と同じく前方の天井を見つめた。
「これが釜石か、あぁ……老けたな!ま、顔がいいのは相変わらずで、わかりやすくて助かるが」
 温かく、懐かしいものを見るような目線を投げかけてきた高雄に、八幡は言い難い思いで顔を歪ませた。釜石の顔つきには、溢れるばかりの懐かしさと、不条理な世相の流れの寂寞を感じずには居られない。自分よりも、きっとずっと苦労してきたのだろう。
 八幡は感嘆して自分の顔を覆う。事務椅子の硬い背もたれに沈みこむように足を伸ばした。

 製鉄合同の時、釜石が来なかったのは、自分にとってはある意味”助かった”ことだったのかもしれない。こんなにも雰囲気の変わり果てたかつての恩師の前に立ったら、自分が彼にどんな顔をしていたのか、想像もつかない。逆に、この写真の釜石が、かつて彼がひたすらその俯く様子を心配していた、そしていまや恩師の彼でさえもを押しつぶすような、無慈悲な会社に成長した八幡に会ったら、一体どんな言葉をかけてくるだろうか。
 いや、何を考えても無駄だろう。お互い、居た堪れなさのあまりに、きっと言葉すら交わせなかった……。

 八幡は首を振って背もたれから起き上がった。そして静かに、その写真をインディゴの包みに戻す。大切な写真だとは思ったが、到底どこかに飾るような気分にはなれない。少し逡巡すると、八幡はそれを自身のスーツの胸ポケットにしまった。
 高雄が心配そうに八幡を見つめる。八幡は悲しそうに笑った。
「はは……ううん、心配しないでください。ちょっとびっくりしてしました」
「そうだな……なんだかんだ、俺ら、ここで教師してた後のあいつの姿、一度も見たことなかったもんな……いや、八幡は……最近の合同の会議で見てなかったのか?」
 八幡は再び首を振った。
「いいえ。釜石は三井鉱山の直系会社になって、三池さん……三井鉱山の社長が釜石の社長に座りましたから、会議に出てきたのも三井鉱山だったんですよ」
「なるほどな……」
 高雄が首を掻いて宙を睨んだ。何か言いたげだが、それをためらっているように見える。

 気まずい雰囲気で黙り込む二人に、戸畑は遂に我慢できず、口を挟む。
「八幡!その写真、一体どこでもらったんです!?今日は農商務省に行ってきたんですよね!?」
 詰め寄ってきた戸畑の言葉にはっとした八幡は、胸にしまったインディゴのハンカチーフを取り出してまじまじと見た。
 考えるに、これはきっと……三井鉱山が、八幡の気づかぬところで手荷物に差し込んでいたのだろう。買収の時の二人きりの写真など、到底その二人以外の会社が持っているとは思えない。
 このインディゴのハンカチーフも、鉱山を思わせる要素がある……三井鉱山の息子の1人、三井鉱山染料部門は今の重化学産業を推し進める三井鉱山の軸となっている存在だ。その彼は第一次世界大戦から、長年人工インディゴ染料の工場生産に熱を上げていた。革用のアリニン染料や、アリザリンなど暖色の酸性染料を中心に生み出してきた染料部門にとって、この目の覚める青い布地には経済的側面以外に惹かれて止まないところがあるのだろう。十数年の歳月を上げても未だ染料部門のインディゴ技術は完成されていないが、染料部門も父親の鉱山も、周りの反対などどこ吹く風だ。研究を中止する気配はない。この汚れ一つない、真新しい布地は、鉱山が息子の染料部門から受け取った試作品なのかもしれない……。
 八幡は、改めてこの贈り物が”重要な”ものであったのだと気がついた。手の中の包みの重みが一層増した気がする。
 そして、こういうことをしてくるのは、実に三池らしいとも思った。会いたいと思わないのか──昼間の鉱山の声が自分の耳にありありと再生される。一方的に、不意打ちのように会わせてくるのは、実に人が悪い。しかし、こうでもされなければ、本当に、自分は釜石の顔を見ることはなかっただろう。これもある意味、鉱山の気遣いなのかもしれない。

「多分……三池さんから、もらったんでしょうね、これは……」
 横で不満げな目をしている戸畑に、八幡はなんとか微笑みかける。戸畑の訝しむ顔はそれを聞いて一層険しくなった。高雄が驚いたように目を丸くする。
「なんだ、東京で三池と合うなんて、また製鉄合同の話でもあったのか?」
「いえ、日本橋で偶然出会って……すこしお話をしたんです」
 八幡はそこまで言って少し思案してから、言葉を継いだ。おそらく、便所に行くと言った時に、店の奥で密かにこの写真をくるんできたのだ。しかし一体いつ自分の風呂敷の中に入れたのか?車中に荷物を運んだ時だろうか、と八幡は思案した。
「まぁ、なんというか、その帰り際に東京駅まで車で送ってもらいましたから、そこで荷物を運び込む時に紛れ込ませてきたんだと」
 戸畑が隣で絶句して明らかにショックを受けている……今どきの、地方の若者にとって、大伽藍立ち並ぶ帝都の中で黒光りする車に乗るだなんて、喉から手が出るほど羨ましい話なのだ。
 再び八幡たちの前に沈黙が降り立った。
 八幡は感嘆する。机の上で手を組み、頭を抱えた。
「釜石先生……」
 自分の知らない顔の傷は……やはり先年の釜石争議のものだろうか。なにしろ彼のところの争議では軍隊が出動したのだ。炭鉱の坑を中心に争った足尾銅山の労働者たちとは異なり、釜石では市街地での紛争となったから、足尾の時に手足を出せなかった警察や軍は本領発揮とばかりに激しい戦闘を繰り広げた。気性の荒い釜石だ。きっと自分のところの労働者が暴れていると知ったら自ら先頭をきって応戦に出ていくだろう。官営八幡製鉄所でもかなり大規模な争議は起こったが、八幡のとった行動はロックダウン、争議の鎮火まで消極的態度を取るものであり、軍隊の出動には至らなかった。ここでも、釜石と自分との間には、その性格の皮肉なる好対照がでている……八幡は、目を閉じた。
 八幡は釜石にひどく同情した。三井鉱山の買収で経営者もほとんどが入れ替わった。彼にとって馴染み深い者は、もはや香村小録だけだろう……釜石で鉄鋼一貫体制を試行し、そして八幡でその技術を大成させた野呂景義の弟子、そして釜石への置き土産ともいえる人物であり、三井鉱山の買収に際しても交渉役にあたった経営者だ。三井鉱山は事業に口うるさい方ではないと、八幡もよく知っている。しかし、経営者の殆どを鉱山の関係者に占められたのは、釜石にとって窮屈ではないか……。

 あぁ!自分の不条理さ、傲慢さを痛感せずには居られない!八幡の心が呻く。酷い話だ、昼間は鉱山にあんな啖呵を切ったのに、いざ目にすると、感情が精神を締め付ける……。
 釜石の経営を叩きのめした一端には間違いなく自分の存在があるのだ。そうでなくとも、製鉄合同論、カルテルの形成──他社の救済を一蹴し、競争による経営の合理化を訴えた、無慈悲な自分が、競争に破れ買収された釜石に同情するなどと……あまりにも残酷な構図だ。
 釜石は自分を恨んでいるだろうか?いや、恨むべきだ。こんなにも罪深い教え子に同情する余地など持つべきではない。不況の続く厳しい市場において、そんな甘い考えを持っていたら、それこそ再び彼は窮地に立たされることになるだろうから……。

「ただいま上がりました!」
 その時、沈鬱たる事務室に、二瀬の快活な声が響いた。髪が湿り気を残して輝いている。風呂から上がってきて、八幡に交代を告げに来たのだ。