『商売敵』(近代財界擬人化)

 官営八幡が北九州の駅に降り立った頃には、あたりはもうすっかり深夜であった。暗い夜に駅前の電灯が白く煌々とする様はまさしく映写機のようだ。

 八幡の周囲はすでに大いに発展し、かつてこの地が見渡す限り平野の湿地帯であったことなど到底考えられないほどである。街の中心部には電灯がたち、深夜であっても街路は白く照らされていたが、民家や駅前の商店街はすでに眠っていた。
 迎えにきていた高雄炭鉱を見つけて、八幡は重い荷物と共に車へ乗り込んだ。静謐な夜道にエンジン音が反響する。八幡は少し申し訳なく思った。どこかで赤ん坊を起こしてしまうようなことがないといいが……願う他ない。
 八幡が長官舎の一角に着くと、暗く静まり返った施設の一角に明かりがついているのに気がついた。カーテンの隙間から、ぼんやりと光が漏れ出している。あそこは事務室の区画だ。おそらく二瀬が何か作業でもしていたのだろう。

「ただいま帰りました」
 人気の無い事務室に八幡の声が響き渡ると、八幡の年の離れた弟分、戸畑製鉄所が飛び出してきた。
「あぁ八幡、お帰りなさい!そして聞いてください!本当は僕が迎えに行くつもりだったのに、高雄が勝手に出ていって!」
「なんだよ、忙しないお前が出てったら八幡の旅の疲れが倍増だろ?」
 高雄の反論に戸畑はムッとしたような顔をする。赤くなって捲し立てた。
「うるさいですねー!騙されないで八幡!この人、絶対自分が車に乗りたかっただけです!」
 車は大正期に入ってようやく日本に出回り始めた最先端の乗り物である。この北九州でも所有しているのは数えられるくらいのものしかいない。若くて新し物好きの戸畑はすっかり車好きなのだ。おそらく車に乗りたかったのは戸畑自身なのであろう。八幡を一番に迎えたかったというのも、多少はあっただろうが……。
「あぁはいはい、好きなだけ言っとけ!」
 呆れるような口調で戸畑の肩を叩いた高雄は、八幡の手荷物を受け取り、ドアの手前の応接用のソファへと運んで行った。あからさまに子供扱いをしてくる年長者に怒った後輩は、再びぶうぶうと文句をぶつける。八幡は苦笑して戸畑を宥めた。

 その騒ぎの最中、部屋の奥で勢いよく転ぶんだような音が響く。八幡が振り返ると、官営二瀬炭鉱が驚いたように立ち上がってこちらをを見つめていた。二瀬は我に帰ると、顔を青ざめさせて口元を押さえた。
「あぁっ八幡!帰ってきていたのですか!?すいません!自分が駅まで出迎えに行くべきでしたのに……」
 二瀬は項垂れて頭を押さえた。戸畑がそれを見て八幡に話しかける。
「そうなんですよ!八幡!二瀬はさっきまでずっと寝てたんです!だから僕がこっそり行こうとしてたのに!」
 戸畑が恨みがましい目で高雄を見る。高雄は肩をすくめて手を振った。そして年下ながら自分の上司でもある二瀬に、フォローの言葉を入れる。
「八幡が出張した一昨日から今日までずっと徹夜だったからな。帰ってくるって聞いて、緊張がほぐれたんだろ」
 八幡は苦笑して戸畑の机のほうに歩いていった。二瀬の机の上には、書類の山と共に印鑑やいくつかの筆が転がっている。
「気にしないでください。僕の分まで色々仕事の資料を作ってくれていたんでしょう?まだ寝ていてもよかったのに」
「お、お気遣い、ありがとうございます。すいません、なんだか……帰ってきて早々貴方にご心配をおかけしてしまって……」
 二瀬は恥ずかしいのか、悔やんでいるのか、目を閉じて頭を下げる。八幡は黙って、二瀬が立ち上がった拍子にばらけてしまってのであろう床の書類を拾い集めて机に置いた。
「うわぁ、二瀬……出張から帰ってきた八幡に書類を拾わせるなんて!もう一体どっちが部下なんですか?」
「あぁ、あぁ!もう構いませんから、早く風呂でも浴びて汗を流してきてください!」
 年下の戸畑の冷やかしも相まって、恥ずかしさのあまり顔を赤くし始めた二瀬が、八幡を急かすように腕を振る。八幡はそれをいなすように受け止めて、落ち着いた声で聞いた。
「貴方の仕事はひと段落ついたのですか」
「えぇ、えぇ、もうすっかり!ですから、私の心配はしないでください。寝てたのも、ほんの少し、仕事が終わったついで!貴方が帰ってくる前に一時間くらい休憩しようと思っていただけで……」
 二瀬は口数の多い方ではないが、焦りからか、勢いよく続けざまに話す。八幡はうなづきながらそれを聞くと、二瀬に微笑んだ。
「それなら貴方が先に浴びてきてください。僕はホテルでも汽車でも熟睡してきました。きっとあなたの方が疲れているはず」
 二瀬は口を開いて何かを言おうとしたが、絶妙な顔でそれを噛み潰した。上司の気遣いを断るのも、それはそれで不敬だ。高雄が困惑する二瀬に声をかける。
「おおっと……それなら、早く行ってこいよ二瀬!お前の湯が遅くなっちまったら、八幡の分の湯が冷めちまうだろ」
「あ、八幡!湯を沸かしたのは高雄に置いてかれた僕ですから!ちょっと二瀬、僕の頑張りが冷めないうちに早く行ってきてください!」
 戸畑も思い出したように声を上げた。置いて行かれたことを強調しながら。相当根に持っているようだ。
 二瀬は先ほども冷やかしを飛ばした戸畑を睨んでから、申し訳なさそうな顔で八幡を見た。
「あぁ、すいません。本当に……すぐ上がってきますから」
「はは……別に、急がなくても構いませんよ。僕は土産物の整理をして、手紙も少し書くつもりですから、どうせすぐには入れません」
 二瀬は再び難しそうな、何か言いたげな顔をしたが、急いで風呂へと駆けていった。その後ろ姿を眺めながら、八幡は二瀬に同情した。
 二瀬は自身の生産する石炭の質の不甲斐なさからか、どうも八幡のために働きすぎるところがある。もっと肩の力を抜いてほしいと、この生真面目な双子の弟分に、八幡はいつも願っているのだが、むしろそうした気遣いがさらに二瀬の奔走ぶりを加速させてしまっている気がする……。

 すると八幡の後ろから戸畑の歓喜する声が上がった。
「えぇッこれ全部お菓子の袋なんですかぁ!?八幡!これ僕がもらっても良いですか?」
「駄目です!」
 現実に引き戻され、間髪入れず言い放たれた八幡の言葉に、戸畑は肩を落として口を尖らせた──振り返ると、戸畑はすでに応接用の机の前に跪き、八幡の風呂敷を解いて土産物の紙包を物色しているようであった。
 八幡は苦笑いする。高雄が顔を顰めた。
「戸畑ァ!そういうのを手癖が悪いってんだッ!」
 気性の荒い筑豊炭田直系の息子らしく、高雄炭鉱の怒る様には中々の気迫がある。面の皮のぶ厚い戸畑でも、流石に肩をすくめ、申し訳なさそうな顔で八幡を見た。戸畑に詰め寄ろうとする高雄を、八幡が手を上げて止める。
「僕の荷物ですから、構いませんよ……」
 高雄は仕方がなさそうに八幡を見た。
「八幡、そうやって甘やかすのは良くないだろ……いや、確かにお前は俺らに甘やかされても、めちゃくちゃまともに育ったけどな?」
 呆れられているのか、褒められているのか、八幡は頭を掻く他ない。

 どちらにせよ、早く荷解きをして寝床につきたいのは事実だ。八幡はリュックを開き、中の荷物を取り出して机の上に並べた。戸畑が羨ましそうに陳列される土産物を眺めている。
「安心してください戸畑。貴方の分も買ってきましたから。一緒に仕分けるのを手伝ってください、ね?」
「はい!もちろん、そのつもりですけど!」
 戸畑は目を輝かせて八幡を見上げた。八幡はリュックにさしていたメモ帳を戸畑に手渡す。
「ここに土産物の包み紙の色や模様と、渡す相手の名前を書いています。土産物は相手の地区別に分けて置いて行ってください。机の端から、こっちが北で向こうが南というふうに」
 戸畑はまじまじメモ帳を見る。高雄もそれを覗き込んで、山積みになった土産物を仕分け始めた。
「僕は少し手紙を書いています。わからない物があったら、聞いてもらって構いませんので」
「はぁーい」
 戸畑が頷くのを見て、八幡は立ち上がった。事務室の戸棚から便箋を取り出し、スーツに差していた万年筆を取り出して、事務机に座って軽い時候の挨拶と近況の報告、東京の様子を書き連ねる。
 他人に言わせれば、こんな軽い手紙は、別に部下に任せても構わないようなものかもしれないが、自分のためにこんな夜更けまで起きて待っていてくれた二瀬たちにこれ以上負担をかけさせたくない。それに考え事を好む八幡にとって、文章を書くのは嫌いでないし、むしろ好むところであった。
 普段世話になっている鉱山たちは滅多に北九州の地を出ることはない。八幡が出張に際して持ち帰ってくる東京や大阪の土産を、彼らがどれだけ楽しみにしているか、八幡自身一番よく知っている。手を抜くのは無礼だろう。とりあえず、今日は一番遠い地区の鉱山たちの分の手紙だけ書いて、明日の早朝の郵便に間に合わせるよう。

 八幡が静かにペンを動かしていると、机の下の方からノックするような音が聞こえた。下を見ると、戸畑が床に座りながらのけぞってこちらを覗き込んでいた。
「あ、すいません。これ、メモに載ってないやつみたいですけど、どこに置きますか?」
 戸畑の差し出したその包みは、八幡自身も覚えのないものだった。
 インディゴの、真新しい爽快なハンカチーフが、綺麗に折り畳まれている。受け取ると、どうやら複数枚の紙が入っているのか、なかで紙の擦れる音が聞こえた。
「えー、八幡、もしかして、誰かの財布でも持ち帰ってきちゃいましたか!?」
 首を捻っている八幡に、戸畑が心配そうな声をかける。しかし、八幡には財布や他人の落とし物を拾った覚えは一才ないし、ホテルから出てくる前、荷物を整理した際には、間違いなく入っていなかったものだ。
 もしかすると、汽車で信託や大正海上と談笑しているときに、彼らの私物が挟まってしまったのかもしれない。
 八幡は何か重要なものが入っていたら申し訳ないと思いつつも、恐る恐るその包みを解いた。