『商売敵』(近代財界擬人化)

 東京駅は、十二年程前に建てられたばかりの豪華絢爛な赤レンガの巨城であった。
 三年前の関東大震災で多少の被害を受けたものの、外傷はほとんど受けず、割れた内装や壊れた機械類もすぐに取り替えられ、すでに帝都の玄関口として申し分ないほどの輝きを取り戻している。
 東海道本線の駅のホームには、今日も既に行く人かの待ち人が立っていた。
 
 信託──三井信託銀行は、手持ちの切符をよく確認して、三等客車の停止位置の前に立った。彼の父親である米山梅吉は、旅に行くとき、決まって三等の切符を買う。その癖は信託にも移っていた。
「あぁっ……おーい!信託!」
 すると、二等客車の列の方から、聞き馴染みのある声が聞こえた。見ると、大正海上──信託の親、三井銀行にとって不倶戴天の身内たる三井物産の息子である。
「大正海上!もしかして、これから大阪の方に行くんですか?」
「あぁ!君も大阪まで行くのか?」
 物産譲りの精悍な顔つきをしているが、風采はほとんど東京海上譲りで、穏やかな英国紳士といったいでたちだ。
「僕は浜松で降ります。残念ですが……」
 信託が困り顔で笑うと、大正海上も、そうか、と残念そうに肩をすくめた。
 信託と大正海上は、お互い仲の悪い親のもとに生まれたが、これまたお互い親との関係が複雑なのも相まって、相手の親を意識したことはほとんどない。
 加えて、三井信託にとって、東京海上は大正海上と同じく恩人とも言うべき立ち位置にあった。元々東京海上の独裁者、そして彼が自らの最大の誇りとする経営者、社長の各務鎌吉は信託業に深い関心を寄せていたのだ。以前から、彼は三井銀行の池田成彬と友人関係にあったが、池田の女房役の米山梅吉が正式な信託銀行を初めると聞いて、資本家側として精力的にそれを支援した。特に、”三井財閥の”というより”財閥から独立した”立場をとった信託銀行を作りたがっていた米山にとって、”三菱財閥の”巨頭の一人である各務の支援を得たのは、まさに理想的な関係だった。各務の三井信託への注力ぶりは資本関係上からも明らかである。株主一覧表では三井合名社長、つまりは三井本家の主人(十四万株)に次いで二位の一万千五百株であり、それに次ぐ門野幾之進(三田系出身、千代田生命保険社長)や三井銀行には千株以上の差をつけていた。
 それに、三井信託の親の米山梅吉は、かつて大正海上の世話役だった、東京海上の、今や専務となった平生釟三郎と三十年近い付き合いのある友人だ。今も、ロータリークラブで時折会ってはお互いの教育論や政治論に関して意見を交わしている。いわば、東京海上づてに、三井信託と大正海上にはいくつかの接点があった。
 親友、というほどではないが、気の合う親族として、会えば話をするくらいの親しみを覚えていたのである。
 
「そういえば、さっき東京海上さんとお話してきましたよ」
 信託が話を切り出すと、大正海上が驚いたように目を見開いた。
「えぇッ!師匠と!?あ、会えたのか、そうか……良かったな」
 大正海上は、すこし気まずそうに頬を掻いた。すぐに取り直して、申し訳無さそうな顔で打ち明ける。
「いや、実はな。俺、師匠から君に会えないかって聞かれたんだけど、本館の事務室に聞いたら、君は午前に会議、午後は出張で忙しいって聞いたから、到底会えないと思って……」
 断ってしまった、ということだろう。信託は苦笑した。
「うん、そうなんですよ。鉱山さんとの会議が終わって、外出たら、東京海上さんと出会って、そのまま東京海上のビルまで引きずられちゃいました」
「それは、気の毒だ……師匠、たまに無茶苦茶なところがあるからなぁ」
 信託の言葉に、大正海上もその時の東京海上の様子が想像できるのか、笑顔をひきつらせた。十年近い付き合いのある師弟だ。まだ二年しか付き合っていない信託よりもよく東京海上のことを知っているだろう。
「そういえば、大正海上さんも、東京海上さんにあったんでしょう?」
 その時、大正海上の顔が一瞬、曇る。
「あぁ、えっと、信託……」
 なにか言いにくそうに、口元をゆがませたが、信託に顔を寄せると、小さな声で囁いた。
「な、正直、親父にばれたらまずいんだよ。あんまり人に言わないでくれるか?」
「それは……もちろん、黙ってますよ。第一、僕じゃ物産の義叔父さんと話す機会もありませんし。父の銀行にいた飯田さんも、貴方の経営者になってしまったでしょう」
 飯田義一、かつて物産の筆頭常務を務め、中上川亡き後の三井銀行の取締役に列席していた彼は、大正3年、ジーメンスの汚職事件に連座して物産を追われ今や大正海上の会長となっていた。
「あはは、それもそうか……」
 大正海上は頭を掻いた。苦笑する顔は本当に父親の物産に似ているが、その顔には未だ積年の荒波に刻まれたような皺や傷が無い。
 信託は大正海上の心情を察して同情した。物産は大正海上の成績が上がらない理由を、師匠である東京海上へ及び腰になっているからだと、今もかなり辛辣に批判している。きっと大正海上が今も東京海上と親しくしていると知ったら、現を抜かすなと激怒するだろう。
「まぁとはいっても、そんなに人に話す内容があるわけでもないんだよな。世間話だよ、いわゆる……多少お互いの家の経営者のこととかも会話したけど」
「三菱さんのところはやっぱり信託の話で持ちきりだったでしょう」
「はぁ、信託、お前も師匠に合ったのなら、向こうの雰囲気、分かっただろ?銀行というか、串田がそこまで良い顔していないって、どちらかと言えば兼営論派だよ。現に今も運動のトップに居るのが三菱銀行じゃなくて東京海上と合資の人間なんだから、銀行からすれば余計なお世話だろう……」
「あはは……まぁ、東京海上さん、三菱信託ができたら、店舗は絶対自分の東京海上ビルに入れるって言ってましたね。なんだかもう、彼が生まれたら、一体誰に似るのか検討付きませんよ」
 信託は三菱信託の教育論を嬉々として語っていた昼食時の東京海上を思い出す。大正海上は師匠の大胆ぶりに嘆息した。
「そうやって自分の家に思い切り引き込むところが、師匠の独裁的なとこだよなぁ。三菱銀行もまいってるだろうね」
「東京海上さんと比べると、正反対の性格ですからね、あの人は……」
 三菱銀行は九州、臼杵の生まれであり、三菱財閥内ではどこか浮いているところがある。三菱商事や日本郵船との関係も、そこまで良好ではない。温厚で控えめな性格も相まって、いつも一歩人に譲るところがある……経営以外では。その彼が気の強い合資と東京海上から信託の件で詰め寄られているのだ。特に師匠の気難しさをよく知る大正海上としては、少し同情してしまう。
 
「でも……意外ですね!」
 信託は突然快活な声で大正海上を見上げた。大正海上はその言葉に、驚いて困惑する。
「意外って?三菱信託の話が?」
 信託は苦笑して首を振った。
「あぁ……まぁそれも意外な話ですけど」
 話を変えるように、言葉を区切る。そして、信託は大正海上に微笑んだ。
「嬉しい話だと思ったんです。貴方がまだ東京海上さんと、親しそうで……」
 三井銀行譲りの流麗で端正な顔だ。否、いまやいぶし銀のような冷淡さをもった父親の銀行とは異なり、生まれてまだ二年しか立っていない、前途有望の溌剌たる三井信託の微笑みは、まさしく華のようだった。
 大正海上は、一瞬言葉を失って、目を見開いたが、顔をそらしどこか遠くを見るような目で線路の方を見つめた。
「あぁ、そう、だな……」
 その顔は、信託の予想に反し、酷く悲しそうに見えた。心配そうに覗き込むと、大正海上は仕方がなさそうに笑った。信託は少し気まずくなって、自分の軽率さを謝る。
「す、すいません。この前、東京海上さんと喧嘩したって聞きましたから、僕は心配で……」
 大正海上はあぁ……と力なく微笑む。
 一年ほど前、長年大正海上の世話役を担っていた平生釟三郎は、すでに大正海上の経営陣も成長し、独力自立を果たせるようになったとして、七年近く勤めたその監査役を退いた。その直後、東京海上は三井物産の輸入米に対して、大正海上よりも低い保険料率を提示したのだ。あきらかに、それは三井物産の息子である大正海上の保険契約を奪うような行為である。大正海上の経営者は東京海上を非難した。しかし東京海上からすれば、弟子と言えども、すでに市場で独り立ちした企業に、どうして遠慮がいるだろうかということなのだろう。君も、もっと努力して、保険料率を下げればいいじゃないか──大正海上はその教育の最後に、市場の残酷さを身を持って教えられたのだ。
 そして、これが長らく物産や三井合名から圧力を受けていた、大正海上の師匠離れの、最終的な破局の決定打になった。東京海上と大正海上は、純然たる競争関係に立つようになったのだ。
 大正海上は一つ嘆息すると、申し訳無さそうにしている信託の肩を叩いた。
「気にしないでいいさ。あの保険料の問題を切り出したのは各務社長だ、俺が世話になった平生さんじゃない……師匠は商売敵だけど、今でも、俺の恩人だよ」
 そして、力強い微笑みで信託の方を振り返った。
「第一、商売敵だからって、話しちゃいけないなんてことないさ!信託の親父さんだって、俺の親父なんかより、三菱銀行さんとの方がよっぽど仲良いだろ!」
 その男前で逞しい笑顔は正しく物産譲りだ。しかしその息子が、父親たちの関係を引き合いに出しているのは、中々見がたい構図だ……信託も、大正海上の笑顔に元気づけられたような気がして、思わず笑ってしまう。
 それを皮切りに、信託と大正海上はお互いの父親の話を始めた。
 
「池田さんが禁煙に成功したって聞いて、父さんもついに禁煙党ですよ!いつも部屋に伺うと飴を舐めて渋い顔してますから、もう、なんだか面白くて、笑っちゃいます」
「奇遇だな。俺の親父もだよ。あの潔癖の安川常務に言いくるめられて以来、ここ一ヶ月禁酒禁煙だぜ。本当に……絶対無理だ!商事さんは三宅川常務の酒豪につきあって毎晩飲んでるのにな。宴会で商事さんに会うとあの人、血が出るくらい歯ぎしりしてるんだ……」
 楽しげに語る二人の後ろから、人影が近づいた。
「あの……信託君!」
 驚いた信託が振り返ると、そこには昼間出会った、官営八幡が立っていた。
「すいません、話に割り込んでしまい……。それにさっきも、僕の方から信託君たちに声をかけたのに、何も言わずに別れてしまって本当に申し訳ありません。それを謝罪しようと、つい声をかけてしまいました」
 頭を下げる八幡に、信託は慌てて首を振った。
「そんな!あ、いや、気にして下って、ありがとうございます!でも、平気ですよ。僕も東京海上さんに引きずられて、御挨拶できませんでしたし……」
「そうでしたか、大丈夫……だったようです、よね?ご無事で何よりです……」
 八幡は顔を上げて、安堵したように微笑んだ。信託も頭を掻いて笑った。
 そして信託は、思い出したように懐から名刺入れを取り出した。黒い上質な革がなめらかな光沢を纏う。人の教育に気を使う米山が、毎年新入社員のために配っている特注品の名刺入れだ。開くと、金糸で刻まれた”keep your name clean”の文字が瞬く。
「そういえば、まだ名前を申し上げていませんでしたね。僕は三井信託銀行といいます」
 信託は、白い整然たる名刺を差し出して頭を下げた。それを見て、大正海上も慌てて自分の名刺入れを探す。八幡も、土産物の大荷物を脇においてそれを受け取る。信託は頭を上げると、華のような微笑みで八幡に向き合った。
「まだ設立されたばかりで、まだ色々ふつつかなところがあるとも思いますが、どうぞよろしくお願いします」
 おお、これが聞きしに勝る、三井の華美、瀟洒なる西欧紳士ぶりというものか……と、八幡は輝くその風采ぶりに驚いた。自分がよく知る三井鉱山も、人好きのする笑顔をするのが上手い点では似ているが、ここまで爽やかではない。正しくホワイトカラーの鑑だ……と思いながら、八幡は信託の名刺を眺めた。
「あぁ、ありがとう。しかし、信託銀行さんですか。珍しい。こんなところで出会えるとは、僕は幸運ですね……」
「えぇ、信託法はできたばかりで、僕の同業者はまだ全然いないんです。ちょっと寂しいですね」
「そうなんですか……」
 どこか遠いものを見るような目で、八幡は相槌を打った。同業者がいなくて、寂しい、か……。自分の生まれた頃も、同業者は極めて少なかったが、あまり寂しさを感じたことがなかった。しかしそれは、きっと周りの鉱山たちや、釜石先生のおかげだったのだろうと思ったのだ。
 八幡は胸ポケットから自分の名刺入れを取り出す。後ろで、大正海上が、いつ名乗ろうかとウズウズしているのを察して、信託が目配せした。
 しかし、八幡の方が早い。
「一応僕も名乗りましょうか。どうも、官営八幡製鉄所と申します。東京へはあまり来ませんが、これからもよろしくお願いします」
「えぇっ!?……それは、うおぉ……」
 大正海上が目を丸くして口を覆った。先程の街路で信託が驚いたときと同じように。信託は苦笑しつつも、頭を下げてその名刺を受け取った。
 目を白黒させていた大正海上だったが、八幡がこちらにも微笑んで名刺を差し出しているのに気がついて、すぐに自身の名刺を取り出した。
「あぁっ、ありがとうございます。自分は大正海上火災保険と申します。ええと、まぁ、八幡さんには国家の自保険があるでしょうが、一応、覚えてくださると嬉しいです」
「おぉ、海上保険の方でしたか!なるほど……」
 お互いに頭を下げてその名刺を受け取る。八幡は二人を見比べて、首を捻った。
「えぇっと、お二人はご友人ですか」
「えっ!?あぁ、あはは……」
 大正海上がその言葉を聞いて、困ったように笑った。八幡は驚いた。その表情にはどこか見覚えの有るような気がする……。一方で、信託はすこし表情を曇らせた。大正海上に目線をやる。大正海上はその目線に手を振り、信託に変わって説明する。
「”大正”という大層な名前ですが、これでも自分は三井財閥の人間なんですよ。つまりは親戚同士というわけです」
 八幡が大正海上の言葉を聞いてあぁ、と合点する。
「もしかして、三井物産さんのご親族ですか?」
 三井物産は長年八幡製鉄所の生産する鉄鋼の民間販売委託先の一人であり、八幡もよく知っている。
「おおっ!よくお分かりになられましたね。そうなんです。元々は……概ね父の船舶部が中心となって生まれたのが、自分なんですよ」
 なるほど、見覚えのある顔は彼の血が……と八幡は頷く。信託は二人の横で、どこか気まずそうに口をつぐんでいた。
 
 三井信託と大正海上、大正期に前後して三井合名の両翼からうまれた二社であったが、その二社の三井財閥における位置づけは大きく異なっていた。そして、それは社名からよく現れていた。
 大正七年に三井物産から生まれた大正海上は、三井合名の「損害保険はリスクが多い」という意見によって、「三井」の名が冠されずに設立された。同時期に三菱合資が中心となって産んだ三菱海上と比べると、哀愁たる格差がある……もっとも、三菱海上には三菱合資保険部という長い前身時代があったので、設立背景も相当異なるのだが。
 大正十三年に生まれた三井信託にも、当初三井合名は難色を示していた。「今更この不景気に信託などやっても、”また”失敗するのだろう」というのが、合名の意見であった。実は、三井にはすでに”信託会社”が存在していた時があったのだ。
 東京信託──三井信託の生まれる十五年前、明治三十九年、未だ信託業関連の法整備も殆どなかった日本で、初めて生まれた株式会社方式の信託会社である。しかし、信託を名乗っていてもその中身は、三井家の不動産管理をするための会社であった。三井組時代から、三井家の資産は三井銀行が管理していたのだが、それを三井銀行の外部へ移行させるために、彼は設立されたのだ。三井銀行で不動産を取り扱っていた岩崎一が、専務となって長らく切り盛りしていた会社であったが、創業九年目、大正四年に第一次世界大戦前の不況による経営不振などの理由で岩崎は退陣に追い込まれたようだ。それに伴って、何故かその他の三井系株主も一斉にその会社から引き上げ、三井との血縁は切れてしまっていた。その後の東京信託は、三井信託よりも一ヶ月早くに政府から”正式な”信託業の免許を受けていたのだが、今年大正十五年にその免許を返上し、社名を「日本不動産」へと変更してしまっている……。
 信託の「東京信託」への認識があやふやな理由は、三井合名も、そして父親だったはずの三井銀行も、一切彼について言及しないどころか、ほとんどタブー扱いされている話題だったからである。三井家には、もはや彼の写った写真一枚すら無い。彼への知識は、彼のことを念頭に置いて三井信託を設立した米山から聞いたことまでしか分からないのだ。とにかく、三井合名が「信託」に対して忌避感を覚えていたことはよく分かる話である。
 だが、その評価を覆させたのは、米山と親しい関係にあった、三井合名理事長、團琢磨による三井家の説得があったからこそである。事務、資本関係的な支援を行った池田成彬と、人間関係における支援を行った團琢磨は、共に米山の信託業を「三井」の中に引き込むため、全力を注いでくれた。その結果、三井信託は比類ない規模に成長し、当初予定していた資本金は三倍──三井合名が「三井」の名を冠するに値するのならば、と言って信託のために大金を出したのである──三千万円で発足したのだ。
 下駄だ──というのが信託の自覚であった。自分は、自分の父親のおかげで、素晴らしい七光りを受けて輝き、あるいは恐ろしいまでに高価な下駄を履かせてもらっている。無論、それは父親が今まで三井で築いてきた人間関係や信頼に基づいて作られたものだ。父親への感謝の情念は尽くすことなど出来ないほどだ。
 しかし、その自分の身の幸運を感じるほどに、大正海上へ同情せずにはいられない。大資本で法整備されたばかりのブルーオーシャンに漕ぎ出した自分とは異なり、大正海上は、東京海上という市場の三割以上を支配する王者の前に、20社以上が皆一割に満たない規模で争っているような難しい世界で生きている。市場での振るわない営業成績に、合名での立ち位置もあまり良くない……。なまじよく会話するだけに、この年上の親戚の悲哀を思うと、世の不条理を痛感してしまう。
 
「貴方のお父様は僕の最大の取引先の一人なんですよ。元より、筑豊の中小企業の石炭はほとんど彼が取り仕切っていますからね。それに鉄鋼の販売委託先の一人として、長年とても頼りにしています」
「あぁ、なるほど、そういうことでしたか。明治のはじめ、父は九州の石炭によって初めて国外市場に台頭することができたと聞いていますから、父としても、九州には相当思い入れがあるでしょうね……昔はよく炭鉱業のお話を聞いたものです」
「あはは、もしかして、三池さんのことですか?」
「えぇ、そうです……三池さんには何本も骨を折られたと。でも本当に、父にとっては良い思い出だったのでしょうね。語り口のわりには、非常に楽しげに、何度もそのことを強調されるんですからね……」
「ふふ……あぁ、それはよく分かります!僕も宴会の席で何度か聞かされたことがありますよ。彼は本当に派手な武勇伝がお好きだ」
 三井物産の話で談笑する八幡と大正海上の横で、信託は自信の胸のうちのざわめきに沈黙してしまう。その顔を見かねた八幡が信託へ声をかけた。
「そういえば、信託君は昼間、三池さんと歩いていましたよね。もしかして、なにか一緒に会議でもしていらっしゃったのですか?」
 驚いたように信託が顔を跳ね上げる。
「えぇっ……、そう、ですね、そんなところです。ちょうど叔父上とは二人で会談していたものですから、そのまま二人で朝食に行こうとしていたんですよ」
 信託は、先程までのどこか暗い顔など嘘であるかのような微笑みで応える。隣の大正海上は、八幡も大胆なことを聞くものだと目を丸くした。
「ごめんなさい。でも、ありがとうございます、こんな不躾な質問に答えてくださって。……しかし、もし、それが製鉄業関連のことでしたら、よければお話できる範囲で教えて下さいませんか」
 信託と鉱山が本当に二人で会議をしていたのだとしたら、それは資本関係の話である可能性が極めて高いだろう。もしかすれば、釜石への資本投下の件であったのかもしれない……八幡は身を乗り出すように、真剣な顔で信託を見つめた。
 信託は少し眉を寄せて固まっていたが、そこへ大正海上が耳打ちする。
「増資の話なら、どうせ後で日経やら朝日やらが書くんだ。官営の八幡さんになら離しても構わないだろうよ」
 不安げな顔をしていたが、その言葉に少し考え込むようにしていた信託は意を決して顔をあげた。
「そうですね、実は僕ら三井信託で、三井鉱山さんの輪西製鉄所の方へ資金援助をすると決めたんです」
「えぇっ──」
 八幡は息を飲んだ。やはり鉱山の製鉄業への増資だったのか、という思いもあった。しかし、それは釜石ではなく輪西の方であったのか、ということに驚いたのだ。あぁ、鉱山はちゃんと輪西のことも気にしてくれていた……。八幡は、先程喫茶店で鉱山にわざわざ輪西の心配をしたことをすこし申し訳なく思った。

 輪西では、三井鉱山によって化学産業への多角化と、平炉の整備による本格的な鋼材市場への進出が行われていた。しかし、当然その経営改革には巨額の資金が必要となる。
 元々、輪西は興業銀行からの融資350万円を元手に行っていたのだが、予算というものは物価の上昇や急な補填などで膨らみやすいものである。輪西の改革でも、興銀のものだけでは足りなくなってしまったのだ。そして大正十五年の三月、三井鉱山の頼った先が、この三井信託であった。

「あぁ、それは──いえ、お若いのに、よく貸そうと思われましたね。製鉄業者に金を貸したがる銀行さんは、滅多にいませんからね……」
 それを聞いて、信託は自信げに胸をおさえた。
「だからこそですよ。信託銀行は通常の預金銀行とは違います。銀行が貸したがらない、不安定なベンチャーやインフラ企業に投資して、より長く広い展望でもって企業を支えるのが私達の役目ですから」
「ははぁ、そうなのですか……」
 誇らしげな顔で語る信託に、八幡の顔もほころぶ。自分よりもずっと若いが、頼りになりそうな善い人柄をしている……。
「では、もし先生──いえ、釜石製鉄所も貴方のお世話になることがあったら、その時は、ぜひ、彼のことをよろしく頼みます」
 八幡は丁重に頭を下げる。信託が驚いて一歩引いた。頭を上げた八幡は真剣な面持ちで言葉を継ぐ。
「釜石製鉄所はすこし無茶をするところがありますが、同時に彼は誰よりも不屈で闘志に燃える男です。きっと貴方がた三井の製鉄業の柱になってくれるはず。どうか彼のことを信じてやってください」
「あ、あぁ、はい!それは、もちろん……」
 八幡の勢いに少し困惑している信託の横で、大正海上が不思議そうな顔で八幡を見ている。
「随分気にかけていらっしゃるんですね……」
 同情的なその目線には、一方で信託と同じく困惑の色が浮かんでいる。わざわざ他社の身内、それも同じ製鉄業者の商売敵に対して、代わりに頭を下げるほどの事があるだろうか、とでも言いたげな顔である。
「釜石製鉄所はかつて僕の先生だったんです。もっとも、今ではほとんど関係はありませんから、純然たる商売敵の一人ですが……それでも、彼には元気でいてほしいと、願っているんです」
 その言葉に、大正海上はハッとしたよう顔で八幡をまじまじと見た。信託も、思わず目を丸くして大正海上を見上げる。

 二人の反応に、今度は八幡が不思議そうな顔になってしまったが、大正海上は目を伏して微笑んだ。
「あはは……あぁ、それは……いえ、そのお気持は、私にはよく分かります。しかし奇遇ですね。やはり人の縁というものは、何かしらその糸を繋ぐ理由がある……」
 大正海上は八幡の言葉を聞いて、思わず、自分の師匠の姿を思い出せずにいられなかった。情のこもった声で、大正海上は自身の身の上を明かす。
「私も、三井に生まれながら三菱の東京海上に育てられた身です。商売敵を気にかける貴方のお気持ちは……非常によく分かります」
 しかし大正海上はここで言葉を区切って、困ったように肩をすくめて微笑んだ。
「最も、僕の場合は……生まれてこの方師匠に負けっぱなしで、むしろ心配されてばかりなんですが……」
 八幡は感嘆した。なるほど、それは奇縁だ。二大財閥の狭間、それもあの競争第一主義の三井物産と業界一位の東京海上の元で生まれるとは!それは、かつて業界一位であった釜石に育てられ、その一位をはるか彼方に奪いさっていった八幡と、境遇は似て非なるものだが、同じように難儀な人生を送ってきたのだろう。
「あぁ、それは……」
 八幡はなんと声をかけるべきか逡巡して、首を振った。いや、ここは言葉を選ぶべきではない。自分の本音をそのまま言おう。
「貴方のお父様の物産は勝負事には厳格な方ですから、相当苦労をなされたでしょう……」
 八幡は心底同情するような目で大正海上を見た。教えを乞うた師に負ける方が辛いか、勝つ方が辛いか。八幡には、片方の苦しみしか知らない。それでも、自身にとって恩義ある存在の身との不平等ほど嘆かわしいものは無いことを知っている。大正海上も目を伏せて少し悲しげに目線を泳がせる。
「そうですね。はは……」
 やはり、親子の間では難しい感情の齟齬があるようだ。八幡が心配そうに大正海上を見つめていたが、彼はパッと八幡の方へ振り返った。その目には、煌々たる輝きが宿っている。
「しかし、師匠の東京海上も、十数年近い苦労を重ねて、ようやく長い経営難から抜け出せたことを、私はその師匠自身から直接教わっています」
 そして、大正海上は、精悍溌剌たる面持ちで姿勢を正した。それはまさしく、財界の恒星たる三井物産によく似た戦士の顔であった。
「私も三井の生まれとは言え、まだまだ生まれて十年も経っていないヒヨッコです。しかしこれから……たとえ何年かけるとしても、そして追いつけないとしても、師匠のすぐ後ろを雁行して見せます。置いていかれるつもりも、彼との勝負を諦めるつもりもありません」
 たとえ自分の過去が、展望が、暗雲たるものであったとしても、決して諦める理由にはならない。常に雲の天蓋によって包まれるロンドンでさえも、日が昇る朝は必ず来る。商売は辛抱だ、大正海上──東京海上は、いつも自分にそう言い聞かせてくれた。気難しく、扱いづらい人だが、彼は本当に自分のことを慈しんでくれたのだ。だからこそ、その恩義に報いるためには、決して諦めてはならない。彼の前に立つことが最大の孝行なのだと、大正海上は固く胸に誓っていた。
 あぁ、いい表情だな──八幡は、大正海上の昂然たる様子に感無量になった。なんとなく……彼の師匠の東京海上のことを、八幡はほとんど知らないが、それでも彼がこの顔を見たら、きっととても誇らしく思うのだろうと想像した。自分も、日露開戦の前、門司港で東北に変える釜石を送り出した時、こういう顔を見せることができていただろうか。
 信託も大正海上の表情を見て、まるで自身の胸の悩みへ一陣の風が吹き込み、その暗部を照らされたような気がした。この義従兄は、決して自分の苦境にめげてなどいないのだ。むしろ、この荒波の中にあってこそ、自身の真価を見せつけるために、奮起している!言葉を失ったように、三井信託は大正海上の顔を見つめた。
 
 大正海上は、自身を見つめる二人の熱い視線を受けて恥ずかしくなったのか、少し顔を赤くして咳払いした。この空気が嫌というわけではなく、むしろ自分の話に耳を傾けてもらったので、嬉しいくらいなのだが、如何せん流石に気まずい。人から褒められたり、敬意の目で見られるのは、まだあまり慣れていない大正海上である。
 どうにか雰囲気を変えるため、口を開こうとすると、そこへ駅員の声が響いた。それは、列車の到着を予告するアナウンスである。先程までこちらを見つめていた二人もその声にハッとさせられたように振り向いた。大正海上も安堵で肩は落とした。運良くも開放された……。
 信託は名残惜しそうに八幡と大正海上を見つめる。お互い全く異なる業種の存在だ。もっと多くのことを語り合いたいものだが、切符が別れている以上は、そうもいっていられない。
「もう列車がきてしまうなんて!あぁ、残念です。本当はもっとお話したいのに……僕はこのまま三等車に乗りますから、お二人とはお別れですね」
 八幡がどこに乗るか、信託には分からないが、少なくともトロッコ然たる三等客車に天下の官営企業が乗るようなことはないだろう。信託は愛嬌のある顔で拗ねたふりをした。
 上目遣いで口惜しそうに視線を横に向けるその顔が、実に子どもらしい。八幡も九州で待っているであろう戸畑のことを思い出し、可愛らしいとばかり、顔がほころんでしまう。そしてかがんで鞄の中を探した。
「そうだな、特に八幡さんなんて次いつ出会えるかなんて分からないからなぁ。いえ、むしろ会えた事自体をありがたがらなくちゃ駄目ですね……」
 大正海上も残念そうに頭を掻いて二人に笑いかけた。そこへ、八幡が鞄の中から出した二枚の切符を差し出す。
 その小さな黄色の紙には「一等」の文字が、黒くはっきりと印字されていた。
「えぇっ!?や、八幡さん!?そ、その、これは……」
 大正海上が驚愕の顔で八幡を見つめる。信託も驚きで目を見張った。流石に財閥の人間として一等客車に乗ったことは幾度かあるが、ただの出張で乗って良いような値段ではない。そんなことをするのは、せめて社員の最筆頭格たる、常務取締役や社長くらいなものだ。
「お気になさらないで、ぜひ受け取ってください。僕は鉄道局の御用製鉄所ですからね……上京用にまとめて何枚もくれるんですよ。まぁ年上の僕からの餞別だと思って」
 どんな顔で受け取ればいいか、そも、これは自分の経営者になんと話せばいいか、二人は未だ困惑で固まっていた。
「ごめんなさい。こんないきなりのことでは、受け取りにくいですね……でも、お二人とは僕もぜひもっとお話したいんです。僕はこのまま九州までずっと長旅をするものですから、暇つぶしに付き合ってくれませんか」
 八幡の言葉に、二人はようやく、ぎこちなく笑いながらも、その切符を受け取る。

 そこへ汽車の汽笛が高らかに鳴り響き、圧倒するような風と共に駅へ上ってくるのが見えた。すでにホームには旅行の出で立ちをした家族連れや、信託らと同じく出張に行く社員、あるいは、八幡のように郷里への土産物を抱えて帰る社員でにぎやかになっていた。八幡は床においていた土産物や鞄を手に取る。見かねた信託や大正海上がそのうちのいくつかを代わりに持ち上げた。八幡は感謝して共に一等車の列へと向かった。
 列に並びながら、汽車の中で何を聞こうかと話題を思い浮かべる。信託も保険も、自分には知らないことだらけだ。それに、彼らならきっと海外へも支店を持っているだろう。九州にしか拠点のない自分には実に憧れる話である。あぁ、海外暮らしのことも聞こう!自分は小説の中や技術者たちの土産話でしか、向こうのことを知らないから……。
 八幡は汽車が吹き上がる石炭の煙を見て、深呼吸した。あぁ、やはり石炭を見ると、郷愁の念に胸がかられる。しかし、今日は実に良い出張になったな……。