「お久しぶりですね」
「はは……あぁ!製鉄合同の会議からは……もう3ヶ月も経ってるからなぁ!お久しぶりだねぇ」
信託を下ろした鉱山の顔は引き攣っていたが、それでもなんとか笑顔を崩さず八幡に応えた。八幡の背には大きなリュックが、そしてその腕には風呂敷をいくつも抱えている。
「こんなところでお会いできるだなんて、嬉しいですよ。僕はちょうどあなたと二人でお話ししたかったものですから」
笑顔で言葉を続ける八幡に、鉱山の眉間に少し皺がよる。信託は困惑するように二人を交互に見た。
「二人で?嬉しいねぇ。おじさんみたいなうだつの上がらない男に、官営様がね……。でも、おじさんがモテたら物産の兄貴から嫉妬されちゃうからなぁ、ダメだよ」
鉱山の冗談にも八幡の顔色は変わらない。笑顔とはいえ、見透かすような射干玉の目で見つめられるのは、半ば不気味なくらいの感触がする。
すると信託が何かを思い出したように、あ、と口を開いて叫ぶ。
「えッあぁ!製鉄で、官営って……八幡さんですか!?」
「あ、うん、そうですよ。君は──」
八幡が信託に話しかけようとすると、鉱山がそれを遮るように手を振って声をあげた。
「いやぁ!悪いなぁ八幡君!おじさんこの子と用事があるんだ。だから今日はこれ以上話はできないね」
しかし、当の信託は鉱山の方を心配げに見つめている。
「え、え、いいんですか!?せっかく九州から来て下さったのに」
鉱山は心底舌打ちしたい気分を抑えて眉間を押さえた。
「あ、いいこと気がつきましたね。そうですよ。私のことを労ってくれませんか、三池さん。お尻壊れちゃうかと思うくらい汽車に乗ってきたんですよ」
「はぁ、おじさんの知ったことじゃないよ。船で来ればよかったじゃないか……」
なんとか八幡をあしらおうと鉱山が苦戦していると、街路の向こうから新しい男が参入してきた。
「信託!?」
街路に高く透き通った声が響き渡る。
その声量に三人が驚愕して振り向くと、声の主と思われる背の高い細身の男が同じく驚愕の顔で此方を見ていた。
「東京海上!?」
唖然とする二人をよそに鉱山がその名を呼ぶと、男は我に帰ったようだ。突然、此方に向かって──なぜか、心底、怒りの溜まったような顔で、ズンズンと此方に向かってくる。端正な顔をしているが、長身の男が大股猛進で迫ってくるのには凄みがあった。八幡や信託はいまだ呆然としているが、鉱山はその様子に苦笑した。これはまた身内と何か派手な喧嘩をしたのだろう。
東京海上は、この日本で数少ない、業界で世界一の規模を誇る会社だ。普段の様子はまさしく、英国で鍛えられ洗練された紳士そのものなのだが、その内面は、宴会嫌いの完璧主義者・気の強さもまた世界一!天下一品の気難しき男であった。おまけに、彼の半身とも言うべき経営者譲りか、興奮しだすといきなり人に演説をぶつけるという変わった癖を持っているのだ。白昼堂々演説をぶつけられるのは困るが、八幡の弾除けにはなるかもしれない──鉱山は渡りに船といった気分であった。
「なんで貴方が日本橋にいるんです?ついに家出したんですかねぇ!?」
鉱山の冷やかしに東京海上は吠えるように言い放った。
「大正海上と会っただけだ!」
大正海上は三井物産の産んだ子どもの一人だが、その世話役を任されていたのが、物産の親友であった東京海上だった。物産と彼の間には長い年月の愛憎劇がある……その結果、かなり気まずい感情を抱くことになった物産と違って、東京海上自身は今なお物産のことを親友だと思っているらしい。実は彼が大正海上の世話役を引き受けたのは、彼ら二人が喧嘩別れをしかけた後(いや、正確には物産が一方的に東京海上に絶交を言い渡したようなものだ……と、鉱山は思っている)のことだったが、彼は物産の子どものために自らの片割れとも頼む平生釟三郎を送り込んで後見人をさせた。部外者の鉱山には両者の気持ちがてんでわからない。一度は絶交を言い渡した相手に自分の息子を預けようなんて都合のいいことを言う物産も問題だが、それを快く引き受ける東京海上も大概だ。東京海上は恩人の物産に対して甘すぎるし、物産自身も、三井の保険業発達のため、三菱系列の東京海上と手を切らざるを得なかった背景があることは、合名づてに聞いていたが実に未練がましい……鉱山は兄貴分の複雑な関係を半ば呆れるような気持ちで見てきた。
そんな複雑な背景をもつ東京海上と大正海上の師弟であったが、1年前、遂に師匠離れを果たすことになり、今ではすっかり商売敵となってしまっていた。しかし、東京海上は、流石に両財閥の彼岸に立つ商売敵として大正海上を救済することこそないものの、未だ親心が残っているようで、大正海上の経営ぶりを心配している。国内のトップシェアどころか世界のトップを走る男だ。国内市場二位の日本海上にさえ三倍の差をつけている東京海上にとって、市場六位の大正海上が彼に向かって反抗したところで到底相手になるわけがない。大正海上の市場における規模は東京海上のたった六分の一しかないのだ。東京海上の余裕ともとれるその態度はある意味現実の残酷な一面を表していたが、大正海上自身がそれを一番よく理解している。
それに親離れをしたのは物産や三井合名の圧力が大きく、大正海上自身の本意とは言い難い。彼ら二人としては、未だ共に仕事をしていたかったのが本音だったろう。関東大震災以来、東京海上は政府と保険金の支援をめぐって奔走していたから、久しぶりに師弟水入らずで談笑していたのかもしれない。
「信託!」
東京海上は信託の前まで来ると、身を屈めてその両肩を力強く掴んだ。
「物産から聞いたぞ。君の父親は──いや、もちろん!私は彼を愛しているとも!彼は実に素晴らしい男だ。しかしながら、彼の裏切りは到底許され得ない!」
東京海上が言ってるのは、おそらく三井銀行の兼営論の話だ。しかし信託はその勢いにさっきからずっと圧倒されっぱなしで、なんと言えばいいか、口を開けて固まるばかりである。東京海上は、いわば”信託の産み親”の一人だ。しかも誰より、ある意味では、産んだ三井銀行自身よりも信託に熱を上げている親であった。
深呼吸をすると、一気呵成に話し始めた。
「いいか!?信託、三井銀行が何を主張しようと、私は絶対に信託業を推進するし、君の味方で有り続けるだろう!」
熱く拳を握って力説する。その熱気に気押されて八幡も口が挟めない。
鉱山も黙ってその様子を見ていた。人の演説に割り込むのは無粋だ。それに……。
「信託、今暇か!?あの独裁気質、吝嗇家共の伏魔殿──三菱にも!信託業にうるさい連中がいる!おまけに、第一銀行が日銀に相当不平を言っているらしい。近いうちに、政府がまた信託業界に何か言い出すかもしれない……」
東京海上はカッと目を見開いて信託の腕を掴んだ。
「君の意見を聞かせてくれ!三菱や三井なんて知ったことか。これは日本の信託業の危機だ!」
そう言うや否や、信託の手を握って自身の根城の東京海上ビルへ向かって歩き出した。信託は振り返って鉱山に何かを言おうとしたが──
「えぇッ!?ちょッ……鉱山さーんッ!?」
信託の悲鳴は、いつの間にか誰もいなくなっていた背後の街路に虚しく響いた。
「クソッなんでついてきてんだ!?お前信託のそばにいてやれよ!可哀想だったろ!」
「いの一番に見捨てた親戚の言える台詞ではありませんね」
八幡は東京海上の怒号の後ろで逃げ出した鉱山を追いかけながら、淡々と応える。鉱山は忌々しげに舌打ちした。
「構わないでしょう?きっと彼は良い人でしょうから、あの……”信託”君って言うんでしたか、あの子を預けても悪いことは起こらないと思います」
あっけらかんとする八幡に鉱山も観念して立ち止まった。そしてうんざりとした表情で睨みつける。
「はぁ……なんでこんなとこにお上りさんが出てきてんだ?官庁舎はここには無いだろ。それとも日銀様に物乞いか?」
皮肉をぶつける年長者に対してもその鷹揚たる態度は崩れない。
「お金の心配は当分しなくて済みそうですから、安心してください。鉄類の関税の件について農商務省の方でいろいろ話をしてきて、日本橋にはお土産買いに来たんですよ」
膨らんだ風呂敷の包みと手提げ鞄を掲げる。日本橋の周りには三越のみならず高島屋などの名だたる百貨店が多いから、郷里の筑豊や二瀬たちのために菓子や道具でも買って来ようと思ったのだ。
鉱山は路傍の欄干に寄りかかって頭を掻いた。
「フン……じゃあ話ってのは何なんだ。美味い菓子屋でも教えれば良いのかな?おじさん舌には自信あるからねぇ」
「うーん、それも魅力的ですが、北九州でも話せる内容ですから、今聞きたいことではありませんね」
「……」
「釜石先生の話をお聞かせ願えませんか」
八幡の射干玉の目が鉱山を貫いている。鉱山は顔を顰めた。そしてぶっきらぼうに言い放つ。
「商売敵に話すわけねぇだろ」
「はぁ……その文句はもう製鉄合同の会議で散々聞きました。買収から2年も経つんですよ。もはや貴方が話さなくても、人づてに聞けば釜石先生に貴方が何を期待しているかは伺えます」
鉱山は舌打ちした。おそらく釜石のことを話したのは物産だろう。物産にとって八幡は指折りの太客だ。何もかもベラベラと喋るようなことはないだろうが、あらましくらいなら話してもおかしくない。
「もはや時効だと思って話して下さい」
「買収に時効ってなんだよ。貸借権か?」
深い溜息をつきながら鉱山は欄干から身を起こした。乗り気ではないようだが、話す余地はあるらしい。
「ありがとうございます。あ、お礼に不二家のケーキでも差し上げましょうか」
手提げの風呂敷から小箱を取りだして鉱山に差し出す。鉱山は呆れたような目でそれを見つめた。
「いや……それ銀座の六丁目じゃねぇか!」
「日本橋に本社のある貴方に、日本橋の土産なんて渡してどうするんです」
「そりゃそうだがな……」
鉱山は目線を逸らして追い払うように手を振った。そんなものは要らないといった態度だ。
「はぁ、話すのは良いが長話になるだろ。ならどっか食堂行かせてくれ。俺は昼飯食ってないんだ……だから俺の飯代を奢ってくれりゃあそれでいい」
歩き始めた鉱山に八幡もついて行く。
「あ、ご紹介してくださるなら僕は銀座に行きたいですよ」
「何でだよ、そりゃ」
「だって、銀座には貴方の身内も三菱も、居ないでしょう」
伺うような八幡の目に鉱山は一瞬立ち止まって思案したが、ニヤリと笑って銀座の方面に歩き出した。
「そうだな。じゃあ6丁目に戻るか?向こうは安田と松坂の植民地だからな……」