『商売敵』(近代財界擬人化)

 互いに頭を下げながらも、足早に去っていく経営陣たちの背を眺め、三井鉱山は肩を下ろした。腕時計を確認すると、時刻は既に12時を大きく過ぎている。なるほど、彼らが急いでいたのもこれか、なんだか嫌われちまったかと思っちまったよ──鉱山は頭を掻きながら立ち上がる。
 三井鉱山は、明治22年に三井が官営三池炭鉱を払い下げたことで生まれた合名会社だ。三池は北九州でも指折りの規模を誇る炭田であり、石炭の質においても中々良い方である。政府から北九州の石炭の輸出を命じられていた物産は、明治初期の頃常に経営不振によって頭を悩ませていたが、そんな中でも三池の石炭は彼の経営を支える大黒柱となり、上海の石炭市場において中国や三菱を相手に物産が勝利を収めたのは、彼の石炭によるものだった。無論三井の炭鉱は三池だけでなく、田川炭鉱、山野炭鉱……と北九州の各地に点在しているが、三井鉱山全体のうち半分の石炭を算出する三池炭鉱は別格であり、三井鉱山の経営者にとっても三池の経営は一つの登竜門とされている。故に三池は三井鉱山の代表者として、そして三井の長老格として、三井財閥に位置していた。
 
 隣の三井信託を見やると、少し緊張の面持ちで正面を見つめている。三池炭鉱──三井鉱山はこの年の離れた甥っ子の肩を叩いて声をかけた。
 「いやぁ、ありがとうなぁ信託!おじさん、もう信託には足向けて寝られないね……」
 信託は一瞬びっくりしたように跳ね上がったが、鉱山の人懐っこい笑顔を見て、我を取り戻したようだ。すぐに彼の父親──天下の伊達男・三井銀行譲りの流麗な笑顔で返事をする。
 「いえ!そんな気負うようなこと、やめてください。自分も、家族を支える側に立てるまでになったのだと思うと、嬉しい限りです」
 そして少し恥ずかしそうに目を伏せた。鉱山は可愛いらしいじゃないかと思って頭を撫でると、信託はムッとした顔をする。
 「あぁ悪い悪い!おじさん、信託のことはいつまでも可愛らしく見えちまうからなぁ……」
 鉱山はその不満げな目を避けるように手を振ると、信託をふりかえってニヤッと楽しげに口角をあげた。
 「この後どうかな、一緒に飯でも?久しぶりに。おじさんが奢ってあげるからさ!」
 「えぇっ……へ、平気ですよ、もう、自分で払えますから」
 「あぁ!信託はそういうとこ駄目だよなぁ……」
 残念そうに首を捻る鉱山を、信託がキョトンとした目で見つめる。
 「いいか?人の善意はなるべく受けとった方が良いよ……変に気を使われるよりも、黙って受け取ってもらった方が、こっちも気持ちいいからな!」

 大正15年3月、三井鉱山は自身の関係会社のために、大正13年に設立されたばかりの三井信託へ100万円の融資を申し込み、信託はそれを受け入れた。
 信託の父の三井銀行は、明治7年に作られた銀行類似会社である。元々、政府は三井組へ、小野組、元官僚出身の経営者らと共に第一銀行を運営するよう命じていたが、小野組亡き後、第一銀行を本格的に自身の影響下へ組み込もうとした三井組は、総支配人の渋沢栄一によって締め出されたのだ。当時、国は国立銀行令を出し、銀行には国立銀行券を発行する権利を与えていたのだが、政府との契約を破って私立の銀行を作った三井にはその権利が与えられず、銀行”類似”会社とされてしまった。そして今ではそのお家騒動の経歴が“日本初の“私立銀行などと謳われている──鉱山は、三井というものはいつでも内紛の果てに物事を改革するのを常に不思議に思っている。
 閑話休題、その日本初の私立銀行から生まれた三井信託もまた、日本初の”正式な”信託銀行である。信託銀行というものは、基本定期預金のみを取り扱い、大規模な投資を行うことで通常の預金銀行よりもずっと大きな金利を与える銀行だ。彼の創設者は米山梅吉、現在三井銀行で独裁的地位にいると言ってもいい筆頭常務、池田成彬の右腕として長年事務・人事担当の常務として十数年雁行してきた男である。三井信託新設の際には、三井銀行から米山派の社員が移動して信託の幹部となり、本店事務所においても、三井銀行と同じく三井本館に位置していたから、本当に三井銀行と瓜二つともいうべき息子であった。ただ、性格においては少し違っていた。理想主義者ながら怜悧で容赦のない一面を持つ銀行と異なり、信託は少し夢想家とも言えるほど、温和で優しい性格をしている。元より、彼の融資先の多くは地下鉄や電力会社、その他ベンチャーといった経営の先行きが不安定な会社ばかりであるから、寛大な性格でなければ到底やっていけないというのもあっただろう。しかしそんな彼の経営は、今のところ夢物語で終わらず万事がうまくいっており、預金額も鰻登り、彼はすでに三井財閥における資金源の一つとして成長していた。
 
「信託は素晴らしいね……こんな不景気でよく業績が伸ばせるよ。これもまた人気者の親父さんのお陰なのかな」
「あはは、ありがとうございます……でも米山社長だけじゃありませんよ。鉱山さんや物産さんや……皆さんの努力からできた”三井”のネームバリューのおかげですから」
 三井本館から出てきた彼ら二人は、日本橋の街路を歩きながらどこか手頃な食堂へと向かっていた。本館の社食や三越の食堂は混むし、味にも飽きたし……とごねる叔父のために、信託はおとなしく鉱山の跡をついていく。
「はぁ、信託は本当にえらいこと言うねぇ。そんなに三井の名前をありがたがってくれるなんてね」
 鉱山の言い回しに信託の顔が少し曇る。
 三井信託は本来、三井財閥から独立する形で作られる予定だったのだ。しかし、関東大震災やら、三井内部からの呼び止め──池田と、鉱山の会長、三池の親父である團琢磨の二人が頑なに、米山と彼の信託に三井への残留を訴えたから、結局彼は”三井”信託として、生まれてしまったのだ。信託幹部の中には、表立っては言わないものの、いまだにそれを口惜しがっているものもいる。鉱山としても、自分の親父が関与していたことであるから、なんとなく信託に対し申し訳なく思っていた。無論、團は三井合名の立場から残留を訴えたのだろうが。
「……何はともあれ、今、皆さんのおかげで成功できているのは事実ですから。僕も心強いんです。一人よりもずっと良かった……」
 信託は少し目を逸らすように下を見て話す。色々思うところがあるのだろう。鉱山は同情の目で彼を見つめる。
「いい、いい……わかるよ。君の親父さんも中々酷い人だ。あんなに”三井”財閥で君を産むことに執心していたのに、できてみたら手のひら返して怒り出してね……」
 その言葉に信託は驚き、思わず鉱山を振り向いた。
 
 鉱山が言ったのは、三井銀行と信託の兼営問題に関する話である。銀行は近頃しきりに信託を銀行の一業務として兼営、つまり合併するように主張しているのだ。
 米山が信託を作る時、銀行の池田はそれを厚くバックアップし、信託の成立時はまさしく円満の誕生に見えた。前述したように、日本における”正式な”信託業は三井信託が初めてであったから(安田銀行、興業銀行は半ば勝手に信託業を行っていた──そして、それは預金協定違反だと第一銀行や三井銀行は昔から主張してきた)、業界の先頭を切って改革することに自負を持つ三井銀行は、我が子の存在に相当鼻が高かったろう。しかし、信託もまた、根本的には預金業を営む会社の一人だ。当然成長するにつれて三井銀行と預金を奪い合うようになり、その関係は悪化しつつあった。銀行が兼営を主張するのもそうした対立からきているのだが、元より三井に留まる時点で相当の妥協をしてきたのに、ここまで言われるのは、信託からすれば全く受け入れ難い話である。
 つまり、皮肉にもその好成績によって、本来味方であったはずの父親から、恨まれる関係へと変わってしまったのだ。
 おお、大正の世に生まれてもなお、三井家の内部争いの血は生きているもんだ──物産は銀行の焦燥に気分がいいのか、呑気なことを言っていたものの、鉱山としてはこれ以上そんな揉め事を増やして欲しくない限りである。ただでさえ銀行と物産が対立するたびに仲裁するのは鉱山なのだから。昔は、このふたりに揉め事があっても全て鐘ヶ淵紡績が上手く捌いてくれていたのだが、三井銀行の象徴・中上川の死を発端とするお家騒動に連座して、明治三十年代後半に追い出されてしまった……。

 そんな学閥の勢力、合名の指導権などを巡って対立しやすい銀行や物産とは異なり、中立的立場を標榜する鉱山がこんなにはっきり銀行の非難を口にするのは意外である。信託はその心中を探るように不安げに鉱山を見つめた。
「おいおい、そんなびっくりしなくてもいいだろ……おじさんだって可愛い甥に同情することくらい許されるべきだ」
 鉱山はその訝しむ顔に頭を掻きながら、苦笑した。
「親父さんの銀行よりおじさんの方が面倒見いいかもな?信託はいい子だからおじさん必要以上に甘やかしちゃうかもなぁ!」
 冗談っぽい口調で、鉱山がその愛嬌ある笑顔を見せると、信託も他意がないことに安堵して肩を下ろした。華のような満点の笑顔で爽やかに微笑む。
「鉱山さんの團会長は僕が生まれる時はよくお手伝いしてくださったでしょう。鉱山さんも僕の産み親の一人だと思ってますよ」
 その言葉に鉱山は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうな顔をして腕を捲る。
「おっ信託……そんなこと言われたらおじさん頑張っちゃうぞ!」
 言うや否や、軽々信託を抱き上げて肩に担ぎ上げた。
「えぇッ!?うわ、えっと……」
「このまま九州まで、逃避行しちゃうか?」
 固まって動けなくなっている信託に鉱山がニヤリと笑いかける。先程とは打って変わって人の悪い顔だ。
「えぇっ……」
 なんと答えればいいかわからず、信託の目が泳ぐ。顔は困惑の色に染まっていた。爽やかな笑顔が本格的に引き攣っている。
 箱入りの信託にはこういう無茶ぶりが苦手なのだ。鉱山が面白がってそのままずんずん歩き出すと、驚愕と羞恥のあまりか固まってしまった。もう大混乱である。
 信託が叔父の肩で震えていると街路の向こうからハリのある青年の声が聞こえきた。
「安心して。そうなったら、僕が門司で助けて差し上げますよ」
 官営八幡製鉄所が、笑顔で鉱山の横に並び立った。