「二瀬……あぁ、あぁ、風呂ですよね。ありがとう。ゆっくりできましたか」
どこかぎこちない八幡の微笑みに、二瀬の眉根が訝しげに動いたが、すぐにいつもの明朗な返事で応えた。
「えぇ。お気遣いありがとうございます。どうぞ早く浴びてきてください。貴方があがるまでは、私もお手紙を書く手伝いをするつもりです」
「ありがとう、でも……」
八幡が慌てて立ち上がろうとすると、手の中のハンカチーフが卓上に落ちる。なにか言いたそうに、八幡の隣でずっとウズウズとしていた戸畑が、目ざとくそれを拾い上げると、二瀬の目の前へ突きつけた。
「二瀬!今すぐこの中身を見なさい!」
「は、はぁ!?」
後輩からの突然の命令に、二瀬が素っ頓狂な声を上げた。
八幡と高雄が驚きと困惑で顔を青ざめさせているのも無視して、戸畑は二瀬にグイグイとその目的物を押し付ける。
「え、えっと……八幡?み、見ていいんですか?」
突然のことで困惑しきっている二瀬は、なんとかその青い包を受け取って、八幡の方を伺いみた。八幡も何を言えば良いのか、顔を歪ませ固まってしまっている。戸畑が激を飛ばした。
「あーもう!こんな八幡のことなんて無視してください!その中身を見てから、この人ずっと落ち込んでいるんです!だから貴方が早く八幡のおしりを叩いて、元気を取り戻させてください!」
勢いよく続けざまに話す戸畑に、二瀬も目を白黒させるばかりだ。二瀬はその口泡を遮るように手を振ると、戸畑に確認する。
「あぁもう!とりあえず……この中身を教えてください!私が見て良いものなんですか!?」
「釜石製鉄所と三井鉱山ですよ!例の買収のときの写真です」
その名前を聞いて、二瀬の顔が一気に険しくなる。
「釜石と三井の……?」
戸畑は激しく頷いた。
「そうです!どうせ商売敵の写真なんて誰が見ようがどうでもいいでしょう!?だから早く八幡に喝を入れて!」
険しい顔のまま、二瀬は八幡を一瞥する。八幡は思わず、目をそらした。煮えきらない上司の様子に部下は目を細め、もはや確認もせずに黙って包みをほどき始める。
二瀬は戸畑が自分に喝を入れろとせがんだ理由を察した。大方八幡は、釜石関連のことで思い悩むことがあったのだろう。
官営二瀬炭鉱は明治32年の生まれであったが、生まれたばかりの頃の彼は八幡に負けず劣らず難題ばかりで、高雄や潤野と共に山の手の鉱山の事務所にいることが多かった。加えて昔の二瀬は、おとなしく淡白な八幡に輪をかけて内向的であったから、筑豊の家に行っても大人たちの団らんの輪の中に全く入り込めず、すぐ勝手に一人で帰っていったものだ。そして、ようやく宴会からあがってきた高雄たちが、稲波川で一人魚と遊ぶ二瀬を迎えに来る……。
二瀬は釜石と会話したことなどほとんどない。八幡にとって思い入れの深い存在であることはよく理解していたが、だからこそ、その関係性は自分が注意しなくてはならない問題であるとも考えていた。過去がどうであれ、今の八幡と釜石は商売敵だ。釜石のことで思い悩む八幡に喝を入れられるのは、釜石のことを全く知らない戸畑でも、釜石に多少の思い入れのある高雄でもなく、彼ら二人の関係に批判的な二瀬自身だろう。
中の白黒の写真を眺めた二瀬は、一瞬目を見開いた。釜石とあまり親しくない彼でも、その雰囲気の変わりようには多少なりとも、驚くべきものがある。
「あぁ、なるほど……」
八幡に思うところがあったというのも、宜なることである。恩師の変わりようの原因の一端が自分にあることを痛感して、同情せざるを得なかったのか。
二瀬はしばし思案していたが、一瞬目を伏せたかと思うと、突然笑いだした。
「良い顔をしていらっしゃいますね!」
八幡はその反応を見て驚く。二瀬は目を丸くする八幡をよそに、その写真をしずかに畳みなおした。
「面白いじゃないですか……」
そして、二瀬はやる気に満ちた不敵な目で八幡に笑いかけた。
「三井鉱山らしい宣戦布告です!八幡……まさかこんな写真一つで彼と手を組むだなんて仰るつもりはありませんよね?」
「……!」
未だ八幡は二瀬の反応に困惑していたが、その言葉には胸をつくものがあった。ぼう然としながらも、自身の心情の僅かな機微が、波紋を広げている。
そこへ戸畑が、八幡の腕を掴んで叫んだ。
「あの性悪男のことですよ!どうせその釜石とかいう男の写真を見せて貴方を自分のカルテルに引き込もうとしているんです!」
戸畑もようやく自分の言いたいことが吐けるといった雰囲気だ。八幡の目を覚まさんとばかり、腕を揺すって捲し立てた。
八幡の機微が更に大きく明らかになっていく。
固まっている上司に代わって、二瀬が苦笑しながら後輩に応えた。
「その言い方はどうかと思いますが……戸畑の言うこともあながち外れていないと思います。彼ならそういう手口も容易に思いつくでしょう」
高雄はその様子を見ながら、八幡の肩に手を置き、仕方がなさそうに笑いかけた。八幡が高雄を振り返ると、その目はどこか楽しそうだ。
「はぁ……全く、こいつら若いのはいつでも燃えてて羨ましいよ!だが……確かに、そう考えると、その釜石の顔はまさに第二回戦って感じがするよな?」
写真の中の釜石の顔を思い出す。あの闘志に満ちた顔!そして、駅で出会った、同じく決意に満ちた顔をしていた、大正海上の言葉を思い出した。彼との勝負を諦めるつもりもありません──そうだ!釜石も、決して諦めてはいない!
八幡はそこで自分の胸の機敏を理解し、苦笑した。
あぁ、やはり……この手口は……三井鉱山らしい!
市場第二位の三井が鉄鋼カルテルを形成するなら、市場一位の八幡を引き込むために必死にならざるを得ないはずなのだ。
昼間の八幡への質問も、この写真も……鉱山の気遣いの裏面には、八幡への謀略が潜まれていたのかも知れない。八幡から釜石への同情を引き出せれば、三井鉱山が形成したがっているカルテルに八幡が加わる可能性も高まると踏んだのだろう。本当に人の心を操るのが好きだ!三井鉱山は……。
しかし、皮肉な話でもある。八幡は思わずなんとも言い難い、どちらかと言えば、鉱山に同情するような気分になった。鉱山はカルテルのために、八幡の同情を引き出したいのだろうが、釜石は正反対だろう。負けず嫌いの彼にとって、他人から同情されることほど、憐憫に思われることほど、屈辱的な話はない。それが自分より年下で、弟分の八幡ならなおさらだ。
八幡は、自分の浅はかさに、思わず反省する。釜石はまだ、闘いたがっているのだ!どうして自分の手など求めているのだろうか?彼を愛しているのであれば、理解していると思っているのであれば、彼の闘争心を受け入れるべきだ。自分は彼の前に、再び立ちはだかるべきなのだ。苦境にあって、それに抗い打ち勝つ時、その存在の真価が発揮される。大正海上の昂然たる様子も、まさにそうだった──彼が師匠に求めていたのは、救いの手ではなく、戦うための剣だ。
人の苦境に一方的に情けをかけるのは、慈悲であるが、それこそ傲慢の一種でもある。こんな考えは、釜石の闘志と、八幡自身の決意に反しているだろう。自分は官営だが、官庁とは違う。常に市場の戦いの最中にいる。たとえ相手が誰であろうと、”資本主義市場の競争においては”決して手加減しないし、”競争相手としては”同情もしないと決めたはずなのに……こんな写真一つで動揺するとは、自分もまだまだ未熟なものだ!
八幡は目を閉じて、深呼吸した。
「はぁ、二瀬……ありがとう、やっぱり、貴方の言うとおりだ。僕も長旅で疲れていたのかもしれません」
八幡は眉根を上げて、参ったような顔で微笑んだ。二瀬は自身げに胸を叩いた。
「ご安心を。たとえ貴方が疲れている時でも、私達が貴方を支えますし、そして貴方も是非、もっと頼ってください」
それを聞いて、肩をすくめる。八幡はいつも自分の内側に問題を抱え込むくせがあることを自覚していた。あぁこれも、子どものころから変わらない点だ……。
「これが貴方と釜石との第二回戦ですよ、八幡。貴方が臨んだ通りの構図でしょう」
二瀬の言葉に八幡は目を閉じる。あぁそうだ、戦いたいと啖呵を切ったのは自分だ!釜石先生はやはり闘争心に燃えていなくては……そうだ、かつて自分が憧れていたように!作業を分担して、大人しく走るだなんて……そんな市場は、つまらない!
八幡はもう一度、深呼吸をして、顔を上げた。その顔は晴れ晴れとしていて、いつもの鷹揚たる八幡の射干玉の目が、天井のランプを白い輝きを反射して、煌々と輝いている。
「えぇ!えぇ……そうですね。僕たちはまだ戦えるんです!こんなに光栄なことはありません!」
八幡は昼間の会話を思い出していた。天下の三井財閥が釜石についた!この国にこれ以上素晴らしい好敵手がいるだろうか?自分の恩師と、そして天下の大財閥と、自分はまだ、彼と戦うことが、研鑽ことができるのだ。こんなに有り難い幸福と名誉を前にして、どうして全力を尽くさずにいられるだろうか。
これからが、自分たちの第二回戦だ。
北九州の八幡の街には、未だ帝都たる東京ほど街路に電灯があるわけではない。寝静まり返った暗い町の上では、よく晴れた満天の星の中をゆるやかに進む月が、ぼんやりとその平野を照らしている。
八幡は長官舎の窓から月を見上げた。時に、この夜空を、製鉄所や炭鉱の煙が隠してしまうこともある。しかし、今日は八幡の地に降りるおろし風が、それらを痛快に吹き飛ばしていた。
未だ冬の残り香を残す凍てつく空気に、八幡の吐息も白く曇って吹き抜けるばかりだ。しかし、その心は震える寒さでさえも忘れるくらいに、喜びで輝いていた。空の上の大きな月が、その炉心に応えるように、一段と白く瞬いた。