暗雲晴れん(近代財界擬人化)

 

 「釜石製鉄所は無事三井鉱山に買収されたそうです」
 日明くる前の早朝、いつものように浜辺を散歩し、四方に落ちている石を眺めていた八幡の元に、二瀬炭鉱中央坑がやってきた。中央坑は、明治32年から開発されたが、完成したのは明治43年であるから、釜石と顔を合わせたことはほとんどなかった。
 彼が言うには、なんと三井財閥が、千万円もの負債を抱えた釜石を引き取って、しかもさらなる拡張をして鋼材市場への大規模な攻勢を狙うつもりらしい。
 八幡は、目を閉じてそれを聞いていた。そして、中央坑の報告が終わると、海の方を眺めながら静かにつぶやいた。
「よかったですね」
 その言葉に、中央坑は少し眉を顰めた。
「よかったんですか?釜石は、この国一番の商売敵の一人でしょう」
 八幡は、不満げな中央坑を見やる。
「厄介な敵が”生き延びて”しまったんです。しかも三井は元々輪西と日本製鋼所を抱えているんですよ。もし彼らと釜石が結合でもしたら、あなたは良くても、戸畑は敗北する可能性が高い。炭鉱だけでなくて鉄鋼の天下をも取りたいというのが彼らの野望でしょう」
 主人に説教をするのは気がひけることだ。だが中央坑も自身が二瀬炭鉱の主力級、それどころか筑豊の三大竪坑の一角をなす大炭鉱で、この北九州の、日本一の製鉄所を支えるものとしての自負がある。
「ええ、三井の願望は強いでしょうね。彼らは主力級の重工業を未だ持っていませんから。鉄鋼を抑えて資源の面から他の財閥の上に立ちたがるのは理解できます」
 八幡とて、別に釜石が市場におけるライバルであることを忘れたことはない。彼が自分にとって、かつての恩師であることは理解していたが、同時に、今や敵として正々堂々向き合う必要がある存在だということも理解していた。だからこそ、市場においても決して手を抜くような真似はしなかった。

「しかしだからと言って、僕は釜石の破滅や衰退を喜ぶような者ではありませんし、釜石に対して蹴落としたいと願う激情を持っているわけでもありません」
「……」
 自分の言葉に訝しむような顔の中央坑を他所に、八幡は海の方へと歩き始めた。
 この感覚は、挫折を知る者でなければわからない。

「私たちは本当に大変な学問の中にいる」
 失敗と苦痛、それが近代日本の製鉄業の命運だった。
 長い挫折の果て、戦時需要でようやく掴む一瞬の栄光!
 それは、日本の近代産業の負の側面の象徴であったが、確かに一つの真実であった。
「釜石の苦しみは僕にも……分かるとは言えませんが、それでも同情できます」
 ああ、かつての師の言葉を思い出した。負けたままで、悔しくないか……。長い挫折の中にあって、今、釜石は何を考えているのだろうか。自分を倒すために、燃えているのだろうか。

 釜石のように、他社に闘争心を燃やして生き残るには、八幡の心はあまりにも平坦で、その規模は圧倒的すぎた。この国で、彼は競わずしてすでに王者となる定めが待っていた。呉製鋼所も、競争相手として、闘争心や怒りを持って見るには、あまりに規模もその存在の意味合いも違いすぎていた。
 だから八幡は、釜石のように他者への怒りや闘争心によって立ち上がるのではなく、不条理で醜く、他者を傷つけることでしか生きることのできない自分を直視し、許すことでしか、挫折を克服することはできなかった。

 これもまた命運だ。
 八幡が和田を無くしてしまったのも、一つの苦難であって、それでも自分たちは暗雲の中でもがき続けなければならない。呉製鋼所だって、きっと幾度も失敗を重ね、苦しい思いをしてきただろう。何より、彼だって予算を得る苦しみを共に経験した者同士なのだ。
 皆苦しむ。莫大な暗雲の中で、私たちはいつでも成功の光を求めている。
 日本の製鉄業は、常に苦難の方が多い。艱難辛苦の産業だ。そしてその苦しい世界の中で、戦わなくてはいけない。そこに挑めば誰もが、挫折を体験するだろう。あるいは身を破滅させるに至るだろう。それでも近代国家は、鉄鋼無くして発達し得ない。誰かが、鉄鋼を生産しなくてはいけないのだ。そして、それが自分達であっただけなのだ。

 八幡には、釜石の没落を喜んだり、見下したりするような心は一才無かった。ただ、彼の苦節に、彼のために同情していた。

「釜石先生──」

 今日も八幡の海に朝日が差し込む。曇天の多い八幡では珍しく雲一つない快晴の朝やけである。星空が陽の光に照らされて青く滲んでゆく。闇は西の海の果てに沈みゆき、清々しい風が山手の陽光と共に駆けてくる。平坦なる八幡の大地に光が満遍なく満ち満ちてゆき、八幡の影が、静かに海へ向かって伸びていった。

「先生もまだ僕の前に倒れたくはないでしょう。僕に勝ちたいと、もがいているんでしょう。」
 釜石は波打ち際の前で止まった。海の向こうの夕闇から振り返り、山の果ての陽光を望む。
「もしかすれば、貴方を日本一の地位から引き摺り落とした僕を、今や憎んでさえいるのかもしれませんね」

 八幡は静かに、朱い陽を背にする穏やかな青い丘陵を眺めた。この視線の果て、東北の地で、釜石もきっと同じ光を浴びるだろう。師匠の姿を思い出す。あの人には、いつでも自信に燃え盛る姿が似合う。三井という後ろ盾を得れば、きっと今まで以上に八幡に対する闘争心を剥き出しにして殴りかかんとしてくるはずだ。釜石はいつだって八幡の後を追ってきた。自分の喉元に食いかかるのも、後は資金の問題だけだ……。

 

「それでも、いつでも。僕は貴方のことを愛していますよ」
 貴方がかつて愛していると言ってくれたように。溢れるその親愛で、自分の不安の全てを拭い去ろうとしたように。自分もまた、今や貴方の怒りを、闘争心を、包み込むだけの慈愛を持っている。
 彼は、静かに釜石の復活を祈った。