「……八幡……あぁ……」
釜石は鉱山の前、食堂の座敷の上で、床の上で頭を抱えるようにして泣いていた。
鉱山から八幡の話を振られるまで、彼の涙は、絶望的な自分の未来と、期待から逃げ出せない恐怖に対しての涙であったが、八幡のことを思い出して、今や過去の思い出に縋って泣いていた。
鉱山はその様子を、仕方がないという様子で同情しながら、穏やかに話しかけた。
「あの時は……なんつうか、不思議な空間だったよなぁ……」
釜石の背を撫でながら、かつての和やかで、温かく、団欒に満ちていた日々を思い出す。
「商売敵でも、なんでも皆集まって、八幡のために一喜一憂してた……」
八幡……温かな鉱山の声が溶けるように釜石の脳に響いてくる。あぁ、彼が泣いていた時、たった一度だけ、自分達に涙を見せた時、あの時の彼の涙も、今の自分と同じだったのだろうか。
「グゥう……ッ」
自分の至らなさに、釜石の喉から懺悔のような唸り声が搾り出された。八幡の苦悩を何もわかっていなかったのだということを痛感させられたのだ。彼が泣いていたのも、きっとこの恐怖だったのだろう。自分にとっての期待が、彼にとっての愛情だったのかもしれない。
「可愛かったな……八幡は……。お前さんよりずっと素直で、揶揄いがいがなかったのだけが残念だがね……」
鉱山は苦笑しつつ頭を掻いた。釜石は拳を握って震わせる。
自分は、彼を追い詰めていたのだろうか?素直で、未だ打たれ弱かった彼に、あまりにも重すぎる愛を、熱情と期待をぶつけてしまっていたのか?自分は、本当に浅はかだった……。
「お前は筑豊の爺さんのこと、よく八幡のこと可愛がりすぎだって言ってたが……俺から見たら、お前も大概だったぜ」
本当にその通りだ!自分は、本当に八幡のことを愛していて、大切に思っていたのだ!八幡……あの時、お前が泣いていた時、俺はお前の苦しみを何もわかってやれなかった。でも、それでも俺は、お前が涙する苦痛など全て否定してやりたかったのだ。どうにかその不安を包んでそのまま拭い去ってやりたいと思っていたのだけは、真実だ!
なんと不甲斐ない先生だろう。自分の感情だけ押し付けて――
「でも八幡も……なんやかんや言って、やっぱ一番お前の側にいたよな……」
……引っ込み思案な彼だったが、時折自分へ相談してくれたのは、本当に自分のことを慕ってくれていた証拠だろう。こんなにも浅はかだった自分を、それでも慕ってくれていた。
あぁ、八幡が泣く原因になった開始式の前も……。
『先生は、こういうのって怖くないですか』
怖く──
「きっとお前のことを、頼りにしてたんだろうなぁ……」
突如、記憶の中の八幡の目が、脳に響く鉱山の声が、釜石の喉を締め付けた。息が荒くなる。瞳孔が狭まり、心臓が──早鐘を打って止まらない!
「まぁ、お前さんはただの歳上じゃなくて、”先生”だったからな──」
三池の、穏やかなはずの鉱山の声が、鋭利な杭となって突き刺さる。
八幡が今……大人になった八幡が、いや、そうでなくとも、かつて自分にあんな不安げな目で助けを求めてきていた子供の頃の八幡が――こんなにも恐怖で押しつぶされそうになって、床に疼くまる自分を見たら!一体、彼はどんな目で自分を見るだろうか……?
釜石の首筋に再び冷や汗が流れ出す。手が……震えて止まらない。涙が再び床に落ちる。
「釜石……」
鉱山の、その温かな優しい声が……釜石の首筋を、舐め上げる。
「どうしてお前は泣いてるんだ?」
釜石の荒い息は止まらない。背を撫でる、無骨ながらも素朴で人好きのする鉱山の手が、釜石の心を目掛けて這いずり上がってくるように、背筋を震わせる。
「悔しくねぇのかよ……」
突如とした鉱山の奇妙な言い回しに、釜石は困惑した。
だが……その言葉は、釜石の心に、ゆっくりと絡みついてきて……。
鉱山は、穏やかな笑みで、温かな声で、優しい手つきで釜石を慰める。
「俺は、お前に失望した奴らに、お前がどんだけ優秀で努力家なのか見せつけてやりてぇよ」
突如として、釜石の心は、引きちぎらんばかりに締め上げられた。恐怖と困惑と怒りと焦燥と!濁流が堤防を打ち破るような、言い表し難い感情に切迫した顔で、釜石は跳ね上がって鉱山を顔を見る。
彼の目は、やはり優しかった。北九州の年長者として、彼はいつものような、穏やかで、余裕のある笑みを湛えている。
「官営に負けてムカつかないのか……?」
──海軍に負けてムカつかないのかよ!
「田中家が破滅したのは八幡のせいだろう……」
──和田が首になったのも呉のせいだろ!?
かつて釜石の言った、八幡に向けた言葉が、こちらを丸呑みせんと──
鉱山は微笑むように目を伏した。身を乗り出して、釜石の肩を掴んだ。釜石は恐怖で後ろ手をついたが、ガッチリと掴む鉱山の手からは到底抜け出せそうもなかった。
「このまま……負けたままで良いのかよ……」
どこまでも、包容力に満ち溢れているかのような慈悲の声で、鉱山は釜石に語りかけた。
しかし、そこにはすでに、温和な年長者の顔はなかった。
常に野心に溢れ収まるところのない、獰猛で残忍な!狡猾たる”三池炭鉱”の本性剥き出しの、大蛇の目だ。獲物を見るようなギラついた目が、こちらを見ている。それは、釜石が今まで一度も、見たことのなかった鉱山の姿であった。冷や汗で、自分の体が何処までも冷えきっていくような感覚を覚える。
釜石は、いつの間にか、自分の涙が止まっていることに気がついた。
「やっぱ強ぇよなぁ八幡は……なんたって、最初っから、とんでもなく馬鹿でかい上に、最新鋭の設備、つけてもらったんだからなぁ。動き出したら、もう、そりゃまさしく市場のバケモンよ……」
釜石は、鉱山から逃れたかったが、体がこわばって動けない。一体、鉱山は、何を言いたいんだ?
「あいつは……銀行のガキ共に頭下げたことも、首が回らなくなった時に限って金巻き上げにくるあいつらの顔も、見たことないんだろうなぁ……」
鉱山の声が、重苦しい……憎しみや妬みや侮蔑を湛えた、恐ろしい声色へと変化する。
「金の弱み握られて、あいつらの前に項垂れて、偉そうなこと説教される!」
「……」
鉱山の顔が、歪んだ。
「本当に……見たかったぜ……。久しぶりに会った銀行の兄貴の前に座ったお前が、どんだけ惨めな姿してたかさぁ……」
惨めな……!かつての、日本一の自負心を背負っていた時の釜石なら、かつて八幡が憧れていた自信に満ち溢れていた時の釜石なら、間違いなくこんな言葉を聞いた瞬間に殴りにいっていただろう。だが、今の自分には言い返せない。あの時の自分は、本当に、銀行の前から逃げ出したいくらいの気分だった。あの……嫌味ったらしい、紳士ぶった、いけすかない、三井銀行の前から……。
なんだ……この気分は?折れて心中にズタズタになっていたはずの……自負心が、震えている。
「お前昔……兄貴に収支の誤魔化しやったんだってなぁ!駄目だよ……アイツにそういうことしちゃあ……それでなんか言われたんだろぉ?」
今度は、釜石の顔が歪む。
嘲笑うような目で、鉱山は釜石を笑い飛ばした。
「可哀想に!」
可哀想!?この俺が……!?心中が一気に、何かの爆発で膨らんだような気がした。グツグツとした音が、釜石の体のどこかから聞こえる気がする……。
「でもしょうがねぇよなぁ、お前は、金のことになるとてんで”馬鹿”なんだ……借りた金なんてもらった翌日に全部使っちまうよなぁ!兄貴が嫌うのも道理だよ……」
釜石は、ようやく、三池が自分を挑発しているのだと気がついた。
自負心の欠片が、煮えたぎる心中の中で溶け出す。そうか、この気分は……今まで長い間忘れていた……!鉱山のギラつく視線に、歯を食いしばる。心中に突き刺さった言葉の傷口から耐え難いような感情が溢れる。
鉱山は笑う口元を手で隠すように覆う。
「にしたって……よもやあんたみたいな歴史ある男が……まさか収支誤魔化すようなくっせえ真似するなんざ──」
ついに釜石が必死の形相で鉱山の胸元を掴んだ。彼は荒い息で呼吸していたが、もはやそれは恐怖ではなく、憤怒による呼吸だった。
殴りかかってきた釜石の右腕を掴んで、鉱山はさも嬉しそうに笑う。
「おうおう!ようやく元気出てきたじゃねぇかぁ!」
「舐めんなよ……三池ェ……」
屈辱に震える釜石を見て、
「いや?なんたって天下の釜石”先生”だ……舐めちゃいねぇよ」
肩をすくめて冗談を言う鉱山に、釜石の手が震える。
”先生”……!釜石の怒りが、その一言で動揺して動けなくなってしまう。
鉱山は、その手を掴んで釜石の顔を引き寄せた。
「先生よぉ、やっぱ……絶望には……怒りだよなぁ。憎しみだよなぁ。闘争心だよなぁ!」
先程までとは打って変わって真剣な目で釜石の目を覗き込む。釜石の瞳孔が震える。鉱山は釜石の頭を撫でるように掴んだ。釜石の頭に登っていた血が緩やかに降る。しかし未だ怒りは収まってはいない。
「やっぱアンタはブチ切れるとできる人なんだよ……なぁ!今俺にキレた時……怖いだなんて思ってたか?」
……本当にその通りだ。鉱山につかみかかった時の釜石の頭の中は、間違いなく、先ほどまでの恐怖と絶望など一瞬で消え去っていた。侮辱に対する怒り、悔しさ、馬鹿にされたままでたまるかという闘争心が!釜石を突き動かしていた。さっきまであんなにも、絶望に打ちひしがれていたのに──今は、全く、そんな気分にはなれそうもない!とにかく、この腹に一物を隠す恐ろしい男の前で、そんな姿は絶対に、見せたくない。
鉱山は改まるように座り直すと、いつもの温和な姿に戻ったように頭を掻く。
「釜石……」
訝しげな顔で睨む釜石に、鉱山はつぶやいた。
「やっぱお前がぶっ壊れたのは八幡のせいだろ」
釜石の、目が見開かれた。噛み付くように反応する。
「またいきなり意味の分からないことを──」
「おいおい自覚すらできてないってかぁ?」
鉱山はため息をついて、釜石を呆れるような目で見た。
「今のお前が八幡に勝てるとこあんのかよ?」
厳しい言葉が釜石に突きつけられた。何も言い返せない。もはや自分にとって八幡を超えているのは、歳が上ということだけだ。しかし、鉱山が言いたいのはそういうことではないだろう。
「だからどうした……お前は一体どこまで俺を挑発したいんだ?」
未だ湧き上がる激情を抑え肩で息する釜石を、鉱山は睨みつけて怒鳴った。
「なんでその怒りを八幡に向けられねぇんだよ!」
再び牙を剥くような顔を見せた鉱山に、釜石はいきなり冷水を浴びせられたような気がして動揺の顔を見せた。
「……はぁ?何言って……」
「なぁ教えてくれよ釜石……お前さぁ……今の八幡見てどう思うよ?」
「……じ、自慢の弟子だよ。いつだって!俺の、」
鉱山が首を捻って露骨に舌打ちした。
「じゃあ鉄鋼価格の崩壊は誰が起こしたか言ってみろよ!」
激昂するような声で鉱山は釜石に食いかかった。それはまるで鉱山自身の怒りで釜石を飲み込もうとするような勢いを持って迫ってくる。
「市場独占して、挙句にお前らの民間販路にまで侵略してきた奴の名前言ってみろ!」
現実を突きつける激しい鉱山の声が、動揺する釜石の心を鷲掴みにする。
日露戦争以降、八幡は常に市場の半分以上を独占し続けた。どんな不況の中にあっても、彼は常に生産高を上昇させ続けた。他の製鉄所や製鋼所が急激な不況に喘いで生産高を落とした時も、彼は陸海軍、鉄道院という絶対的販路、安定の基盤を維持していたのだ。さらに、大正期に入って複数の財閥系商社と契約して民間への販路の拡大に務めた彼は、他の製鉄所に衝撃を与えた。
それは、圧倒的で無慈悲な怪物が、市場を侵略して破壊する景色そのものだった。
今の彼は、もはや釜石や他の製鉄所の十倍近い大きさで持って、並み居る数多を薙ぎ払う、怪物であった。彼は、自分のような基盤を持たない他の製鉄所ために、手心を加えることも、救うということも、無かった。
釜石もその現実は痛く、理解していた。それでも、八幡を憎いとは、思ってはいなかったはずだ。
そもそも彼を育てたのは自分なのだ!それに彼を育てている時から、彼がこの国の鉄鋼市場でそのような存在になるかわかっていたはずだ。自分は八幡を愛していて、たとえ彼に経営を押されることがあっても、自分は──
「覚えてるだろ!お前らが第一次の世界大戦の後で苦しんでる時、八幡が何したか……」
市場の供給過多、ピークの半額を割る凄まじい価格の破壊にも関わらず、止まらないどころか増加し続ける、八幡の鉄鋼生産!市場の不況にあっては、企業同士の骨肉を食う体力勝負が始まる。最も体力が多いのは、間違いなく国税を背景にする八幡だ。それは、他の製鋼所の経営を引き裂く、あまりにも残酷な行為であった。
「それとも、もうわかんなくなっちまったか?お前さんも……もう到底八幡どころか弟分の戸畑にも抜かされちまったから……諦めちまったかぁ……」
日露戦争の勃発、八幡の独立から銑鉄市場の第一位から蹴り落とされた釜石は、いつの間にか、輪西製鉄所にも、八幡の弟分として大正八年に運転し始めたばかりの、東洋製鉄戸畑作業所にも、敗北していた。日本の資本主義が発展し、資本の集中が進む中で、すでになんの資本的後ろ盾を持たない釜石には明らかな競争力の限界がきていた。
落ちる釜石の順位に対し、八幡の成績は、いつでも上がっていく。
それはまるで、かつて自分の抱擁から一人で立ち上がった八幡が、こちらを振り返りもせずに出ていった、あの時の背中のようで──もう、自分を必要としていないのだと、教えられているような気がしていた。
「さっきお前は銀行のことで激昂してたがなぁ!そんな羽目になってんのも……八幡に経営押しつぶされて、動けなくなっちまったからだろうが!」
釜石は歯を食いしばった。動揺する心が一気に反発する。
「それは違うだろ!それは……」
「なんだよ」
冷淡な声と目が釜石を突き刺す。なぜだか、釜石はそこにかつての弟子の顔を思い出した。いつでも、彼はどこか遠くを見てるような目で人々を見ていた。まるで眼中にないかのように──いや、自分は何を考えている!?八幡はいつでも、穏やかで優しい子だっただろう!こんな、目の前の大蛇のような男の目に、自分は一体何を見ているんだ!?
釜石の頭は混乱し始めていたが、気を奮い立たせた。
「それは……俺の……俺の!不始末だ……八幡には何も関係ないだろ!」
「お前の不始末ね……」
鉱山の目が細められた。
「市中銀行相手にそんな恥まで晒して、なんで今更天下の八幡様の師匠が名乗れるんだ……?」
雷に打たれたかのような言葉だ。
こんな恥を八幡に知られたら、彼はどんな顔をするのか──
「あぁおい釜石!クソッ!そういうふうに考えるようになっちまってるからダメなんだ!」
再び青い顔になって自分の自負心を見失いかける釜石を、鉱山は引き上げるように、胸元を掴んで肉薄した。
「違うだろ!俺はお前に思い出せつってんだ!」
鉱山の激情が、釜石の冷えかけた頭に再び熱気を与える。
「お前が今まで死ぬ物狂いで、恥晒してまで戦ってきた、その意味を!お前も田中家も!なんでそんなバカみたいな規模の拡張をしてきたんだよ!?」
なぜ?なぜ……
「俺は……」
わかってたはずだ。最初は、金なんて関係のないことだと、たかを括ってただけだったかも知れない。でも、途中からは間違いなく、気がついていた。こんな資金の使い方では、いつかきっと、身を滅ぼすのだろうと。
それでも、自分達は拡張する道を選んだ。広がる鉄鋼市場に、なんとか食いつこうしていた。それは──
「お前が!日本一の製鉄所だからだろ!?たとえ恥掻いたって、それでも!この国の頂点で戦いたかったんだろ!」
釜石が目を見開く。「日本一の製鉄所」──あ、ああ、そうだ。世辞ではなくて、皮肉でもなくて、ただ一番古いからということでは無くて──確かに、この国の一番だった時が、自分にはあった!
「あぁ……ッ」
釜石の目には、僅かではあるが、かつて溢れていたはずの自信の光が、瞬いていた。自分は鉄鋼界の覇者で、常に先頭でもって戦うのだという自負が!あの破滅でさえも、決して、それは期待に押しつぶされただけなのではなかった。それは、自分の自負が、溢れるこの自信が潰されたのではない。自負の重さに、釜石の身体が、資金が追いついていなかったのだ!
「お前が日露の後半から鋼材市場に出てった時のこと思い出せ!あの時のお前にとって、八幡は──弟子でもなんでもねぇ!純粋な商売敵だったろ!」
鉱山の激情が、釜石の心に、再び輝きを取り戻し始めた自負心に訴えかけている。八幡のことを弟子だなんて──弟子だから、たとえ負けたって、なんの激情も湧かないだなんて、ただ彼の成長を誇らしく思っているだなんて、そんな言い方は、言い訳だ!昔の自分を思いだせ!お前がもっと素晴らしい自信に満ち溢れていた時!「八幡が憧れていたお前」だった時──お前はそんな言い訳を、八幡の前でしたのか!?
「負けて悔しくないのかよ!」
相手が誰でも!政府でも、海軍でも、それがたとえ──
「八幡に負けて悔しくねぇのかよ!」
今度こそ、鉱山の言葉が真に釜石の心に貫き通った。
あぁそうだ!自分は悔しかったのだ!自分の自負と食い違う現実が、許せなかった!
「釜石!もういっぺん聞くぞ……お前は八幡を、八幡と自分を、どう思ってんだ!」
日露戦争期に釜石が銑鋼一貫生産に躍起になったのも、彼が八幡の成績に刺激されたからだ。
俺が育てた八幡にできて、どうして俺にできないことなんてあるんだ!?
鋼材を作れるのは官営だけじゃあない……見てろよ八幡!俺の鉄鉱石があれば鋼材だって作れるんだ。港や他の地方から長い鉄道で鉄鉱石を運ばなくちゃいけないお前と違って、隣に鉱山を持つ俺が作れば、コストだってずっと俺の方が安い!
後輩と思っていた八幡の好成績を見て、腑に落ちない思いがない訳がなかった。そこには……一人の商売敵としての意識が、確かにあったのだ。釜石はそういう男だった。いつだって、誰に対しても、自負と闘争心で燃えていた。
あぁ!そうだ……あの激情!いつだって八幡の成績を見て拳を握り、武者震いをして猛烈に働いた。俺が民間で一番なんだ、俺が官営に戦わないで、どうして他の奴らになんか任せられるものか!
「俺は……!」
たとえ勝てないとしても、八幡に──自分が育てた八幡に、舐められたくない!諦めたのだと思われたくはない!所詮は民間だなどと侮られたくはない!
俺は──俺はお前の先生なんだ!お前と一番に戦うのは、俺なんだ!
止まっていた涙が激情に押されて再び流れ出る。涙で釜石の瞳が煌めく。それはまさしく、かつて八幡を照らしていた、絶大な自信を持った大男の持つ目であった。
「俺はぁッ!俺は……八幡と戦いたい!アイツに!たとえ追いつけないとしても、それでもアイツの一番前に立ちたい!」
両の拳を握りしめ、獅子のような咆哮が、釜石の体を突いて出てきた。
八幡に対する……この感情はなんだ?怒りでも嫉妬でもない、羨望でもないはずなのだが、何を持っても形容しがたい、抑えることの出来ない激情が、日露の時の、第一次世界大戦の時の、あの熱波が釜石の心に戻ってきていた。闘争心!そうだ……全ての暗雲を打ち消す、無限の輝き!死の恐怖でさえも忘れさせてしまうようなこの狂った感情!
「よく言ったぞ釜石ィ!」
鉱山がかつての燃える瞳を取り戻した釜石を見て、満足そうに拳を握りしめた。ようやくこの男が復活したのだ!歓喜に溢れた声で釜石を激励する。
「俺がお前に力をくれてやる!」
分厚い山の男の手が力強く、釜石の手を掴んだ。その手は灼熱のような闘争心に燃えている。鉱山の口角が、釜石の闘争心に燃え上がったように、頂点へ登った。
「俺がお前に足りないものの全てをくれてやる!俺が!”三井財閥”が!もう一度お前を戦わせてやる!」
鉱山の目のギラつく野望は、釜石にも痛いほど理解できた。彼らにとって自分は一番ではないのだ。財閥の眷属になるような屈辱!かつて自分は鉄鋼業一本の大厦であったのにという矜持……しかし、もはや釜石の頭に、そんなものは無かった。
溢れる闘志が、持ちうる激情の全てを八幡へと向けていた。
たとえ何度挫折しようと、たとえどんな姿になっても……俺は、お前と戦うために立ち上がる!
太陽は、いつの間にか、すでに日本橋のビル群の間へと沈み行き、赤く禍々しい光が窓のガラスを燃やし尽くし、長い影が無数に路傍に蠢き去っていく。高いビル群から落ちた黒々とした影が傾いてゆく。
斜陽に沈みゆく日本橋で、釜石の心は、太陽よりも燃え盛る灼熱の闘志で持って、自分の心を、その展望を照らしていた。