暗雲晴れん(近代財界擬人化)

 鉱山の歩くまま、後ろからついていった先にあったのは、日本橋三越の表口の方であったから、釜石はてっきり三越の食堂に連れていかれると早合点して三越のビルへと入ろうとした。すると鉱山がめんどくさそうに釜石の肩を引っ張って止める。
「おいおい勘弁してくれ。お前さんは三越でもいいかもしれないが、俺みたいに三井本館にいる奴らは暇がなきゃあ毎度ここで飯食わされてんだ……。おまけに、なんつうか、出来が”大衆的”すぎる」
 鉱山は肩をすくめた。今や三井とは遠縁になった三越とはいえ、流石に親戚の本店目の前にして批評をするのは鉱山でも罰が悪いのか、最後の方は小声である。鉱山はそのまま釜石を引きずって、すぐそばに位置する日本式の食堂へと入っていった。看板には「はなむら」と小粋な墨の字が揮毫されている。
 座敷と土間に分かれた店内は、まさしく純日本風の昔気質な食堂の風景であった。平日であったことと、二人が店内に入った時にはすでに昼食のピークも過ぎ去っていたこともあってか、店内は座敷の手前にハンチング帽の老紳士、鍋を前にして独酌するのみである。三池が遠慮なくヅカヅカと座敷の奥へと上がっていくので、釜石もそれについていった。
 壁にかかった大きな黒板の品書きに目を凝らしながら云々と釜石が吟味しようとしたが、鉱山は座るなりすぐさま給仕を呼んで「牛鍋牡蠣鍋各一つ、刺身一つに、はんぺんとお新香各二つ、それから御飯が四つ……あとついでに酒も2本」と品書きも見ずにテキパキと注文してしまった。釜石は呆気に取られて見ていることしかできない。給仕の後ろ姿を眺めながら、釜石は恨みがましそうに口を尖らせた。
「おい嘘だろ!?やってくれたな……」
 対する鉱山はなんだと言わんばかりに座布団の上で足を崩す。
「フン!わかってねぇなぁ……いいか?俺はわざわざ客人のお前のことを思ってこの店を選んだんだ。店の味は俺が一番よく知ってる……”通”のいうことは黙って聞くもんだろう」
「ううん……」
 そういうことなら、これ以上何もいえまい。釜石も観念して座布団に座った。
 もう一度ゆっくり壁の品書きを眺めていると、どれも一才値段が書かれていない。これがお江戸の奥ゆかしさというものかもしれないが、何かとんでもない値段になりはしまいかと、釜石は心配そうに鉱山の方を一瞥した。奢ってくれと頼んだのは自分だが、あまりに高すぎる飯屋ではなんとなく借りを作るようで申し訳ない。鉱山はその目線を察してか、手を振った。
「安心しろよ、こんだけ頼んだって三円くらいなもんだ……」
 その言葉に釜石は安堵して肩を下ろす。大食いの二人が酒まであおって三円で済むなら、東京の食堂にしては平均か、それより安いくらいだろう。

 
 鉱山は釜石が入っていた「二人きりで話したい」という内容が何を指すのか、おおよそ理解していた。
 先ほどまでは年来の友人らしく気軽に会話できていた二人であったが、いざ飯を前にして仕事の話を切り出すに至ると重苦しい雰囲気になってしまう。鉱山の買収も釜石製鉄所の経営が好調でないからものであって、その展望が釜石”製鉄所”にとって明るいものとは限らないのだ。
 主人の方針をどうやって伝えたものか、と鉱山は酒を手中に思案する。色々するべき話はあるが、そのうち少なくとも一つは釜石”製鉄所”にとってショッキングなものになるだろうと見当がつく内容だった。
 釜石は居ても立ってもいられずに思わず口を開いた。
「輪西製鉄所の方も……三池、お前が介入するんだろう。一体どうするつもりなんだ?」
 とりあえず、いきなり自分のことについて話すよりも、同業者のことから聞いていく方が気楽だろうと思っての口火であった。釜石の言葉を意外に思ったのか、三池が少し驚いたような顔をした。
「なんだ?随分輪西のことよく知ってるじゃねぇか」
「そりゃ当たり前だろう。仮にも北炭の子どもだぞ」
 北炭――北海道炭礦汽船は釜石にとってまさに一番の友人であった。いわば親友ともいえる会社である。
 
 釜石では良質な鉄鉱石は豊富に取れるが、口惜しいのは燃料がないことである。なにしろ官営時代は燃料に木炭を使っていたのだから、その面における貧相っぷりは釜石自身も痛感しているところだ。その釜石の燃料事情を支えるのが、北炭一家の一人、夕張炭鉱の石炭であった。釜石の石炭は長らく夕張一点頼みであり、明治40年代からは質を高めるために中国炭との混合炭を使っているが、それでも夕張のものが一番であるのは変わらない。夕張は北炭にとって長男であったから(彼の第一の炭鉱は幌内炭鉱だが、幌内は彼より年上で兄にあたるらしい)、自然と釜石も北炭と会話するようになり、お互いに意気投合、30年来の付き合いにわたる友人となった。
 ああ懐かしい、最近は三井との交渉でめっきり顔を合わせていないが、こうやって酒を飲むときには、いつも三井銀行の愚痴を入っていたな――と釜石は回顧した。
 なにしろ北炭は釜石と同じく、長らく三井銀行をメインバンクと頼んでいた(北炭に言わせれば、元々安田やその他の銀行とも頼んでいたものを、明治32年に三井銀行が北炭株を買収にしたからそうせざるを得なかったらしい)。それが経営不振に至って、ついに三井によってその師とも仰ぐ井上角五郎を奪われたのである。自身にとっての大島高任のような存在を奪われた北炭の怨嗟、どうして釜石として同情せざる得ないものか!……そういえば、物産に対する負のイメージは北炭からの影響も大きかったな、と釜石は思い出した。北炭はその経営再建において物産側の人間と長らく対立していたので、散々物産に対する罵倒を聞かされたものだ。
 そして輪西製鉄所――正直にいって、井上角五郎が北炭から追われた原因の最も大きなものの一つは、輪西に対する多額の資金投入があるだろうと釜石は踏んでいる。それでもそのことをはっきりと北炭に言ってやれないのは、輪西製鉄所は北炭にとってただの製鉄所ではなく、彼にとって最愛の井上角五郎の「遺児」であるからだ。
 井上角五郎は本当に長い間、北炭における製鉄所の運営を願っていた。輪西製鉄所が国の資本投下によってできたとしても、北炭にとってはまさに念願叶った「自分の子ども」であっただろう。彼の輪西への溺愛っぷりはまさしく筑豊の八幡へのそれと全く遜色ない。釜石は彼から散々輪西の自慢を聞かされたが、自分も北炭が製鉄所欲しさに歯軋りしている横で、八幡のことを自慢していたのだから、お互い様である。そういうわけで、釜石は輪西と実際に顔を合わせたことはないものの、親友の子供として半ば親戚の伯父のように、その成長を微笑ましく思っていたのだ。
 しかし、輪西もまた、釜石と同じく慢性的に不安定な経営に悩まされてきた製鉄所であった。三井が介入するに至っても以前輪西の経営は上手くいかず、三井鉱山の釜石買収の一ヶ月前の1924年2月、輪西は日本製鋼所から切り離され、輪西製鉄組合として分離された。
 日本製鋼所は、元々北炭と英国の兵器会社と共同出資で生まれた製鋼所であり、欧米大陸からの輸入銑鉄によって運営されていた、輪西とは2歳違いの兄である。第一次世界大戦に至って、その輸入銑鉄が制限された苦い経験から、北炭は輪西製鉄所を日本製鋼所と合併させた。輪西で銑鉄を生産し、その銑鉄を製鋼所で鉄鋼へ。つまり鉄鋼一貫体制を構想していたのである。しかし北炭は輪西で生産されていた銑鉄の質を見落としていた。日本製鋼所で作る鉄鋼は兵器のためであるが、輪西の生産する銑鉄は鋳物のためのものだったのだ。北炭はなんとか輪西の銑鉄の質を上げようとしたが、結局輸送費の問題にかかって上手くゆかず、日本製鋼所は再び外国銑鉄に依存した。折下、銑鉄市場は大倉(本渓湖)・三菱(兼二浦)・久原(東洋)財閥系列の製鉄業参入とインド銑鉄の大量輸入によって供給過多に陥り、価格は下落していた。輪西としては、兄という販売先を失ったことでかなり苦しい立場へ追い込まれる結果になったのだ。
 一方で、その日本製鋼所も全くの不運であった。日本製鋼所は、海軍の新艦隊計画に応えるためかねてより密接な関係にあった広島の松田製作所を買収し、万全の体制で兵器製造計画を締結したのだが、そこにやってきたのが1922年のワシントン海軍軍縮条約である。よって新艦隊の計画は中止、南無三、兵器製造向けの日本製鋼所の売上は急減した。ここにおいて、ついに輪西、日本製鋼所の合併は分断される。
 新しくできた輪西製鉄組合は、日本製鋼所が中心に、北炭・三井鉱山の三社によって輪西の負担を背負うものであった。要するに、日本製鋼所が輪西の負債を全額負担できる余力を取り戻せば、一年でもって組合を解散できるような構造になっていた。
 
 大正の世にもあって、どうして父親が兄に弟を介錯させるようなことがあるのか。あなや、戦国の世の理は今もなお我々企業の内に生きているのだ――釜石は、つい先日に北炭から届いた、ところどころに涙の跡を残した手紙を思い出して心苦しくなった。
「うん……輪西はなぁ、運が悪い。あの兄弟は……」
 煮え切らない三池の返答に、釜石は単刀直入に切り込んだ。
「輪西は取り潰しか?」
 その言葉に鉱山は顔を顰めた。何か思案するように顎を掻くと、崩していた足を組んで釜石に向き合った。
「いや、俺としては輪西に望みがないとは思っちゃいない。だが親類の北炭や日本製鋼所じゃあ、あれの面倒を見るのはもう無理だ」
「じゃあ、本格的な指導はお前がするわけか」
 鉱山の返答に釜石もとりあえず安堵する。
「おう……お前さんも輪西の知り合いならわかるだろうが、輪西の失敗はあいつの受け持つ虻田・倶知安鉱山の鉄鋼石が低品質なのと、兄貴との連携が上手くいかなかったことだ」
「それが?」
 釜石は早く輪西への指導内容の方を聞かせろとばかりに身を乗り出す。
「まぁ先を急ぐな。今のは後で話すお前さんの指導に関わる話だから」
 む、と釜石は一瞬たじろいだが、三池はそれを他所に話を続けた。
「まぁ俺の指導内容の目玉は、いわば副業の開拓ってところだ」
 釜石のたじろぎは本格的な困惑に変わった。
「はぁ?副業って……あぁ、要するに」
「経営の多角化だ……ま、収入源は多いに越したことはないだろぉ」
 そこで鉱山は手中の酒を飲み干す。釜石はあぁ、と閃いた。
「お前が指導するってことは、化学産業の方面か?」
「うおお!すげぇじゃねぇか。今日のお前さんは随分冴えてるなぁ」
「田舎者でも学問くらいはできるんでね」
 鉱山の冷やかしを釜石は苦笑して受け止めた。
 三井鉱山の代表者、三池鉱山は日本のコークス製造業の指導者的存在であり、近年では石炭化学産業に選出して染料工場なんてものも拵えている。コークス炉で発生する副産物を回収し、それをもとにして薬品を作り出すというのだ。炭鉱屋が染物屋の真似をするとは、釜石には全く想像できない話である。
「どこまで知ってる?輪西に造る新しい炉の種類は言えるか?」
「う、……そ、ソルベー式か?いや、コッバースの方か……」
 確か八幡にはそうした副産物を回収するため、ソルベー式コークス炉とやらを設置して化学産業にも進出したとは聞いている。釜石も第一次世界大戦の際、副産物を回収できるコッバース式を一炉だけ導入していたが、薬品工場の建設までは考えていなかった。要するに、今まで化学産業にはあまり興味を持っていなかったのだ。
「へっへ……ま、流石に見立てくらいはできるかな。ちょっと俺の授業を聞いてもらおうか?」
 鉱山は意気揚々と語りながら徳利に酒を注いだ。
「輪西のコークス炉は副産物の回収がほとんどできないビーハイブ式だ。俺はこれをコッバース式のものに取り替えたい。俺の予定じゃ今年のうちにも第一号をこさえて、来年の夏までには二号も作る」
「随分早いな」
「当たり前だろ。輪西にはとっとと自立してもらわなきゃならん。副産物の回収機構ができたら次は薬品製造工場だ。タール蒸留、ベンゾール、硫酸……」
 指を折って工場を数える三池だが、釜石のよく分からんという顔を見て苦笑した。
「フン、まぁ要するに、俺のところの技術を提供して銑鉄以外のものを売れる様になってもらうわけだ」
「三池、だが……売り先はあるのか?銑鉄業者がいきなり化学業者になったって、いきなり好調な販路が見つかるか……」
「あぁん?そりゃあお前なぁ、なんのための財閥だと思ってる?売り先の心配ならいらねぇよ。ベンゾールだの染料に使えるやつは俺の染料工場で引き取る。残りは全部物産の兄貴の取り分だ。よくやってくれるさ……」
 釜石は驚いた。これではまるで……。
「お前……さっき輪西に自立だのなんだの言ってたが」
「うーん?なんだ?おかしいとこあったか……」
 目の前の男はまさに腹に一物といったしたり顔だ。釜石は訝しむような顔で問い詰めた。
「それじゃ輪西は……ほとんど三井財閥に吸収された様なもんじゃないか!」
「いやぁ、めでたいなぁ。もっと喜べよ釜石!お前の後輩だぞぉ」
 鉱山は楽しそうに笑っているが、釜石としては複雑な心境であった。北炭としては……嬉しいだろうが、どこか気分の良くない話だろう。
「それに、コークス炉を作って工場までおったてるだなんて……一体幾らかけるつもりだ?人の財布を疑うのは申し訳ないが……」
「あぁそれだ!いやぁ、多角化は高くつく、なんてなぁ……」
 はっはーッと鉱山は腹を抱えて笑った。こんなに堂々と冗談を言われると釜石も呆れる気にもなれない。しかし鉱山はそこまで心配していないのか、酒を仰ぐとすぐに落ち着いた顔で応えた。
「まぁなんだ、輪西の金の心配は要らん。北炭には三井合名が直接出資してるんだ。輪西に倒れてもらっちゃ三井の屋台骨に響くわけだな。銀行の兄貴は嫌がるだろうが、三井合名の理事長はウチの親父の團だ。なんとか融資を引き出す……。まぁあとは興業銀行だな。いざとなったら兄貴にも払わせる……第一北炭は兄貴の関係もあるんだしな」
「はぁ……」
 釜石は思わずため息をついた。
「そりゃいいな。財閥っていうのは……本当に、財布が何個もある……」
「なんだよ。嬉しいだろ?お前もその財布にあづかれるんじゃないか」
 羨望とも諦念とも取り難いその言葉に鉱山は意外そうに答えたが、釜石は眉根を寄せて何処か寂しそうな顔をしている。鉱山は首を捻ったが、それ以上は何も追求しなかった。
 そしてようやく本題とばかり、鉱山は手中の徳利を置いて身を乗り出す。
「資金の問題はなぁ、お前さんの方が参ってんだよ……」
 
「三井が輪西に金を出すのは、輪西の親父の北炭が三井合名と銀行の直接の資本下にいるからだ。それとは違ってお前さんは……俺の資本下にはいるが、少なくとも合名からはそこまで重要視されてないと言っていい」
 鉱山ははっきりと釜石の立ち位置を告げた。本題突入というわけか。釜石は身構える。
「おう、ならどうする……俺だって設備捨てる覚悟できてるんだ。勿体ぶらないで教えてくれ」
「設備を捨てるって、なぁ……」
 推し図るように首を捻って、鉱山は腕を組んだ。
「それがお前――製鉄所そのものでも、か?」
 釜石は顔を歪ませた。その返答は、決して想像できなかった内容ではない。第一、三井鉱山が釜石を買収する際、釜石で調査したのは鉄鉱石の産出量だけで、釜石製鉄所の設備には一切興味を示さなかった。釜石の買収は良質な鉄鉱石目当てであって、製鉄所はそのおまけだ、という決定がなされていたとしてもおかしくはない。
「わがまま言ってられないだろ。こっちはもうお前に買われたんだし、鉱山と鉄道だけでも生き残れば、ウチの街だってなんとかやっていける……」
「肝が座ってらァ、有難いねぇ。やっぱ苦労人は違うぜ……」
 釜石鉱山――田中鉱山は、いわば製鉄所の父親のような存在であった。釜石製鉄所は、釜石鉱山あってのものだ。そうでもなければ、太平洋に面する陸の孤島ともいうべき釜石に製鉄所は作られない。
「それに関しちゃあな、ウチの親父の團が……お前さんのとこの鉄鉱石を全部輪西に回せって主張してんだよ。ま、お前のとこの鉱山と輪西の合併がしたいってことだ」
「……なるほどな、だからさっき……輪西の鉱山の話出したわけか」
「おぉそうだ。冴えてるぜ。お前のとこの鉄鉱石の質があれば、日本製鋼所で使える銑鉄も作れる……元来俺たち三井鉱山のモットーは石炭を中心とした事業の結合だ。石炭と鉄鋼も、できる限り結合させたいってのが親父の思想なんだ。だから石炭が取れないお前の土地よりも、石炭も、ある程度の鉄鋼も取れる北海道に注力したがってる……」
 釜石は目を閉じて俯いた。輪西に自分の父親を預けるのであれば……幸福なのかもしれない。気心の知れた北炭の養子だ。きっと無碍にはしないだろう。……良かった……。
「だがこれはあくまでウチの親父――三井合名理事長の意見だ。俺たち三井鉱山合名の意見じゃあない」
 鉱山は語気を強めて語った。
「今俺たち鉱山合名を率いてるのは團じゃ無くて婿の牧田だ。ここ来る前に言っただろ、牧田がお前のとこの三鬼を気に入ったってな。團が輪西に熱中していると言うならば、牧田はお前に熱中してるんだ」
「俺に……」
 先ほどまでの沈鬱な様子から打って変わった鉱山の話ぶりに、釜石も顔を上げる。
「輪西の鉄鋼の質が上がんなかったのは輸送費の問題だっつったろ。お前のとこから輪西に鉄鉱石回すのもタダじゃない。第一製鉄所一個潰すのにどんだけ負債がかかるか……牧田の狙いは、お前のとこでの鉄鋼一貫体制の完成だ」
「……」
 鉄鋼一貫体制!いざ自分に突きつけられると、感慨深い言葉だ……しかし、釜石の心に、突如として言いようのない苦々しい感情が走った。
「お前のとこにも鋼材を作る設備があるのは知ってるが、あんなもんじゃ小さすぎる。まずは鉄鉱石の量から増やさなくちゃならん。第一に鉱山へのテコ入れだ。採掘方式、運び方もウチの技術と資本で抜本的に改革する。そしてお前のとこの旧式の小型高炉は全部大型に取り替えて、銑鉄の製造体制も根本的に変える。ついでに当然……お前のとこのコークス炉も大概はコッバース式に変えて薬品工場のおまけつきだ」
 顔を歪ませる釜石を横に、鉱山は熱を込めて語っている。鉱山の指導者、牧田が熱上げているというのは本当のことなのだろう。釜石にとっては、まさしく自分の本領発揮、喜ぶべきことなのだろうが……。
「当然目玉は製鋼圧延設備と圧延工場の増強だ。ロシア革命で逃げてきた技術者に随分頭の良いのがいてなぁ、そいつの作る平炉がありゃあ、今のお前の平炉の二倍は作れる!そいつを少なくとも二炉以上は投入する」
 釜石はめまいがした。凄まじい改革内容である。ほとんど全ての設備に手を入れているのだ。生まれ変わると言っても過言ではないような気がした。完全なる鉄鋼一貫体制を確立し、もう一度盛り返す……。
 しかしなぜだろうか?本当に、嬉しい内容だと頭では理解している。だがいざその計画を目の前にすると、自分の心には思い何かが暗雲がのしかかって押しつぶされそうなくらいであった。冷や汗が……止まらない。
「おい……もうちょっと喜べ!だが、お前さんの心配もわかるぜ、さっき言った資金源のことだろう」
 鉱山は、壮大なる積極策に全く喜ぶ様子のない、それどころかむしろ顔色を悪くするような釜石の様子に呆れていたが、すぐにその理由に思い至って気を取り直した。釜石の暗雲は一層その質量を増す。この心情は……本当になんだ?資金源に対する不安があるのは事実だが……問題は、決してそれではない気がする。今まで、”こういう時”に、幾度も味わったことのある感覚だ。だが、今日は、その感覚が、気持ちが!悪い……。
「銀行の兄貴はダメだ。多少……義理で出してくれるだろうが……少なくとも最初のうちは俺の財布だけでなんとかする。それに銀行は兄貴だけじゃない、興業や勧業の方にも当然回ってくるさ……あとは、物産の兄貴だな」
「物産……」
 釜石は鉱山の話を半ば上の空で聞いていたが、物産の名を聞いて少し現実に引き戻された感がした。三井物産……本館では、釜石へ随分親切にしてくれた。あの様子なら、確かに金を出してくれそうでだが……。
「……あぁ、だが兄貴に借りるってのは、当然銀行から金を借りるのとは全く別の話になる」
 苦い顔の鉱山に釜石は少し驚いた。
「はぁ、釜石よぉ……兄貴は商社だ。慈善家じゃあない。あの人は筋金入りの商売人だ」
 鉱山は首を捻って深いため息をついた。
「いいか?あの人がお前に”良く”するのは、お前の銑鉄と鋼材の販売権を独占したいからなんだよ」
 釜石は眉根を寄せた……つまりは、輪西の薬品工場と、同じだ。
「兄貴は銑鉄市場の成績が悪い。昨今は輸入銑鉄と他の財閥に押されてめっきりだ。輪西と釜石、お前らの製鉄所に兄貴が熱心なのは、その銑鉄と鋼材の販売権を独占して国内市場を盛り返す狙いがある」
「……」
 頭を抱えて俯き動かない釜石に、鉱山は近寄ってその肩を叩いた。
 物産に販売を全て委託するということは、釜石自身が開拓してきた売り先を手放し、その営業成績を上げてきた苦悩と努力と、そして彼らとの付き合いを失すということだ。三井によって、会社としての付き合いの自由と、過去を奪われる――三池は最初から物産によって販売を行なってきたのだから、その経験を知らない。だが、その苦痛に同情できない男ではない。
「釜石。お前が……自分自身で作ってきた販売先を捨てるのが心苦しいのは分かる!だがな、それでも……お前にはまだそれだけの期待がかかってるんだ!兄貴は喉から手が出るくらいにお前の製品の販売権が欲しい。それはお前の今までの業績があってこそだ。お前にはその期待に応えるだけの実力を取り戻せる!」
「期待……」
 鉱山の熱烈な激励に対して、釜石が絞り出した言葉は、まるで亡霊の呻きのようであった。そして釜石の様子を見て鉱山は思わずギョッとする。彼の首筋には冷や汗が溢れ出し、瞳孔は震えていて、まるで――
「おい!そんなッ……そんなに嫌か?分かった!じゃあ俺が兄貴に掛け合うから……」
 慌てる鉱山に釜石はその肩を押して留めさせた。違う!この動揺は、そういうことではない。
「……そうじゃない……俺は、」
 鉱山の肩に両手を置きながら、釜石は押しつぶされそうな胸から声を絞り出して鉱山を見た。その目は、苦悶と恐怖のような色に満ちていた。
「あぁ……クソッ!」
 釜石は自分の心情を表す言葉を探そうとしたが、到底思いつかなかった。自身の頭を殴り、再び項垂れた。鉱山の肩に置かれた手震えていて、痛いくらいの力がかかっている。釜石の姿に困惑する鉱山は、思わずかける言葉も思い浮かばずにいた。
「三池……」
 歪ませた表情で顔を上げた釜石の姿に鉱山はその困惑を深めた。
 釜石の目には滅多に見ない涙が浮かんでいる。釜石は、言葉を絞り出すように頭を振って、震える声で自分の心情を表した。
「俺は……怖いんだよ……」
「こ、わいって、何がぁ……」
「……お前の、期待に、……応えられないのが、怖い……」
 消え入りそうな釜石の言葉に、鉱山は驚愕した。釜石は……こんなことを言うような男だったろうか?