暗雲晴れん(近代財界擬人化)

 
 大正12年の関東大震災によって崩壊した墨田の街並みは、縁の薄い三池炭鉱社――三井鉱山合名会社にも一抹の寂しさを思い起こさせる。
 上野から続く貧民街然とした長屋を望む隅田川の岸辺は、三池絶好の”黄昏”場所だった。三池にとっては、藝を凝らしたビル群の前に立ち並び一等星をも打ち消す輝きを誇る電灯よりも、遠くに工場の煙突の見える雑踏の長屋から漏れ出るわずかな灯火の方が親近感を覚えたものである。震災によって崩壊した長屋はバラック群に姿を変え、行き場の無い人間たちは相変わらずここで細民として暮らしているのだろう。これから復興に向かっていく墨田の街並みに、果たして彼らの居場所があるのだろうか。
「……」
 三池は長いため息をついた。タバコの煙が目の前を駆けてゆく。晴れ晴れとした日の光にあてられて、長屋の薄汚れた衣服も眩いばかりに輝いている。主人の窮状に相対して、なんと能天気な姿なのか、羨ましい限りだ。三池は目を閉じて何処か暗雲たる思いの止まらない頭を抑えた。

 
 
 釜石製鉄所は圧巻の思いでビル群を見上げる。日本橋も関東大震災で被害を被った地域の一つだと聞いてどうなったものかと色々思案していたが、想像していたよりもずっと綺麗だった。さすが木造建築とは違うのだと感嘆したものである。
 釜石も本社は東京市に位置していたが、仕事場は釜石にあるし有事でもなければあまり東京へはやってこない。流石に関東大震災の騒ぎで京橋の本社が燃えたと聞いた時には見舞いにやってきたものだが、その時の京橋の惨状はまさしく廃墟であった。一方で日本橋の建築物は京橋よりもずっと原型をとどめていたのだ。
 あちこちで工事の足組や大工が見えるものの、オフィス街の会社はすっかり機能を取り戻し、一分一秒を競って生きる会社員たちが今日もこの日本橋で蠢いている。足早に過ぎ去る会社員たちを尻目に、釜石は復興の様子を見回しながら悠々と歩いた。様子はすっかりお上りの観光客であったが、その心中には言いようの無い暗雲が漂っていた。

 本来なら東北や北海道以外には滅多に外出しない釜石がわざわざ日本橋まで出てきたのは、彼が三井鉱山に買収されたからだ。
 三井鉱山との買収交渉は十数度ほど重ねたのだが、ほとんど本店に務める事務員や常務取締役とのやりとりが中心で、釜石には多少の地質調査が入るくらいであった。ほとんど東京に上らない釜石を見かねたのか、あるいは他の目的があるのか、いきなり三井鉱山の方から本館で他の御三家に挨拶して欲しいと言われたので、大震災の本店見舞いから半年ぶりに上京してきたのだ。
 釜石製鉄所が完成したのは明治13年のことである。官営としての釜石での建設計画が始まったのは明治7年、製鉄所の由来としては安政4年の大島高任による洋式高炉建設とその国内初の出銑、さらにその前には嘉永2年の旧式高炉建設による製鉄の開始。そも、製鉄場所として釜石が選ばれたのは享保12年に盛岡藩が磁鉄鉱を発見したからで――と自分の経歴は長々過去に遡ることもできるのだが、全て過ぎ去った時代の栄光だ。官営として発足した当時は鳴り物入りとでも言うべき待遇であった。当初は国内への供給どころか輸出までも構想していたのだが、結局木炭の低品質と技術者の不足、満足にいかない製鉄技術、これらの問題山積によってたったの3年で廃止された。
 しかしこの世には物好きがいるもので、官吏が湯水のように金を使って上手くいかなかった製鉄所を引き受けるという民間人が名乗り出たのだ。田中長兵衛親子――大島高任が第一の恩人とするのならば、彼らは中興の恩人とでも言うべきだろうか。大資本を背にもつ渋沢栄一や古河市兵衛でさえ、その絶望的な運営状況から手を出さなかった釜石である。奉公人出身ながら一代にして御用商人として成功した初代田中長兵衛が、自身のそれまでの成功を棒に振るうことをも厭わず自分を引き受けたのに、どうしてある種の犠牲的な決意がなかったと言えるだろうか?田中家とはかれこれ30余年来の付き合いになるのだが、その勇気を思うと釜石としては頭が上がらない思いになるのだ。
 30余年……明治18年に再建計画が始まってから、長い紆余曲折を経てきた。戦争があれば大いに伸長し、戦時需要が終われば経営は火の車と化し、まさしく一喜一憂の道筋であった。無論田中とは常に一緒にいたわけではない。むしろ田中はずっと東京の本社に居て財務を切り回し、自分が鉄鋼所で鉄を作る役割であったので、顔を合わせるのも年に数度といったところだった。しかし釜石の経営において最も苦難の多かった部門は間違いなく財務の方であっただろうから、田中の苦労を思うと同情せざるを得ない。第一、こんなにも田中家に対する感慨が深くなるのも、三井鉱山への買収が決まった時、ついに親子の子の方にあたる二代目田中長兵衛が死去したこともあるのだ。67歳での死去である。彼の父親、初代田中長兵衛もまた67歳で亡くなった。
 釜石は――彼ら田中親子の寿命を削った一因に、自分の経営があるのではないかとも思っていた。

 
 三井本館は関東大震災で内部に火事が広がり、内装は壊滅的被害を受けたそうだが、躯体は軽傷、債権預金その他金券の類は金庫の中で無事保管されており、二ヶ月にして営業所を復帰させていた。石柱のような白い柱が天井を支え、吹き抜けのフロアには高い窓から日の光が差しこまれている。見る者に荘厳な印象を与える玄関口は、まさに華美で知られる三井の趣味を反映している。
 受付の社員から案内を受けて、釜石は貴賓室の方へ通された。煉瓦造りの壁にはところどころ煤の跡が見受けられる。しかし磨き上げられたように輝く白い廊下、付け替えられた真新しい木々などを見ると、震災にも全く怯むところのない三井の意気込みを感じる。やはり大厦の肝の太さは尋常じゃないなぁと釜石はぼんやり廊下を歩いた。
 貴賓室の木の扉が見えてくると、一気に釜石の心も引き締まる。心臓が早鐘を打ち始めた。自分の前途に対する不安が頭をもたげてきたのだ。釜石は深呼吸をして、肩を落とした。何のことはない。三井鉱山とは今まで何度も話して来たし、三井銀行は……まぁ、今日という日はそこまで手酷いことは言ってこない、だろう。おそらく。三井物産のことはよく知らないが、鉱山が仲介してくれるなら、きっと上手くいく筈だ。
 釜石が自分を落ち着けるために様々なことを考えていると、案内人の社員が貴賓室の扉をノックして開いた。釜石は緊張の面持ちで部屋を覗き込む。
 そこに待っていたのは、三井銀行だけだった。

「……」
 三井銀行は俯くように両手を組んで、椅子に佇んでいた。その雰囲気は不動明王もかくやというものだ。案内してくれた社員も、銀行の沈鬱な雰囲気には驚いたようで、音も立てずにすぐさま出て行ってしまった。釜石はその向かいの肘掛け椅子の中にぎこちなく座る。非常に気まずい。
 銀行は、彼が座るのを待っていたかのように顔を上げて釜石の顔を見た。
「いやぁ、お久しぶりで……」
 相変わらず、難しい顔してくるな――と釜石は苦虫を噛み潰すような気分になったが、なんとか顔に出すまいと、目を逸らしながら挨拶した。しかし、銀行は釜石の姿に少し驚いたような顔をしている。
「……久しぶりに見たと思ったら、少し痩せたかな」
 その言葉に釜石は、顔を歪ませる。
「さぁ、そうかもしれません。何せ、物が売れんで、働けませんから。筋肉も落ちますよ……」
 銀行は少し訝しむような顔をしたが、それ以上は追求しなかった。経営難や本社の焼失然り、色々と気苦労があるであろうことは想像できる。改まるように深呼吸をして座り直すと、銀行は釜石に謝罪した。
「……本当にすまない」
 突然のことに釜石は驚く。
「はぁ……」
 一体何に対する謝罪なのか?他の二社の不在か、あるいは買収内容に関する何かがあったのか、釜石には検討がつかず、生返事をする他ない。銀行は俯きながら応えた。
「物産はおそらく君がこんなに早く来てくれるとは思わなかったんだろう。面会の約束時間までには必ず来るから、安心してほしい」
「それは……別に、俺がちょっと早く来てしまっただけですから」
 時刻は約束していた面会時間の15分前である。まだ来ていないとしても、そこに不平を言うほど釜石は傲慢な性格をしてない。
「あぁ、それと三井鉱山だが」
 銀行はそこで言葉を区切って、体を起こして釜石を見据えた。その眉間には浅からぬ溝が掘られている。怒りとも、あるいは苦悩とも言い難い表情だ。
「さっきまでここに居たのだが、少し口論をしてしまって……私の軽率な発言から彼を怒らせてしまった。飛び出して行って……行方知らずだ」
「えぇっ……ほ、本当ですか?俺……鉱山から挨拶に来いって言われただけで、何すればいいか何も言われてないんですが……」
「……」
 釜石の困惑したような質問に銀行は少し思案したが、やがていつもの平静な顔に戻って返答する。
「それは平気だろう。おそらく……今日の鉱山の最大の目的は、君を物産に引き合わせることだからね」
「ぶ、物産に……」
「……何か不安でも?」
「いやぁ……不安っていうか、今まで話したことないので……」
 フン、と銀行は目を伏して笑った。どこか含みのあるような目でドアのほうを流し見る。
「言っただろう”平気”だと。何せ物産は君に……」
「……俺に?」
「……いや!私が憶測で話すのは良くないね。彼に会えば分かることだ」
 釜石は面倒臭いことを、と言わんばかりに項垂れて首を掻いた。商売人特有の駆け引きなど自分には無縁だ。一体どんな対応をすればいいのだろうか。銀行は不敵な笑みで釜石に目線を戻した。
「しかしとなると、物産が来るまで我々は非常に暇だ……私と君は散々会った事があるからね。鉱山よりもよっぽどの仲だと……私は思っているが、君はどうかな」
 また、含みのある言い方をする。釜石は早くもこの部屋から逃げ出したくなっていた。実を言うと、三井御三家の中で一番釜石との距離が近いのは三井銀行であり――そして一番恐ろしいのも三井銀行なのである。釜石は田中製鉄所時代からずっと三井銀行をメインバンクにしていた。借入の半分以上は三井銀行からのものであり、釜石の経営の苦楽のほとんどを見てきた銀行でもある。
「よっぽどの仲、ですか。そりゃどう言う意味なんです?俺はてっきり貴方から嫌われてるものだと怯えていましたよ」
「何を!私は嫌いな会社に金を貸し続けるような銀行ではないよ……」
 三井銀行は手を振りながらにこやかに話している。しかし、釜石は全くその言葉通りには受け取れない心持ちだった。
 実際に、釜石は三井銀行から貸付を断られた事がある。田中製鉄所時代に、釜石はバランスシートの誤魔化しをやったのだ。おまけに当時は三重の帳簿をつけて収支の計算をいじり、資金を借りるためにはどんな手を使ってでも、と言う勢いだった。その財務の実態を知った三井銀行は烈火の如く怒って一時的に貸付を停止したのである。単に経営難を明かすよりも、経営難を意図的に隠す方が、ずっと銀行側からの信用を無くす。釜石はその一件ですっかり銀行から睨まれていたから、非常に肩身が狭いのである。
 そんな釜石の様子を他所に、銀行は軽快な調子で輝かんばかりの営業的笑顔を見せた。
「君が私に誠実でいてくれれば、私はいつだって誠実な銀行として君に全力を尽くすとも!」
 さっきまでの沈鬱な面持ちの男はどこに行ったんだ?釜石は苦虫を噛み潰すような顔をして頭を抱えた。三井銀行は銀行界随一の皮肉屋なのだ。釜石にはとかく早く物産に来てもらい、この男との空間から救い出してくれと願う他ない。
「勘弁してくれ……」
 釜石が絞り出すような声でうめいていると、ドアの方から軽快に響く足音と甲高いノック音が響いた。

「申し訳ありません!まさか釜石さんがこんなにも早く来てくださってくれる方だとはつゆ知らず!全くもって手前共の不肖の致すところで……」
 ドアから現れた三井物産は、挨拶をしようと立ち上がった釜石の姿を認めると、顔色を変えて駆け寄り、まさに恐縮至極の顔色で自身の遅刻を詫びて頭を下げた。遅刻と言っても釜石が予定より早くに到着しただけで、物産が入ってきたのはちょうど予定の5分前である。釜石はその勢いに気圧されながらも口を開いた。
「いや、お気になさらないでください。今日日はどこの商社さんも復興の資材探しで忙しいでしょうから……」
 釜石の言葉に物産は顔を上げる。
「あぁ!ありがとうございます。貴兄のことは義弟の三池、いや三井鉱山からよく聞いておりましたが、ようやくお会いできて嬉しい限りです!」
 物産はにこやかに話しながら、釜石の手をとって固く握った。その輝く熱視線と満点調子の笑顔に、釜石は圧倒されて二の句が告げられない。おまけに、その姿は全くもって思い描いていた物産像とは違うので、ギャップに雷を打たれているような気分だった。義弟の三井鉱山は、散々彼のことを「気難しい」男だと表現していたし、実際挨拶にくる前も「物産に対する言葉には絶対に気をつけろ」などと中々恐ろしい助言をされていたのだが、目の前のにこやかで表情豊かな男がそれと同人物とは信じ難い。
 三井銀行も物産の方を一瞥しただけで、何も言わずに座っていた。
「貴兄と三井銀行が取引なさっていたことは手前共、物産会社でもずっと話題だったのですよ。いつか手前共も取引をしてみたいと――それがまさか!三井の傘下に加わってくださるとは!貴兄のような由緒正しい製鉄所をお迎えできるとは、こんなに名誉なことは滅多にございません!」
 愛嬌たっぷりの笑顔と身振り手振りで三井物産は釜石に自身の溢れんばかりの熱情を語った。その様子は彼のいう通りまさに歓喜に満ち溢れているようだ。釜石はむず痒い気分になってしまう。世辞でもここまでの反応をされたのは初めてである。
「ありがとうございます。自分もこれから物産さんには色々とお世話になると思いますから、よろしくお願いします」
 釜石は物産の手を握り返して頭を下げた。物産は嬉しそうに深呼吸をして、釜石に向き合う。
「えぇ!えぇ、勿論!なんて言ったって貴兄は名誉あるこの国一番の製鉄所なのですから!我々三井財閥が必ずや再建させて見せますとも!」
 それから自身の右手で威勢よく胸を叩いた。
「ぜひ鉱山のことをよく頼ってやって下さい!それに手前共も資金面での援助は可能です。貴兄がお困りとあらば必ずやお助けしましょう!」
「物産」
 そこで初めて三井銀行が口を開いて物産に声をかけた。物産は水を差すな、というように口を尖らせて年下の義兄である銀行を一瞥した。その咄嗟に出た不機嫌な表情でさえも持ち前の愛嬌が貫徹されているのだから、なんというか、商売人は恐ろしい、と釜石は苦笑した。
「実は釜石君が来る前に、私と鉱山で口論してしまってね……それで彼が怒って出て行ってしまったんだが、行き先に思い当たるところはないかな」
「えぇ!?こんな大事な面会から飛び出して行ったんですか!?」
「あぁ、だが私の落ち度だ。あまり怒鳴らないでやってくれ」
「なっ……」
 物産は困惑したように何か言葉を飲み込んで思案し始めた。
 三井鉱山、ひいては三池炭鉱と物産は、三池の払い下げよりもずっと前から続いてきた仲である。物産はそれこそ生まれてすぐに政府の命によって三池の石炭を取り扱うようになり、さらにその石炭によって明治初期の苦しい経営を支えられてきた。三井の資源といえばやはり三池の石炭であり、そしてその石炭をあちこちに売り回るのが物産であり、二人はまさしく刎頸莫逆の義兄弟である。本来三池は物産よりもずっと歳上なのだが、元来の(表面上は)温和な三池の性格と、訳あって三池の経営者が物産の経営者に頭が上がらないことから、三池は物産の弟分として収まっていた。
 鉱山のことを一番よく知っているのはお前だろう――銀行の言わんとするところは物産にもよく分かっているが、だからと言って、激情して出ていった鉱山がどこへ行くかなどといきなり聞かれて分かるものでは無い。それに仮にも客人の前でこんな身内の不始末を見せるなどと……物産の心中には銀行と鉱山に対する怒りが湧いてきたが、一旦落ち着いて質問に答えることへ専念した。
「そうですね、私が思うに、まぁどこかの川岸で黄昏ているんだと思います」
「黄昏てって……」
 釜石が呆気に取られていると、物産は申し訳なさそうに苦笑して手を振った。怒りか焦りか、少し引きつったような笑みである。
「あぁ、義弟はなかなかああ見えて感傷的な所のある男ですから。昔から長屋の方を見て色々思索するのが好きな変わり者でして、隅田川沿岸のどこかにいるとは思いますが……申し訳ありません」
「そりゃ大変だ、どうやって捕まえますかね」
「それは……私が思うに、両国橋から隅田川を上っていけばきっとその付近で見つかると思います。両国の方へは此処から歩いて行けば3、40分くらいですかね。向こうにはまだ戦災の避難民によるバラックが残ってますから。長屋の代わりに見物するとしたら、きっとバラックでしょう」
 両国と言われましても、釜石は困惑した。自分はお上りさんで東京の地理はめっきり知らないのだ。せいぜい東京駅前の、それこそ新橋から日本橋へかけて位の範囲の地理しか分からない。さすがに両国と言えば西欧流の壮麗な橋と歌舞伎座だということは知っているが、実際に見に行ったことがあるわけではない。
 釜石のそうした不安げな顔を見てか、物産は慌てて言葉を継いだ。
「あぁ!勿論、貴兄は座って待っていてください!わざわざ釜石の方からご足労をかけていただいたのに、どうして貴兄にこれ以上無駄に歩かせるようなことができるものですか。このような不始末は手前共が解決いたしますから……」
 物産はそこまでいうと銀行の方を睨んだが、義兄はただ肩をすくめるだけだった。一方で、釜石は自分を座らせようとする物産に断りを入れる。
「いえ、別に今は疲れていませんから、多少探しに出るくらい全く問題ありません」
 心配そうに伺いみる物産に釜石は笑って頭を掻いた。
「それに鉱山にはちょっと二人きりで聞きたいことがありますので……」

 
 物産は未だ話したらないというようなそぶりで釜石が鉱山を探しに行くのを引き止めようとしたが、それならまた夜に話したい、ということで折り合いをつけて、彼はようやく三井本館から抜け出してきた。
「義弟から貴方は中々酒に強いと聞いております。ぜひ一献でも千献でも傾けさせてください。それに今日は貴兄の歓迎会ですから、遠慮せず好きなものをご注文なさってくださいね!財布も全て手前共が持ちますから!」
 両国橋への地図を手渡しながら、物産はすでに待ちきれない、名残惜しいとばかりに釜石の手を固く握った。
 釜石も物産の好意はありがたく思っている。三井からすれば、資本関係の希薄で部外者のような自分に対して懇ろにしてくれるだけでも感謝の気持ちでいっぱいである。しかしながら……兄の銀行は自分に対してそこまで歓迎していないように思えたが、どうして物産はあんなにも熱烈にアプローチしてきたのだろうか?
 三井家内の温度差の妙を考えながら歩いていると、あたりはすっかり工事の足組みとバラックばかり、荒野の街並みへと変化していた。あたりの電柱には、未だ人探しの張り紙がいくつか残っている。被服廠跡の遺骨拾いはすっかり終わったのだろうか、ところどころ何かを探すような人影が見える。死者三万八千人の悲劇の上に家屋を立てるのはさすがに恐れ多いのか、ここだけはバラックもたたず剥き出しの瓦礫が野晒しにされていた。
 今はちょうど三月の盛りだ。気持ちのいい晴天で、風もそこまで強くはないが、路傍の張り紙たちのひらひらと心もとなく揺れる姿を見ていると、今にも剥がれ落ちてしまいそうな様子であった。
「……」
 晴天に暗雲を見るような心持ちである。復興の目処が立っても、すぐに生活が取り戻されるわけではない。少なくとも向こう二、三年はかなり厳しいだろう。
 政府の復興案では、鉄骨による大規模な近代的インフラ整備によって帝都を一新する計画が押し進められているようであり、そうなれば製鉄所の成績にも多少見込みがある、というのが政財界に人脈の広い三井鉱山の意見であった。釜石は思わず自嘲する。三度の戦争、そして次は震災!自分の好成績は人間たちの悲劇によってしかならない!
 いや、今更自分が悲劇だなんだと言える立場ではないのだ。……釜石は、自身の身に起こった労働争議を思い起こし、顔をひどく歪ませた。戦争で莫大な利益をあげ、製鉄所内では長年人を酷使しておいて、どうして今更自分に人間たちへ同情する権利があるだろうか。こんな感情を持っていたとして、なんの罪滅ぼしにも、言い訳にもなり得ないのだ。
「あぁくそッ!」
 釜石は自分の頭を殴った。どうしても、人と話でもしないとすぐに自己嫌悪に走ってしまいそうになる。出口のない苦悩が自分の頭を蝕んでいる。釜石はその暗雲を振り払うように頭を振って前をむき歩き出した。どちらにせよ、三井の傘下に入ったからには、自分に大規模な変化が起こるだろう。今から気弱でどうするんだ!
 
 大股で歩き出した釜石が一意専心に隅田川の沿岸を上っていると、やがてついに目的の男の姿が見えた。
 黄昏ているだろう、と兄の物産が語ったように、鉱山は黙って向い岸のバラック群を見つめてタバコを蒸している。
「おぉいッ……三池!」
 釜石が声を張り上げると、三池と呼ばれた男――三井鉱山合名会社は驚いたようにこちらの方へ振り向いた。