あおい空、きいろかった玉子

「おんしらァ文化史やきって明代作品の暗記に手を抜きなさんなや!ワシはまぁーっこと期末に出すきぃ今から覚悟して暗記しちょくこったなーッ!」
 世界史の名物教師、豊川良平は威勢のいい台詞と共にドアを景気良く開け放して出ていった。それと共にチャイムの音が鳴り響く。金曜四限の世界史は豊川の長話によって五分近くずれ込むことが常態化していたが、今日の授業は運良くそこまで長引かず、それどころか時間きっちりに終わったので生徒も安堵して肩を下ろした。
 その生徒の一人である武藤は、豊川の時間厳守退陣を祝う周りのクラスメイトをよそに、テキパキと教科書などをまとめて廊下のロッカーへ向かった。今日は彼女の千代子もいないので、早めに食堂へ行って、行列ができる前に食券を取ってしまいたかったのだ。しかし、思うようにことは運ばないのが世の常である。折り悪く一人の同級生が武藤に声をかけた。
「おお武藤!珍しいな。もう豊川の授業が終わったのか?迎えに行ってやろうと思ってたんだが」
 生徒会で議長をしている武藤の友人、池田成彬であった。四限の体育はプールであったようだ。脇に抱えていた青いバックを自身のロッカーに押し込んでいる。武藤はチラリと一瞥すると、ロッカーを閉じてそっけなく答えた。
「冷やかしですか?すみませんが、私はもう食堂に行くので……」
「おい!冷たいな。彼女のいないお前がさぞ寂しかろうと思って誘ってやったのに……」
 池田はニヤリとしがら武藤をみる。武藤は呆れるように肩を落とした。
 池田は中学校時代、武藤と同じく生徒会にいたことからよく知るようになったが、高校に上がってから池田の方が理数科へいったため、文系の特進科に進んだ武藤とは全く別れてしまった。しかし元来二人とも日本画や焼き物など芸術好きで、中学時代から美術館や博物館を巡っていたのが、高校に上がっても続いていたから、友人として付き合いが続いていたのだ。
 武藤が池田をどうあしらおうか悩んでいたところに別の同級生が武藤の背に声をかけた。
「おぉー!そういや今日日は千代子ちゃんいないから武藤も暇なのかぁ!」
 廊下によく通る声の主は武藤のクラスメイト、日々翁助だ。武藤は項垂れる。周りの生徒も苦笑してその様子を見ていた。気恥ずかしさに武藤は居た堪れなくなる。
 日々は中学時代から武藤と池田に共通する友人だ。常日頃親友の池田と共に食堂で昼飯を食べているのだが、陽気で面倒見の良い人間であるから、武藤が一人で食事をすると知れば当然池田と共に問答無用で連行していくだろう。
「あぁ、わかりましたよ、一緒に行きますから……」
「なんだ随分暗いじゃないか!まさか一日彼女が居なくなったくらいで落ち込むとは情けない!」
「いやぁ、やっぱ愛が深いと反動も相応にでかくなるみたいだよな……」
「そういう!あなた方の冷やかしにうんざりしてるだけです!」
 池田と日々の揶揄いに武藤が声を上げると、階段から駆け上がる音が聞こえた。
「あぁっ!武藤先輩……」
 見ると、応援部の一年の津田であった。一年の教室のある二階から三年のいる四階まで駆け上がってきて息が上がったのか、階段の手すりによりかかって肩を上下させている。
「津田!珍しいな。応援部の用事か?」
 武藤が声をかけると、津田は深呼吸して武藤をまっすぐに見据えた。池田や日々は突然の訪問客に目を丸くして黙っている。津田の勢いに凄みを感じて武藤は面食らったが、津田はそのまま熱意のこもった目で訴えた。
「いいえ、違います。でも、もし武藤さんに暇があるなら、少し話したいことがあるんです!」
 武藤は目を丸くした。そして少し困惑した。確かに今日の昼休みは特に食べる相手も決めていなかったので、暇ではあったが、池田たちと学食に行くと言ったばかりであるから、少し気まずい気持ちがあったのだ。しかし、その武藤の無言の目線の意味を理解した池田は、苦笑して肩をすくめ、階段に向かっていった。日々も少し困惑していたが、池田の立ち去るのを見て、武藤たちに応援するようなポーズをとりながら階段へ後を追う。後輩の熱意に水を差すほど野暮ではないということだろうか、武藤は苦笑しながらも友人の采配に感謝した。
「えっと……そうだな、一緒に話すのは良いんだけど、僕、弁当持ってきてないから学食に行く必要があって」
 武藤の言葉に今度は津田が目を丸くした。一瞬顔がこわばったが、すぐに気を取り直して脇に抱えていた二つの弁当を見せた。
「ああ、それなら俺が持ってきてるので大丈夫です。先輩は……その、今日は彼女さんがいないから、要り用かと思って……」
 少し申し訳なさそうに話す津田を見て、武藤はどこか気恥ずかしくなったが、先ほどの池田たちの揶揄いに比べれば全く気にならない。それにわざわざこんなものまで用意してくるとは、相当重大な話ではないかと心構えができた。武藤は津田の差し出した弁当の一つを受け取る。
「ありがとう。それで……どこで話す?今日は晴れだし、屋上にでも行こうか」

 津田は一年ということもあり、武藤も彼について詳しく知っているわけではなかったが、努力家で正義感の強い男であるから、なんとなく昔の自分を見ているようで武藤もよく気にかけていた。加えて武藤は割と素直な性格であるから、自分に好意を向ける人間には快く思うタイプである。
 三つの棟があるうちで屋上への階段が開放されているのは、最も低い事務棟の方であった。昼休みには図書館や職員室に行く人々と幾人かすれ違ったが、あまり人の行き来する棟ではないから、教室棟に比べればかなり静かであった。階段を上がると上履きの音が白い壁に反射する。屋上階へ続く階段には電灯がなく、薄暗い踊り場には使われていない椅子や机がいくつか重ねられていた。津田は初めて来る空間に一層緊張が加わったが、武藤が屋上階のドアを開いた瞬間に青い鮮烈な光が飛び込んできた。

 白い屋上と周りを囲む青い空は非常に開放的な空間であった。この高校は都市部から少し離れた自然豊かな田園地帯に位置しているから、当然周りに高い建物もないので、向こうの群青の山々まで爽快に見晴らせるのだ。東の平地には田園やビニールハウスが横並び、山々へ向かっては家々が点在している。縁に沿って伸びる白い幹線道路の上に動く車の反射が瞬いては流れていった。西の川を隔てた先には都市部があり、合集する灰色の直方体の中心に位置するビル群は、ガラス面に青空や雲を映し出し、山々とはまた異なる絶景に思われた。
「すごく良い景色だろう?どこまでも見渡せるし……すごく静かなんだよ。でも階段が暗いせいか、あんまり人が来ないんだ」
 武藤は高い手すりを掴んで遠くを見つめていた。津田も初めてきた空間だが、辺りの絶景には思わず引き込まれてしまう。先ほどまでの緊張も忘れてしまいそうなほど、胸が晴れわたるような気分になった。
「一応朝吹先生に確認して、入っても良いとこだって聞いてるから、安心してくれよ」
 冗談っぽく笑って武藤は手すり足元の塀に腰掛ける。津田もそれに続くように急いで隣に座った。そして武藤が弁当を開けようとするのを見て、忘れかけていた緊張が一瞬で思い出された。
「わざわざ弁当まで持ってくるなんて……悪いね、でもありがとう!君が作ったの?」
「は、はい……。毎朝自分で作ってるので、二つ分作るくらいなら余裕ですから」
 津田は自分の声が震えを少しでも抑えようも意識していたが、その緊張ぶりは武藤にも伝わったのか、武藤はにこやかに笑った。
「はは……すごいな!自分で料理ができる人間は素晴らしいよ。いつも作るメニューを考えて、その上で腕を研鑽する必要があるんだから」
 武藤は津田の緊張を解くように明るい調子で話しながら、弁当の蓋を開けた。ついに中を見られるにあたって、津田の緊張もピークに至って思わず声をあげた。
「あの!」
 武藤が驚いて津田を見ると、彼は至極申し訳なさそうな顔で赤くなっていた。
「す、すいません、ちょっと……今日の弁当、焦がしちゃって」

 

 普段通りの料理であるはずだった。六時前、いつもより少し早く起きたが、武藤先輩に料理するとあらば脳みそも顔を洗い終わった頃には眠気を忘れ、すぐにキッチンに立って準備を始めた。冷凍していたご飯を熱し、先に弁当箱へ詰めて冷ましておく。ためていた惣菜を詰めて、焼き魚と卵焼きを準備するため、フライパンに油を入れた。
 しかしこれが失敗であった。実は津田はあまり卵焼きを焼いたことがなかったのである。水曜日の帰り際に山口先輩から武藤先輩の鉱物が焼き魚と卵焼きであることを聞いたため、急遽作ってみようと思い水曜日の夜から練習していたのだが、畳むのはうまくいっても、焼き加減が調整できないのだ。強火で焼き上げるのがボリュームある卵焼きを焼くコツだと知って、挑戦してみるものの、どのようなタイミングで畳めばいいかわからず、焼きすぎてしまうのだ。卵が固まりきる前に畳めばならないのはなんとなくわかるのだが、卵が半生になってしまわないかという恐怖が、畳むタイミングを一歩遅れさせてしまう。
 そして金曜日においても、畳むのは非常にうまくいったのだが、見事に焼き過ぎてしまった。完成したばかりの立派に膨らむ焦茶色の枕を前に津田は頭を抱えた。加えてその苦悩を抱えたまま魚を焼いた結果、油断していたせいで魚にも一面に焦げが入ってしまった。津田は心痛の思いに至った。
 自分はどうするべきだろうか?水曜日からの練習のせいで卵の在庫が既に無くなっていることに気がついて津田は自分を恨んだ。どうして昨日のうちに買ってこなかったのか!早朝であるから未だスーパーは開いていないだろうし、近くのコンビニまで行っていると時間が間に合わない。となれば自分の選ぶべき道は、この卵を入れるか、それ以外の惣菜を入れるかだ。しかしそうなると惣菜の種類が足りないので冷凍のものを入れることになる。津田は悩んだ、が、福原の言葉を思い出し、リビングの携帯を取った。一人で悩むよりも、誰かに話した方がスッキリ決められる。しかし誰に話そうか?山口や福原にかけるのは申し訳ない。今日は遠足行事で忙しいだろう。となれば同級生か。同級生、それでこの登校前の忙しい時間帯に話せそうな――津田は思案を巡らせて一人の友人に電話した。

『津田、お前本当に……すごいな!よく先輩に自分の料理振る舞おうと思えたもんだ』
 電話越しから低いながらもはっきりとした声が聞こえる。感嘆するように話す声は万代順四郎のものであった。
「まぁ、武藤先輩はこういう誠実さが好きな人だから……。でも今ちょっと料理焦がして……でも武藤先輩の好物だから、入れようか迷ってるから、お前の意見聞きたいんだ」
 津田の質問に万代はうん……と唸り声を上げて思案し始めた。早朝いきなりの質問にも真面目に相手をしてくれるのがこの男のいいところだと津田は再認識する。万代順四郎は津田と同じく一年生のクラスメイトである。二人は高校に入って出会ったばかりの関係であったが、お互いに気が合うのですっかり親しい友人になっていた。普段は温厚で大人しい男でありながら、何事にも自分の意志を持って取り組む芯のある人物なので、津田にとっても信頼して相談できる相手だった。おまけにクラスの誰よりも早起きで、七月初頭の林間学校でも五時前には起きて一人宿泊施設を散策していたところ、寝ぼけた他のクラスの人間に幽霊の類だと思われた男である。今は六時半を少しすぎたくらいだが、万代ならばもうこの時間には家を起っているだろうと踏んで電話したのだ。おまけに家が5キロも離れているのに歩いて登下校する尋常ではない男だから、電話ができない場所にいることもないだろう。
『あぁ、津田、俺が思うに……きっと入れた方がいいよ』
 万代は再びはっきりとした声で意見した。
「お前もやっぱりそう思うか……」
 津田はうめいた。心の奥底ではそれでも入れるべきだという思いがあったが、確信ができずにいたのだ。
『武藤さんが誠実な人なら……お前の失敗を責めたり笑ったりはしないだろうし、きっと同情して許してくれるよ』
「……」
 よく理解しているところだった。武藤は努力した結果のミスに怒るようなタイプではない。
『冷凍食品はいつだって同じ味を味わえるけど、お前の料理はお前しか作れない。先輩に弁当渡すなんてさ……人生に二度とない機会だ。なら失敗したことも含めて全部詰めるべきだ。きっとその方がお前自身にとって後悔しない』
 津田は目を瞑った。後悔――確かに、後悔するかもしれない。せっかく渡すのであれば少しでも手を込めたものでありたいのが熱血漢たる津田の思いであった。武藤が自分の料理の失敗に何か言うのだとしたら、隠すよりもむしろその評価を聞いた方がスッキリするだろう。自分の中に確信が湧いてきたような気がして、顔を上げた。
「うん……お前の言う通りだな。やっぱ万代と話すと心強くなる。もしこれで何か言われたら、いっそのことなんて言われるのか知りたくなってきた」
 津田の声色も段々とはっきりとしてきていた。心を決めたようである。万代はいつもの調子を取り戻しつつあった友人に安堵するように朗らかに笑った。
『はは……お役に立てて嬉しいよ。嬉しい結果であったらいいな』

 しかして、津田は卵焼き、魚の双方を入れてきたのであるが、やはり時間が経つと人の決意は揺らぐのだ。失敗したとはいえ先輩に焦げたものを食わせるのはどうしたものかという疑念が津田の中に渦巻いてしまっていたのだ。しかしもう入れた以上は変えられないし、自分の決断を捻じ曲げるのも情けない。どうしようもない迷いを前に、武藤先輩が持ってきてくれればという一縷の望みを抱いていたが、残念ながらそうはいかなかった。というわけで、観念して武藤に弁当箱を渡したのだが、そうすると武藤に焦げてしまった料理を出してしまうことに対する申し訳なさが立ってくる。廊下を歩いている際もそのことが脳内を旋回して止まなかった。屋上の景色で少し緊張も緩んだが、緩んだものが引き締まるとなおさら急激に上がって止まらなくなる。武藤が弁当を開けるにあたってついに緊張が頂点に達し口から出てしまっていた。見られて不愉快に思われるよりは、はっきり白状してしまった方が楽だと思ったのだ。
「す、すいません……」
 武藤は急に声を荒げた津田に目を丸くして驚いていた。そして弁当の中を見る。津田は見ていられない気持ちになりながらも、訳を話した。
「山口さんから武藤先輩は卵焼きと魚が好きだと聞いたので、頑張って作ろうと思ったんですが……今まで卵焼きは作ったことがなかったせいか、失敗してしまって……。でも!せっかく先輩とご一緒に食事できるのもこれが最後かもしれないと思ったので、それなら……たとえ失敗したものでも、自分の心を込めたものをお渡ししたかったんです」
 話すうちに、津田の目線は下に泳ぎ始め、声は段々と小さくなっていた。地面に落ちる青黒い自分の影に思わず気分まで引き摺られそうな気がしてしまう。しかし最後の一言を前に、万代の電話で決意した時の感情を呼び起こされたような気がして、背を正し目線を武藤の方に戻した。武藤は少し驚いたような顔であったが、至って真面目な顔で津田の方を見ていた。そしてその言葉が終わると、頬を緩ませて笑い出した。
「ははは……なんだ。そこまで気を使わなくたっていいのに!」
 微笑ましいような、苦笑するようなその笑い方に、津田はどういう反応をすればいいか分からず、たじろいだ。武藤は温和な目で続けた。
「それに、僕に食べさせるならなおさら焦げてる方がいいよ」
「え!?」
 武藤の言っている意味が一層分からず津田の口からは驚愕の声が出た。武藤は恥ずかしそうに笑った。
「なんだ。僕の好物は知ってるのに食べ物の趣味は知らなかったのか?まぁ変な趣味だから言いたくないけど……僕は焦げてる食べ物の方が好きなんだよ」
「えぇ……っ」
 津田は絶句した。これは……良かったというべきなのだろうか、空いた口を塞げず固まっている津田の横で、武藤は卵焼きを頬張った。
「ううん、うん、いや美味いよ。慣れてないった言ってたけど……全然気にならないな」
「ああっ!あ、ありがとう、ございます」
 武藤の褒め言葉に、津田は姿勢を正して答える。武藤はなおも弁当を食べ続けているので、津田も自分の弁当箱を開けて食べ始めた。とりあえず、自分の選択で武藤を不愉快にさせず済んだのだろうか。
「……パンでも魚でも、焦げてるくらいの方がおいしく見える……だから自分で焼くときはいっつも余計に焼いてるくらいだ。それに、たとえそうでなくとも、作ってもらったものを受け取っておいて、失敗にどうこういう男じゃないよ」
 白米を飲み込みながら武藤は津田に語った。そして真面目な顔で津田を見つめる。
「それで、本題は何を話すつもりだったの?」
「!」
 自分の本来の目的を思い出し、津田は再び体が固まる思いになったが、武藤との会話で多少も緊張ほぐれている。深呼吸をして自分の言葉を伝え始めた。
「その、感謝の気持ちというか、尊敬してますってことを話したくて……。武藤先輩はもう夏前には応援団を卒業するじゃないですか、壮行会の時にみんなと一緒に言うのは、満足にできる気がしなくて……」
 武藤は黙って聞いていた。
「自分は……よく熱血漢だとか真面目だとか言われますが、あんまり積極的な人間ではなかったんです。何かをやると言われれば全力を出しますけど、自分からその何かをやろうとする人間ではなかったんです。でも入学式の時に武藤さんを見て、なんというか初めて……あぁやってみたいって思って。」
 津田は言葉を続ける。
「それに芸術のこととかも……俺、全然そういうことに興味とかなかったし、触れ合う機会とか考えたこともなかったんです、でも、先輩が話しているのを聞いて、そういうことにも目を向けられる人間になる必要があるんだなって気がついたんです。自分には別に趣味とか……なかったんですけど、きっとあった方がいいって。自分の人生のためにもなるし、他人と話すきっかけにもなるし……」
 そこまで言って、津田は少し目を伏せた。ここから先は、言っていいものか迷ったものだが、こういう二人だけの空間なのだから、洗いざらい話そうと思って顔を上げた。
「武藤先輩の生真面目なところは……融通が効かないとか、人に揶揄われることもありますけど、でも俺にとってはすごく憧れます!武藤先輩のおかげで自分はすごく……良い方向に変われたんだって思ってますから、だからそういう生き方……を、あ、ええと……」
 津田は自分の言葉の終着点を見つけられず、黙って俯いてしまった。武藤も目線を落とし思案して黙っている。白い屋上の床の上、青い影が緩やかに伸びて津田の足元に落ちた。山の手の木々からトビの声が聞こえる。緩やかな涼しい風が二人の腕を通り抜けてゆく。津田にはお互いの黙っている時間が無限のように感じられた。
 しばらくして、武藤は津田に目線を戻した。津田は思わず口を開いた。
「すいませんっ……なんか、」
「ありがとう」
 その瞬間、武藤は微笑んだ。津田は目を丸くした。
「はは……なんて言えば良いのかな?そんなふうに感謝されるのは初めてだから……わからないけど、でも嬉しいよ」
 武藤は気恥ずかしそうに、目線を動かした。しかし言葉には確かに感情が詰まっているのを津田も感じていた。
「もっと柔らかくなればいいのにって言われたことはたくさんあるけど……真面目なことをそんな風にまっすぐ誉められたのは初めてだよ」
どこか遠くを見るように武藤は語った。津田はその横顔を見て不思議に思った。
「……せ、先生方はよく武藤さんの真面目っぷりを褒めるじゃないですか?別に俺が初めてでしょうか」
「……」
 武藤は黙ってこちらを見たが、すぐに苦笑して目線を外した。ももに肘をつき身をかがめて、ため息をつくように話し始める。
「うん……大人には褒めるよ。でもそれって……こんな言い方は良くないけど……それは大人にとっては僕みたい人間の方が好ましいからだと思う。大人と……同級生とか、後輩とか同じ世代の褒め言葉って全然違うよ」
 津田は武藤の絶妙な言葉使いを意外に思った。彼のような人でも、自分が思っているより、ずっと色々と悩むところがあるのだろうか?
「……」
「あー、でもそう考えると、君のことも心配になってくるな。生真面目すぎると、きっと苦労をするから」
 冗談を言うような武藤の言葉に、津田ははっきりとした声で答えた。
「そんな……自分は、たとえそれで損や苦労をするとしても、真面目に胸を張って生きますよ!武藤さんだってそうしたいでしょう?」
「……」
 その真摯な言葉に、武藤は驚いたように顔を上げて津田を見た。
「……うん、ああ!そう、だね……」
 武藤は身を起こして、はにかむような笑顔で頭をかいた。そして、自分に喝を入れるように胸を叩く。
「君の言うとおりだ!うん、せっかく君に……こんなに尊敬されてるってのに、僕がこんな気弱なことを言うようじゃダメだな!」
 どこか満足そうなその言葉に、津田もどこか嬉しくなってしまう。津田は武藤の自信に満ちた姿が好きだ。武藤には、真面目で、それでいて威風堂々とも言える態度で生きていて欲しかった。人に生き方を求めるなんて、大層なわがままだとは津田も自覚していたが、その姿に生き方を訓示された男がここにいるのだ。武藤には、高校を出て、そしてきっといつかこの社会へ出る時になっても、そういう姿でいて欲しかった。
「ありがとう。津田君。はは、なんだか天王山前に良い勇気をもらえた気がする!」
「はい!……たとえ応援団を辞めたとしても、俺はずっと先輩のこと、応援してますから!」
 太陽の眩い光が白い床に反射し、手すりの金属光沢に眩く光る。雲が切れ切れに飛ぶ青い空、煌めく光が爽快で晴れやかなる風景を写していた。

 

「それで?例の弁当、うまくいった?」
 五限の英語が終わった後、万代が津田の肩を叩いて声をかけた。津田は満足そうに親指を立てた。
「おう!そうだよ、あの焦げた卵焼き……武藤さんにむしろ喜ばれたんだ!お前の助言あってこその決断だった……本当にありがとうな!」
 津田は拳を握りながら嬉しそうに報告する。万代もにこやかにそれを聞いた。武藤先輩は気難しいところもある先輩だと聞いていたので、内心では少し心配していたが、昼休み明けの津田の顔を見て、きっとうまく行ったのだろうと万代も安堵していたのだ。
「あー、良いなぁ、先輩に手料理振る舞えるなんてなぁ。俺も文学部の先輩に何かしようかな」
「万代ならキャンプ行くか?夏なら川釣りに行くには最適だろ」
 その言葉に、万代は真面目に思案しだしたようだった。しばし考え込んでから、顔を上げる。
「うん……実は6月の自分の誕生日祝いに買ったグリル、まだ試してないんだけど、良かったら今週一緒に川釣りしないか?」
「つまり練習台になれと?」
 津田の皮肉に万代は苦笑する。
「いやぁ、お前は何食っても腹壊さなそうだからなぁ。でも寄生虫とかは俺だって食わせないように極力努力するから安心しろよ」
「まぁ……今日は世話になったし、俺も暇だから行くよ」
「よし!安心しろよ!俺も魚料理だけは自信あるから」
 嬉しそうに指を鳴らす万代を見ていると、津田も川釣りが楽しみになってくる。
「ああ、なんならもう今日の放課後行こうか?俺が夕飯作ってやる!」
「う、いや今日の放課後は無理だ」
「そうか……二年の先輩方いないけど、練習でもやるのか?」
 津田の意外な返答に万代は残念そうに肩を落としている。津田は少し申し訳なく思ったが、すでに別の予定があったのだ。
「今日の放課後は講堂の自習室行きたいんだよ。武藤先輩がいっつもそこで勉強してるらしいんだけど、よければ宿題でも持って来たらいいって」
「あぁ食堂の上にあるとこか!意外だなあそこ使ってる人始めて聞いた」
「うん、そこが広すぎるのに人が全然いなくて、伽藍堂で寂しいからお前も来いって」
 嬉しそうな津田に万代は少し面食らったようである。
「うおお、すごいなお前。なんかすごい先輩に好かれてんなぁ」
「はは……うん。まさか勉強に誘ってもらえるとは思わなかったから……今日直接話せて良かった」
 満更でもないようで、喜びが溢れている。
「応援団を卒業したって……これで終わりなんかじゃないし、そして高校を卒業したって、それも関係が終わるってことじゃない。武藤先輩が許してくれるなら、俺もできる限り力になりたいし……もっとあの人と話して、いろんな考え方を知りたい」
 実直というべきか、情熱的すぎるというべきか、しかしながらそれだけ他人を尊敬し応援できるのは、幸福なことかもしれないと万代は思わず微笑ましくなった。万代自身も文学部の部長――米山梅吉の博愛思想には非常に尊敬してやまないので、津田の熱烈な感情はよく分かるのだ。
「それなら俺も今日はそこに行こっかな。今日の英語の文章題やばそうだったし」
「あぁ!あれなぁ、二人で手分けしてやるか?前後半分けて和訳しようぜ」
「自習室あんまり話せないからなぁ、紙交換して書くかぁ……」
 二人が宿題の攻略計画を立てようとした矢先、ドアから生物教師の高辻が入ってきた。もうすぐチャイムが鳴る。万代はすぐさま津田に手を降って立ち上がり、自分の席に戻っていく。今日の結果を聞くように高辻がこちらを伺いみたので、津田は自信げに親指を立てた。高辻も嬉しそうに笑った。
色々と紆余曲折はあったが、自分の思いを達するどころか、むしろ武藤との距離をさらに縮めることができたのだ。一人で迷うよりも、ずっといい結果を得られただろう。津田の胸には達成感で満ちていた。

 山の手のトビが高らかな声を上げて大きな影が森の中から飛び出した。さらにもう一羽のトビがおぼつかない腕を広げながらも、その後に続いていく。夏木立の新樹は日差しを受けて青々と輝き、飛び立つ彼らを見守っていた。まさに清々しい夏晴れの日であった。

 

元ネタ解説
  • 山口八左右二年生!?:山口八左右は武藤(1868)の一つ下(1869)なので、普通は三年生にするべきだったな……ておもう。福原(1874)は八つ程離れているので二年生も妥当か。
  • 山口と福原と高辻奈良造&津田:山口は津田を採用した際の面接官、福原は津田が兵庫工場に併設された織布試験工場へ行った時の工場長、津田に目をかけ主任にする。高辻奈良造もその時代の津田を見て以降津田を重用。(石黒英一『大河 津田信吾伝』p.44-46)
  • 生物担当教師高辻:工学部機械科出身なのに生物の先生?妙だな……🤔(つまりあまり深く考えていない。水質の調査してたから生物の先生にしてもいた……)ちなみに慶応元年生まれらしいので、史実では武藤とは三つか四つしか変わらない(ルーブル社出版部編『大日本人物名鑑(巻5の1)』p.115)
  • 可愛くない津田:津田の社長就任時、監査役の面々とは10以上歳が離れていたが、何かを言われても人を食った言い方でやり返していた。(石黒英一『大河 津田信吾伝』p.74)
  • 武藤の弁当云々:武藤は結婚した時から千代子夫人の作った弁当を持って通勤していたことで有名。武藤が女工のために車を貸したと言うエピソードでも、千代子夫人の弁当について言及するものが多い。(一例:澤野廣史『恐慌を生き抜いた男 評伝・武藤山治』p.97)
  • 津田の料理の腕:小説の都合上の設定であって、史実に基づくものではない。(えぇ……😲)
  • 世界史の教師担当豊川:豊川は名が示す通り中国史に関心が強いので。要するに……設定を深く考えてないってこと⁉️😠
  • 池田と日々の昼飯:史実に沿ったものではない。日々が三井銀行の支店長時代、月に一度、大阪へ寄るときは池田成彬の元に行って種々のことを夜通しで話し、寝泊まりするのが一番の楽しみであったと言う記述より発想。(池田成彬『財界回顧』p.213)
  • 池田の理数志望設定:「生まれ変わったら建築家か医者になりたい」池田成彬の発言より(今村武雄『池田成彬伝』p.179)
  • 万代と津田の関係:万代が自称するには、津田と彼は親友らしい。(佐々木邦『在りし日』p,301)
  • 朝早過ぎ万代:万代、どこにいても早起き朝散歩してる。(一例:佐々木邦『在りし日』p,364)
  • 歩きで登校する万代:歩いて片道40分の道をスーツで銀行に通うの、万代強すぎかな?(佐々木邦『在りし日』p.188)
  • 津田「自分から何かするわけではない」:学生時代は取り立てて秀才ではないが、寡黙型できちんとして腕白な真似をしない性格だった。大学での専攻決めは友人の誘いによるものであったが、卒業成績は優良であった。(石黒英一『大河 津田信吾伝』p.39-43)
  • 津田「趣味がない」:津田が武藤の骨董趣味をそのまま写していると言われたのはあまりに有名。しかし武藤が天平藤原党であったのに対し津田は光琳党である。また、津田は骨董のほか書も趣味であったが、これも武藤と同じ趣味か。ここにおいても、武藤が特徴のあるヘタウマタイプであったのに対し、津田は真っ当に字が上手かったようだ。同じ趣味といえども完璧に同じではない。(武藤治太『カネボウの興亡』p.156、石黒英一『大河 津田信吾伝』p.291-294)
  • 万代の料理:料理の腕……はわからないが、魚釣りが子供の頃から大好きであり、少年期はその獲物の数があまりに多すぎて、釣ってきた子供たち自身で料理させるところまでやらされていた模様。(佐々木邦『在りし日』p.23、585-587)

    後書き
    AIで書こうとしたら一文引用して終わりました。ダメだったんだ。自我を抑えきれなかった。AIでいいものが描けるとむしろ自分で描きたくなってしまうので結局ダメっていうね。皆さんもこのように(どのように?)して財界の小説書いてください。

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